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【第六部:終わりと始まり】第九章

背中の傷跡

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 空が灰色にくすんでいる。太陽の光が届いていない。それは、空全体にかかる薄雲のせいなのか、それともサラマ・エステを覆う黒雲のせいなのか。

 天を見上げながら、エルシャは思った。まだ午前中だというのに、気の滅入る空模様だ。

 エルシャはゆっくりとあたりを見渡した。背の高い植林に囲まれた、広い草原。その草の丈はエルシャの膝にも到底届かないが、それでも幼いころはまるで秘密基地か不思議な魔力を持つ聖域のように感じていた。曙宮の裏庭から続くこの草原は、昔から大好きな遊び場だった。

 そういえば、あの日かくれんぼしていたのも、ここだった。

 エルシャは思い出していた。

 乳母のミニヤが現れ、嫌がるリキュスを連れて行ったあの日。あのあと、ナキアが亡くなったのだ。まさかそのとき、二人の身にあんな事態が起きていたなんて夢にも思わなかった。それだけではない。あのときは、リキュスが同じ父親から生まれた兄弟だと信じて疑わなかったし、ジュノレが女であることも知らなかった。テュリスは昔から利己主義だったが、それでも幼いころはともに遊んでいた。まさか、同じいとこのジュノレの命を狙うようになるなんて思いもしなかったし、リキュスが国王に選ばれたり、自分が神官となりサラマ・アンギュースを探すことになるなど、想像すらできなかった。

 静かな草原は、時折吹く風が外れの音を奏でる程度で、そのすべてが、幼いころの思い出とまったく変わらなかった。

 もうすぐ、かけらがすべて揃い、神が復活する。神は、取り戻した自らの力によって、今度こそ悪魔を封印するのだろうか。

 神の記憶をその身に宿すようになってから、漠然と疑問に思っていたことだった。

 神の創造した世界は、とても美しかった。緑が溢れ、大地、水、風、すべてが調和し息づいていた。その姿は、かつてエルシャが訪れた村、サラマ・レーナそのものだった。サラマ・レーナは、神の民がかけらの力を使って創り上げた聖なる村で、住むのは悪意から逃れようとした神の民の末裔だった。そこに闇の入る余地はなく、心を打つほど美しく穏やかな世界だった。神が大昔に創造したのは、そういう世界だった。しかしいつしか世界に闇が生まれ、人間の心にも闇が侵蝕したとき、神は決断を迫られた。

 エルシャの中にあるのは、神の記憶すなわち世界の歴史であり、神の感情ではない。自らの世界がけがれゆくさまを見て、いったい神は何を思ったのか。人間の悪しき心を一度は封印し、やがて解放した。はびこる闇をただ見守り、人間に世界を託した。くつがえった決断の裏にある迷いと真意は、いったい何なのか。

 ちっぽけな人間の頭では、到底考えも及ばない。第一級神官のエルシャにとって、神は今なお遠い存在だった。

 十二のかけらが揃ったら、そのあとどうなるのか。
 神は悪魔を倒し、再び人間の善意を信じて世界を託すのか。悪魔の血の流れる人間をもその粛清の対象とするのか。あるいは、すべてを壊し、世界を一から創り直すのか――。

 果たして、神にとって人間とはどれほどの存在なのか。膨大な神の記憶をいくら辿っても、その答えは決して見えないのだ――。

 不意に、草を踏みしめる音が聞こえた。振り返ると、リキュスが立っていた。

「また、二人きりになれましたね、兄上」

 相変わらず穏やかな口調とまなざしだ。
 エルシャは無意識に生唾を飲み込んだ。

 もう、あとには引けない。

「……医師の診察を受けたそうだな。大丈夫なのか」

 エルシャの問いに、リキュスは困ったように微笑んだ。

「皆、大げさなのですよ。血液まで採取されましたが、異常はありませんでした。ワーグナなどは私が密かに毒を盛られているとでも勘ぐっていたようですが、そういった成分も見つかりませんでしたよ」
「そうか……」
「それで、お話とは? 近衛兵は裏庭の入り口で待機させていますから、大丈夫ですよ。私ひとりで息抜きしていることになっています。兄上のことも、誰にも話していません」
「手間をかけさせてすまないな」

 確かに、衛兵の気配は感じない。ここからは見えないが、エルシャ側の見張りも二人、近くに待機しているはずだ。何かあればすぐに飛び出し、エルシャやリキュスを守れる態勢になっている。選ばれたのは、剣の腕がたつゼムズと、破壊の力を有するナイシェだった。
 エルシャは覚悟を決めると、リキュスに近づいた。

「おまえは、俺の使命については知っているな」
「ええ、サラマ・アンギュースを探しておられるのでしょう」

 リキュスの表情は変わらない。

「……この一件に、おまえも絡んでいることがわかった」

 そう告げると、リキュスはわずかに眉をひそめた。

「私が……? 私にも何か、協力できるということですか?」

 エルシャはひとつ深呼吸をしてからいった。

「驚かずに、聞いてほしい。いいか、リキュス。おまえの体には、神のかけらが埋まっている。おまえは、サラマ・アンギュースなんだ」

 リキュスの表情に、やはり変化はない。突拍子もない話で、驚くどころか信じてすらいないようだ。

「兄上……どういうことですか。私の父上か母上が、サラマ・アンギュースだったということですか? しかし私は、どちらからもかけらなど頂いておりません。何かの間違いでは?」
「いや、真実だ。おまえの家系図を確認した。おまえの母親は――ナキア殿は、神の民だったんだ」

 リキュスの顔から笑みが消えた。何か思いだすように、視線が宙へ向けられる。

「……あのとき兄上のご様子がおかしかったのは……そういう事情でしたか……」
「俺たちは、旅の途中で偶然、ナキア殿の祖父に当たる人物と出会った。その男性の話から、ナキア殿がかけらを持っていることがわかった」
「しかし私は、母からそのようなものは受け取っていません」
「本当か、リキュス。よく思い出せ。おまえがナキア殿と、最後の別れをしたときのことを」

 エルシャはリキュスの腕を掴み、強い声でそういった。

「おまえはそのとき、ナキア殿から受け取ったはずだ。覚えがあるだろう? おまえの――背中の、傷跡だ」
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