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【第六部:終わりと始まり】第九章

記憶の解放

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 反射的に、リキュスがエルシャの手を振り払った。

「なぜ、そのことを……」

 初めて、リキュスの目に警戒にも似た色が宿った。しかし、ここでやめるわけにはいかない。

「ナキア殿は、亡くなる間際に、自分のかけらを取り出しておまえの背中に埋めたんだ。おまえの記憶になくても、ワーグナは当時のことを覚えていた。ナキア殿が、ナイフでおまえの背中に――」

「やめてください!」

 リキュスが大声を出した。両手で頭を押さえている。その額には脂汗が浮いていた。

「かけらなど、私は……!」

 リキュスが膝をついた。エルシャがすかさずその両肩を掴む。

「思い出せるはずだ! おまえの受け継いだかけらは、封印のかけらだ。おまえは忌まわしい最期の記憶を、自ら封印したんじゃないのか!? 封印の力とはすなわち解放の力だ。自分の記憶を解放してみろ!」

 リキュスは固く拳を握りしめ、全身を震わせた。

「最期の……記憶――」

 そういいかけると、リキュスは突然呻き声をあげて胸を押さえた。

「リキュス……!」

 苦しそうに悶えるリキュスの体を支える。
 母親の最期を思い出そうと、記憶の中で戦っている。その姿が、フェランがイルマで十三年前の記憶を取り戻したときと重なった。一瞬、エルシャの中に迷いが生まれた。
 今思い出せば、リキュスの協力が得られ、イシュマ・ニエヴァの解放に近づくかもしれない。しかし、これほど強烈な記憶の負荷に、リキュスの心は耐えられるのか。唐突過ぎる状況をリキュスが受け止められるよう、猶予を与えるべきではないのか。

「リキュス、しっかりしろ! 大丈夫か」

 抱きかかえるエルシャの腕の中で、次第にリキュスの震えが収まっていった。荒々しかった呼吸も、徐々に整い始める。

「……リキュス?」

 ゆっくりと、リキュスが体を起こした。

「――大丈夫です。申し訳ありません……」

 いつもの落ち着いた声音に戻っていた。エルシャが慎重にリキュスの様子を窺う。リキュスは大きく息をした。

「……ときどき、なるのです。急な動悸や頭痛がして……しばらく、記憶が飛んでしまう……。誰にも、いえませんでしたが……これも、かけらの影響なのでしょうか」

 エルシャは息を呑んだ。

「思い出したのか? かけらのことを……」

 リキュスは首を横に振った。

「残念ながら、思い出せません。しかし……背中に傷があるのは、事実です。私は、兄上のおっしゃることを、事実として受け止めなければならない――そうでしょう?」

 リキュスの目から、感情は読み取れなかった。

 彼は、感情を殺すことで、ずっと自分の心を守ってきたのかもしれない。

 エルシャはそう思った。

 だとすれば、俺がこれ以上追いつめると、リキュスはどうなる――?

「私は……どうすればいいのでしょうか」

 リキュスがいった。

「私は、一国の王。残念ながら、兄上の旅に同行することはできません。背中のかけらを取り出して、差し上げればよろしいのでしょうか」

 冷静な口調だ。聡明なリキュスは、予想だにしなかった状況ですら自ら昇華し、すでに理性を取り戻して的確な対応をしようとしている。それが、なぜか不穏に感じられた。
 ためらいながら、エルシャはいった。

「いや、かけらを渡してほしいわけではない。神のかけらは全部で十二個だが、実は……おまえのかけらが、最後のひとつなんだ。おまえがかけらの力で、ナイシェの中に閉じ込められている少年を解放してくれたら、すべてのかけらがひとつになり神が復活することができる。おまえには、ナイシェの中の少年を解放してほしい」

 リキュスは、眉をひそめてエルシャを見た。

「私で……全員、揃うのですか?」
「そうだ。悪魔が復活する前に、何としても少年を解放してもらわなければならない。だが、この宮殿の中、それも王族に近い人間の中に、悪魔の手先が紛れ込んでいる。おまえが最後のひとり、しかも封印の民だと知れれば、おまえは間違いなくそいつに命を狙われる。だから、一刻も早い決断が必要なんだ」

 リキュスは難しい顔をしたまま頭を振った。

「私が、神の民で……少年を解放する力を持っていて……敵に命を狙われていて……一刻を争う、と? さすがに、理解を超えた話ですね。兄上のいうことはすべて信じております、しかしすぐにその全貌を理解するのは……。だいたい私は、かけらを持つ自覚もないうえに、その使い方も知らない。まったく、実感がありません」

 エルシャはうなずいた。

「だから、ナキア殿との間にあったことを思い出せれば話が早いかと思ったが……すまない、事を急ぎ過ぎたようだ。おまえの心は、まだそのすべてを受け入れる準備ができていないのかもしれない……」

 リキュスがかすかに笑った。

「兄上が謝ることではありません。私にできることがあるのなら、何でも協力したい。それが本心です。私が兄上に恩返しできるとしたら、今しかない。ただ……おっしゃるとおり、私の体が追いついていない」

 リキュスはふらつく足取りでゆっくりと立ち上がった。その体を支えるエルシャの腕に、リキュスはそっと手を添えた。

「……時間をください、兄上」

 その瞳が、エルシャを見つめて揺れていた。

「必ず、期待に応えてみせます。ただ、その準備ができるまで……。そんなにかかりません、落ち着けば、すぐにでも……。きっと記憶を取り戻し、かけらの持つ力を、使ってみせます。ですから、あと少しだけ……時間を、いただけますか」

 いつもは感情を映さないリキュスの目に、エルシャは確かに感じ取った――わずかな迷いと恐怖、そして、確固たる意志の光を。
 エルシャはリキュスの目を見つめていった。

「おまえを、信じている。いいか、身の安全には気をつけるんだぞ。そして、周りの誰にも気を許すな。何かあれば俺を頼れ」

 そして、リキュスの肩に腕を回すと、力強くその体を引き寄せた。

「――おまえは、俺の自慢の弟だ。おまえの兄でいられることを、誇りに思う」

 リキュスはそれに応えるようにエルシャの体に手を添えると、すぐに身を離した。黙って一礼し、踵を返す。歩き去るその後ろ姿は、すでに国王の威厳を取り戻していた。
 弟の背中はいつの間にか大きく成長し、すでに兄の手など必要ないようにすら見えた。リキュスが見えなくなっても、エルシャはその残像を見つめ続けていた。
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