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【第六部:終わりと始まり】第八章
最後のひとりの正体
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図書室での調査が始まってから、二週間が過ぎた。日に日に疲労が増し、記録書の細かい字がぼやけて見えるようになった。すでに公爵の記録まで目を通した。しかし、バスコやアデリアの名は見つけられなかった。残るは王族だけだ。
王族の記録は、人数が少ない分確認は容易だが、裏腹にエルシャは落胆を感じていた。
恐らく、王族の家系図に彼らの名前は見つからない。
漠然と、そう思っていた。王族は現在二十人程度しかいない。普段から接触のある者たちばかりだから、大体の家族構成も頭に入っている。エルシャの知る限り、自分の親ほどの世代で、身重の町娘をめとった王族などいなかった。そもそも王族が貴族以外の人間を宮殿に迎え入れることなど、極めて稀だ。王族の記録に、バスコやアデリナの名があるはずはなかった。
それでも、実際に記録を確認して裏付けを取らねばならない。
エルシャは、特殊書庫に誰もいないことを確認すると、おもむろに王族の家系図を開いた。左から右、上から下へと、指で順に名前を追っていく。追いながら、この先待っているだろう展開を予想する。
結局、貴族の記録の中に、彼らの名前など見つからない。それは、ミルドの情報が嘘だったわけではなく、貴族外からの入籍者の母親や祖父など、記録するに値しないからだ。これから自分たちは、正体を隠してひっそりと生きているオルセノを、別の方法で探し出さなければならない。
しんと静まり返った特殊書庫で、紙をめくる音だけが規則的に響く。集中力を何とか保ちながらひたすら名を追うエルシャの指が、ぴたりと止まった。かすむ目をしばたたかせて、分厚い記録書に顔を近づける。
バスコの名があった。
どくんと心臓が跳ね上がる。
そのまま右へ指を滑らせると、そこにはシャニアとあった。知らない名だ。次に、指を下へと動かす。バスコとシャニアの名が線でつながれた先には、アデリアと書いてあった。
指が震え始める。
間違いない。バスコの娘、アデリアだ。つまり、アデリアの娘は、王族に嫁いでいたのだ。
そんな話は聞いたことがない。いや、自分が子供のころの出来事だ、ただ聞かされていなかっただけかもしれない。
エルシャは再び指を下へ動かした。
王族に嫁いだ町娘とは、誰だったんだ――?
その名を見たとき、エルシャは愕然とした。
「そんな……まさか」
思わず声が漏れる。
ナキア・マーレイン。
そう書かれていた。
「ナキア……だと……!?」
呻いた声が震える。もう、指で追う必要もなかった。エルシャは記録書を凝視した。ナキアの左に描かれた名は、アルクス・ガルシア。そしてその二人から伸びた線は、リキュスの名に繋がっていた。
封印の民だったアデリアの娘は、ナキアだった。そしてナキアから生まれたのが、一人息子のリキュス――。
「……そんなはずはない」
エルシャは自分にいい聞かせた。
確かにナキアは、父であるアルクスがどこかの町から連れ帰った庶民の女だった。だが、ミルドの話にあった手紙のように、前の夫の子を身ごもっていたなんて話は聞いていない。いや、もしかしたらお腹の中の子は不幸にも無事生まれることができず、そのあと身ごもったのがリキュスなのかもしれない。
エルシャは、ナキアがアルマニア宮殿を初めて訪れたときのことを思い出そうとした。
春の花舞う穏やかな日に、父に連れられてやってきたその人は、控えめでやさしい笑顔を浮かべていた。春のように、穏やかな人だ――初めて会ったとき、そう思ったのだ。それからほどなくして、リキュスが生まれた。あれは、いつだったか? 確か、秋のはじめ――同じ年の、秋のはじめだ。
エルシャは頭の中で何度も確認した。
あのときはまだ子供で、気にもしていなかったが、ナキアは宮殿にやってきたとき、すでにリキュスを身ごもっていたのだ。そしてそれは、父アルクスの子ではなく、ナキアを捨てて消えた前夫の――。
「まさか……そんなことが」
じっとりと手に汗がにじむ。家系図のインクがにじみそうになり、エルシャは慌てて記録書を閉じた。
リキュスとは、腹違いの兄弟などではなかった。彼は、エルシャとは無関係どころか、一滴の貴族の血すら流れていない庶民の息子だ。
恐らくこのことを知っているのは、すでにこの世にいない父アルクスとナキアの二人だけだろう。リキュス自身も知らないに違いない。そして、ナキアは自分に埋めた封印のかけらを、いったいどこに――。
頭の中で、何かが弾けた。
「――そういうことか……!」
今ではワーグナしか知らない、ナキアの本当の最期。
ナキアは血だらけのナイフを手に、死んでいた。その腹は血に染まり、横には、背中に大きな傷を負ったリキュス。
「あれは……心中なんかじゃ、なかったんだ……」
体中の震えが止まらず、書庫内に響き渡るような音で心臓が早鐘を打っていた。口の中は渇き、落ち着くために無理やり唾を飲み込む。今更のように周囲を見渡した。誰もいない。人の気配もしなかった。
額の汗を手で拭い、エルシャはひとつ深呼吸をした。
ナキアは、封印の民だった。そして死の間際、そのかけらを幼いリキュスの背中に埋めた。サラマ・アンギュースの最後のひとり――それは、リキュスで間違いない。
しかし、それならなぜ、自分がサラマ・アンギュースを探していると知っていて、名乗り出ない?
そこで、ワーグナのいっていたことを思い出した。リキュスは、ナキアの死にまつわる記憶を失っている。恐らくは本人も、自分がサラマ・アンギュースだという自覚がないに違いない――そう、フェランのときのように。
そこで、何かが引っ掛かった。
フェランは、自分と出会う前の記憶を、ナリューン語とともに悪魔の手先に封じられていた。かけらを埋められた記憶もないから、自分がシレノスだということにも気づかないでいた。もしかしたら、リキュスも……?
頭の中を整理してみる。
いや、ワーグナのいっていたように、あまりの出来事に記憶を失ってしまったのかもしれない。幼い子供にとって、死にゆく母親にナイフで襲われるなど到底受け止められるものではない。あるいは、封印の民なだけに、許容しがたい記憶を自ら封印することも可能か。
どの可能性もあるように思えた。もしかしたら、冷静に考えれば答えはわかるのかもしれない。だが、少なくとも今のエルシャには、これ以上考えることはできそうになかった。
とにかく、リキュスがサラマ・アンギュースだと宮殿の人間に悟られないことだ。そして、リキュスと話をすること――。
突然、階段を踏みしめる靴音が地下に響いた。エルシャは跳び上がるほど驚き、慌てて手にしていた王族の記録書を書架に戻した。
誰かが下りてくる。平静を装わねば、平静を――。
王族の記録は、人数が少ない分確認は容易だが、裏腹にエルシャは落胆を感じていた。
恐らく、王族の家系図に彼らの名前は見つからない。
漠然と、そう思っていた。王族は現在二十人程度しかいない。普段から接触のある者たちばかりだから、大体の家族構成も頭に入っている。エルシャの知る限り、自分の親ほどの世代で、身重の町娘をめとった王族などいなかった。そもそも王族が貴族以外の人間を宮殿に迎え入れることなど、極めて稀だ。王族の記録に、バスコやアデリナの名があるはずはなかった。
それでも、実際に記録を確認して裏付けを取らねばならない。
エルシャは、特殊書庫に誰もいないことを確認すると、おもむろに王族の家系図を開いた。左から右、上から下へと、指で順に名前を追っていく。追いながら、この先待っているだろう展開を予想する。
結局、貴族の記録の中に、彼らの名前など見つからない。それは、ミルドの情報が嘘だったわけではなく、貴族外からの入籍者の母親や祖父など、記録するに値しないからだ。これから自分たちは、正体を隠してひっそりと生きているオルセノを、別の方法で探し出さなければならない。
しんと静まり返った特殊書庫で、紙をめくる音だけが規則的に響く。集中力を何とか保ちながらひたすら名を追うエルシャの指が、ぴたりと止まった。かすむ目をしばたたかせて、分厚い記録書に顔を近づける。
バスコの名があった。
どくんと心臓が跳ね上がる。
そのまま右へ指を滑らせると、そこにはシャニアとあった。知らない名だ。次に、指を下へと動かす。バスコとシャニアの名が線でつながれた先には、アデリアと書いてあった。
指が震え始める。
間違いない。バスコの娘、アデリアだ。つまり、アデリアの娘は、王族に嫁いでいたのだ。
そんな話は聞いたことがない。いや、自分が子供のころの出来事だ、ただ聞かされていなかっただけかもしれない。
エルシャは再び指を下へ動かした。
王族に嫁いだ町娘とは、誰だったんだ――?
その名を見たとき、エルシャは愕然とした。
「そんな……まさか」
思わず声が漏れる。
ナキア・マーレイン。
そう書かれていた。
「ナキア……だと……!?」
呻いた声が震える。もう、指で追う必要もなかった。エルシャは記録書を凝視した。ナキアの左に描かれた名は、アルクス・ガルシア。そしてその二人から伸びた線は、リキュスの名に繋がっていた。
封印の民だったアデリアの娘は、ナキアだった。そしてナキアから生まれたのが、一人息子のリキュス――。
「……そんなはずはない」
エルシャは自分にいい聞かせた。
確かにナキアは、父であるアルクスがどこかの町から連れ帰った庶民の女だった。だが、ミルドの話にあった手紙のように、前の夫の子を身ごもっていたなんて話は聞いていない。いや、もしかしたらお腹の中の子は不幸にも無事生まれることができず、そのあと身ごもったのがリキュスなのかもしれない。
エルシャは、ナキアがアルマニア宮殿を初めて訪れたときのことを思い出そうとした。
春の花舞う穏やかな日に、父に連れられてやってきたその人は、控えめでやさしい笑顔を浮かべていた。春のように、穏やかな人だ――初めて会ったとき、そう思ったのだ。それからほどなくして、リキュスが生まれた。あれは、いつだったか? 確か、秋のはじめ――同じ年の、秋のはじめだ。
エルシャは頭の中で何度も確認した。
あのときはまだ子供で、気にもしていなかったが、ナキアは宮殿にやってきたとき、すでにリキュスを身ごもっていたのだ。そしてそれは、父アルクスの子ではなく、ナキアを捨てて消えた前夫の――。
「まさか……そんなことが」
じっとりと手に汗がにじむ。家系図のインクがにじみそうになり、エルシャは慌てて記録書を閉じた。
リキュスとは、腹違いの兄弟などではなかった。彼は、エルシャとは無関係どころか、一滴の貴族の血すら流れていない庶民の息子だ。
恐らくこのことを知っているのは、すでにこの世にいない父アルクスとナキアの二人だけだろう。リキュス自身も知らないに違いない。そして、ナキアは自分に埋めた封印のかけらを、いったいどこに――。
頭の中で、何かが弾けた。
「――そういうことか……!」
今ではワーグナしか知らない、ナキアの本当の最期。
ナキアは血だらけのナイフを手に、死んでいた。その腹は血に染まり、横には、背中に大きな傷を負ったリキュス。
「あれは……心中なんかじゃ、なかったんだ……」
体中の震えが止まらず、書庫内に響き渡るような音で心臓が早鐘を打っていた。口の中は渇き、落ち着くために無理やり唾を飲み込む。今更のように周囲を見渡した。誰もいない。人の気配もしなかった。
額の汗を手で拭い、エルシャはひとつ深呼吸をした。
ナキアは、封印の民だった。そして死の間際、そのかけらを幼いリキュスの背中に埋めた。サラマ・アンギュースの最後のひとり――それは、リキュスで間違いない。
しかし、それならなぜ、自分がサラマ・アンギュースを探していると知っていて、名乗り出ない?
そこで、ワーグナのいっていたことを思い出した。リキュスは、ナキアの死にまつわる記憶を失っている。恐らくは本人も、自分がサラマ・アンギュースだという自覚がないに違いない――そう、フェランのときのように。
そこで、何かが引っ掛かった。
フェランは、自分と出会う前の記憶を、ナリューン語とともに悪魔の手先に封じられていた。かけらを埋められた記憶もないから、自分がシレノスだということにも気づかないでいた。もしかしたら、リキュスも……?
頭の中を整理してみる。
いや、ワーグナのいっていたように、あまりの出来事に記憶を失ってしまったのかもしれない。幼い子供にとって、死にゆく母親にナイフで襲われるなど到底受け止められるものではない。あるいは、封印の民なだけに、許容しがたい記憶を自ら封印することも可能か。
どの可能性もあるように思えた。もしかしたら、冷静に考えれば答えはわかるのかもしれない。だが、少なくとも今のエルシャには、これ以上考えることはできそうになかった。
とにかく、リキュスがサラマ・アンギュースだと宮殿の人間に悟られないことだ。そして、リキュスと話をすること――。
突然、階段を踏みしめる靴音が地下に響いた。エルシャは跳び上がるほど驚き、慌てて手にしていた王族の記録書を書架に戻した。
誰かが下りてくる。平静を装わねば、平静を――。
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