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【第六部:終わりと始まり】第八章
リキュスの発作
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執務室に戻ったが、リキュスは目の前の書類に集中できずにいた。
忙しい合間を縫って、エルシャに会えたことはよかった。王位継承など考えなくてよかったころは、エルシャとの関係に満足していたが、あえてそれを口にすることもなかった。むしろ、口にすることでそれまでの均衡が崩れそうな気がしていた。自分は、弟しては可愛げもないし、よそよそしすぎることも自覚している。感情を表に出すことが苦手な分、他人には誤解されやすいこともわかっている。しかし、それでもいいと思っていた。自分がどれほど努力したところで、妾の息子、貴族に取り入った浅ましい女の子供という周囲の偏見が変わることはない。いつの間にか、周囲にどう思われるかなど気にしないようになっていた。そんな自分がここまで宮廷に受け入れられるようになったのは、ひとえに人徳者であるエルシャとその母リニアの振る舞いのおかげだった。
ずっといえなかった言葉を伝えることができた。満足しているはずなのに、どうも心が落ち着かない。エルシャの様子がおかしかったからだろうか。それとも、今では思い出すこともほとんどない母ナキアの話になったからだろうか。
分厚い書類を眺めていてもまったく頭に入らない。リキュスは席を立って窓際へ移動した。
母ナキアの最後の顔を思い出す。母は笑みを浮かべて、愛しているといった。確かに、笑顔だった。しかし、どこか思い詰めているようでもあった。
――いい子だから、最後にお母さんのお願いを聞いてちょうだい。
そのようなことをいわれた気がする。しかし、肝心なその内容を覚えていない。死に際の母の願いを忘れるなんて、ずいぶんと薄情な息子だ。
「最後の……お願い……」
反芻してみた。ふと、ナキア死後の療養中の記憶が蘇る。
――母君に、何といわれましたか。
――母君は、何か持っておいででしたか。
――本当に、覚えていないのですか。
当時、幾度となく訊かれた質問だ。確か、そのときはまだ宮廷長ではなく宮廷執務長だったワーグナが繰り返し聞き取りに訪れ、覚えていないというと、どこか安堵の表情を浮かべていたような――
突然、胸が締めつけられるように痛んだ。思わず膝をつく。
発作だ。何とか鎮めなければ。
意識して大きく深呼吸をする。それも痛みで途切れがちになる。心臓が制御を逸して暴れ回り、額に脂汗が浮く。
オモイダスナ。
頭の奥のほうで、聞こえた気がした。
オモイダスナ、オモイダスナ――
頭痛がする。視界がかすみ、呼吸が浅くなる。
だめだ、今意識を失うわけにはいかない。
歯を食いしばって苦痛に耐える。息ができない。手足が震え、その場に倒れ込んだ。
「――陛下! 国王陛下!」
耳元で、誰かの叫ぶ声が聞こえた。目を開けると、ワーグナがいた。
「陛下! 気づかれましたか!」
執務室の扉が開け放たれ、ワーグナが倒れたリキュスの両肩を支えるようにして顔を覗き込んだ。
「ワーグナ……なぜここに……」
かすれた声が出る。
「会食のお時間でしたのでお呼びに参りました。お返事がなかったものですから、勝手に入らせていただきました。陛下、どうなさいましたか」
リキュスは時計を見た。
大丈夫だ、最後に確認してから五分と経っていない。頭痛も胸痛も消えている。ワーグナのおかげで、何とかやり過ごせたか。
「……大丈夫だ、立ち眩みだろう。心配をかけたな」
立ち上がりそのまま上着を取りに行こうとするリキュスを、ワーグナが制した。
「いけません、陛下! 今日という今日は、私めの申すことをお聞きください。会食は中止です、すぐ医師を呼びます」
「大げさだな。私はもう何ともないんだ、医師などいらない」
「いいえ! 必ず、診察を受けていただきます。ただの立ち眩みと医師が判断すればそれで結構。とにかく、一国の王たる者、何かあってからでは遅いのです」
珍しくワーグナが引かない。リキュスの進路を塞ぐように立ち、険しい目を向けてくる。リキュスはそんなワーグナを見て、ため息をついた。
「……わかった。だが、医師を呼びつけるのは大げさだ。私のほうから出向く。それでいいだろう」
さすがに、意識を失って倒れたところを見られては、何でもないで済ますことはできない。どうせ医師の検査を受けるなら、こちらから出かけたほうが早く済むというものだ。
ワーグナはほっとしたように肩を下ろした。
「では参りましょう、陛下」
リキュスはワーグナとともに、執務室からほど近い王族専用医務室へと向かった。
光宮を出た渡り廊下で、ジュノレとすれ違った。ジュノレはすぐにリキュスの異変に気づいたようだった。眉間にしわが寄る。
「リキュス、何かあったのか? 顔色が悪いぞ」
リキュスは無理に微笑んで見せた。
「いえ、大丈夫です。最近少し疲れが取れにくいようで、今から無理やり医務室へ連れていかれるところですよ」
ジュノレはリキュスからワーグナへ視線を移した。表情を変えず、慎ましく佇んでいる。
「無理はするなよ。おまえに倒れられたら、私が困る」
「心得ております」
リキュスは笑った。
すれ違いざま、ジュノレの後ろにつく侍女マリアの横に、見慣れない子供がいることに気づいた。
「……新しい使用人ですか?」
そう声をかけると、通り過ぎようとしていたジュノレが振り返った。リキュスが、マリアの横にいる黒髪の少女を見ている。
「ああ、まだ紹介していなかったね。侍女見習いのティアラだ。マリアの遠縁の親戚にあたるんだが、まだまだ勉強を始めたばかりだ。ティアラ、ご挨拶を。我らが国王、アルマニア七世陛下だよ」
黒髪の少女はびっくりした素振りで頭を下げた。
「ティ、ティアラと申します。お目にかかれて光栄です」
リキュスの口元がほころんだ。
「マリアが教育係なら、間違いないね。立派に働きなさい」
「――陛下、そろそろ……」
ワーグナが声をかける。リキュスは肩をすくめて苦笑した。
「最近ワーグナは手厳しいんだ」
冗談めかしてそういうと、リキュスは廊下を医務室のほうへと去っていった。その後ろ姿を、ジュノレは黙って見つめていた。
忙しい合間を縫って、エルシャに会えたことはよかった。王位継承など考えなくてよかったころは、エルシャとの関係に満足していたが、あえてそれを口にすることもなかった。むしろ、口にすることでそれまでの均衡が崩れそうな気がしていた。自分は、弟しては可愛げもないし、よそよそしすぎることも自覚している。感情を表に出すことが苦手な分、他人には誤解されやすいこともわかっている。しかし、それでもいいと思っていた。自分がどれほど努力したところで、妾の息子、貴族に取り入った浅ましい女の子供という周囲の偏見が変わることはない。いつの間にか、周囲にどう思われるかなど気にしないようになっていた。そんな自分がここまで宮廷に受け入れられるようになったのは、ひとえに人徳者であるエルシャとその母リニアの振る舞いのおかげだった。
ずっといえなかった言葉を伝えることができた。満足しているはずなのに、どうも心が落ち着かない。エルシャの様子がおかしかったからだろうか。それとも、今では思い出すこともほとんどない母ナキアの話になったからだろうか。
分厚い書類を眺めていてもまったく頭に入らない。リキュスは席を立って窓際へ移動した。
母ナキアの最後の顔を思い出す。母は笑みを浮かべて、愛しているといった。確かに、笑顔だった。しかし、どこか思い詰めているようでもあった。
――いい子だから、最後にお母さんのお願いを聞いてちょうだい。
そのようなことをいわれた気がする。しかし、肝心なその内容を覚えていない。死に際の母の願いを忘れるなんて、ずいぶんと薄情な息子だ。
「最後の……お願い……」
反芻してみた。ふと、ナキア死後の療養中の記憶が蘇る。
――母君に、何といわれましたか。
――母君は、何か持っておいででしたか。
――本当に、覚えていないのですか。
当時、幾度となく訊かれた質問だ。確か、そのときはまだ宮廷長ではなく宮廷執務長だったワーグナが繰り返し聞き取りに訪れ、覚えていないというと、どこか安堵の表情を浮かべていたような――
突然、胸が締めつけられるように痛んだ。思わず膝をつく。
発作だ。何とか鎮めなければ。
意識して大きく深呼吸をする。それも痛みで途切れがちになる。心臓が制御を逸して暴れ回り、額に脂汗が浮く。
オモイダスナ。
頭の奥のほうで、聞こえた気がした。
オモイダスナ、オモイダスナ――
頭痛がする。視界がかすみ、呼吸が浅くなる。
だめだ、今意識を失うわけにはいかない。
歯を食いしばって苦痛に耐える。息ができない。手足が震え、その場に倒れ込んだ。
「――陛下! 国王陛下!」
耳元で、誰かの叫ぶ声が聞こえた。目を開けると、ワーグナがいた。
「陛下! 気づかれましたか!」
執務室の扉が開け放たれ、ワーグナが倒れたリキュスの両肩を支えるようにして顔を覗き込んだ。
「ワーグナ……なぜここに……」
かすれた声が出る。
「会食のお時間でしたのでお呼びに参りました。お返事がなかったものですから、勝手に入らせていただきました。陛下、どうなさいましたか」
リキュスは時計を見た。
大丈夫だ、最後に確認してから五分と経っていない。頭痛も胸痛も消えている。ワーグナのおかげで、何とかやり過ごせたか。
「……大丈夫だ、立ち眩みだろう。心配をかけたな」
立ち上がりそのまま上着を取りに行こうとするリキュスを、ワーグナが制した。
「いけません、陛下! 今日という今日は、私めの申すことをお聞きください。会食は中止です、すぐ医師を呼びます」
「大げさだな。私はもう何ともないんだ、医師などいらない」
「いいえ! 必ず、診察を受けていただきます。ただの立ち眩みと医師が判断すればそれで結構。とにかく、一国の王たる者、何かあってからでは遅いのです」
珍しくワーグナが引かない。リキュスの進路を塞ぐように立ち、険しい目を向けてくる。リキュスはそんなワーグナを見て、ため息をついた。
「……わかった。だが、医師を呼びつけるのは大げさだ。私のほうから出向く。それでいいだろう」
さすがに、意識を失って倒れたところを見られては、何でもないで済ますことはできない。どうせ医師の検査を受けるなら、こちらから出かけたほうが早く済むというものだ。
ワーグナはほっとしたように肩を下ろした。
「では参りましょう、陛下」
リキュスはワーグナとともに、執務室からほど近い王族専用医務室へと向かった。
光宮を出た渡り廊下で、ジュノレとすれ違った。ジュノレはすぐにリキュスの異変に気づいたようだった。眉間にしわが寄る。
「リキュス、何かあったのか? 顔色が悪いぞ」
リキュスは無理に微笑んで見せた。
「いえ、大丈夫です。最近少し疲れが取れにくいようで、今から無理やり医務室へ連れていかれるところですよ」
ジュノレはリキュスからワーグナへ視線を移した。表情を変えず、慎ましく佇んでいる。
「無理はするなよ。おまえに倒れられたら、私が困る」
「心得ております」
リキュスは笑った。
すれ違いざま、ジュノレの後ろにつく侍女マリアの横に、見慣れない子供がいることに気づいた。
「……新しい使用人ですか?」
そう声をかけると、通り過ぎようとしていたジュノレが振り返った。リキュスが、マリアの横にいる黒髪の少女を見ている。
「ああ、まだ紹介していなかったね。侍女見習いのティアラだ。マリアの遠縁の親戚にあたるんだが、まだまだ勉強を始めたばかりだ。ティアラ、ご挨拶を。我らが国王、アルマニア七世陛下だよ」
黒髪の少女はびっくりした素振りで頭を下げた。
「ティ、ティアラと申します。お目にかかれて光栄です」
リキュスの口元がほころんだ。
「マリアが教育係なら、間違いないね。立派に働きなさい」
「――陛下、そろそろ……」
ワーグナが声をかける。リキュスは肩をすくめて苦笑した。
「最近ワーグナは手厳しいんだ」
冗談めかしてそういうと、リキュスは廊下を医務室のほうへと去っていった。その後ろ姿を、ジュノレは黙って見つめていた。
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