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【第六部:終わりと始まり】第八章
ナキアの最期
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ほかに誰もいない地下の書庫で、二人の間に重苦しい空気が流れる。
「……何が、あったのですか」
エルシャの問いに、ワーグナはもう一度ため息をついた。やがて、覚悟を決めたように話し出した。
「リキュス様の母君――ナキア様がお亡くなりになったときのことです。ナキア様は、最後にリキュス様と二人きりで話がしたいとおっしゃいました」
それはエルシャも覚えていた。まだ十歳くらいのころだった。エルシャはリキュスとジュノレと、曙宮の裏庭でかくれんぼをして遊んでいた。その途中で、乳母がリキュスを呼びに来たのだ――ナキアが危篤だからすぐ戻るように、と。嫌がるリキュスを連れて、乳母は去っていった。それから数日間、リキュスと会うことはなかった。ナキアの密葬が済み、久しぶりに会ったリキュスは、抜け殻のようになっていた――今思うと、リキュスが妙によそよそしくなったのは、あのころからだったかもしれない。
「リキュス様がナキア様の部屋に入室され、いくら待っても出ていらっしゃらないので、御父上のアルクス様が、部屋に入られました」
ワーグナが続けた。
「そこには……血だらけの状態ですでに息を引き取られたナキア様と、同じく血だらけで倒れているリキュス様が、いらっしゃいました」
初めて知らされる真実だった。父のアルクスからもリキュスからも、そんな話は聞いたことがない。
「リキュス様は意識を失っておいでで、背中には、大きな傷がありました。そして……ナキア様の右手には……血の付いた、ナイフが握られておりました」
心臓が絞られるように痛み、突然息苦しくなった。何かいおうと口を開いたが、言葉にならなかった。
「ナキア様は……リキュス様を道連れに、心中しようとなさったのです。アルクス様はすぐ医師を呼びました。ナキア様は亡くなられましたが、リキュス様は翌日に意識を取り戻しました。しかし、あのとき病室で会ったことの記憶は、失っておいででした。ですが、リキュス様にとっては、そのほうが幸いだったでしょう……実の母親が自分を殺めようとしたなど、到底受け入れられることではありません。ただ、今思うと……あの出来事が、少なからず今のリキュス様に影響を及ぼしているのではないか、と……」
ワーグナが苦し気に目を伏せた。
「私どもには何もおっしゃいませんが、リキュス様は、あのときのことをすでに思い出されているのかも……いや、無意識のうちにでも、あの出来事はリキュス様に影を落としているのかもしれません……」
エルシャには、信じられなかった。彼の記憶の中のナキアは、いつも穏やかでつつましく、優しい女性だった。そのナキアが、死の間際に、愛する息子を道連れにしようとしていたなど、到底想像できない。その姿からは微塵も察することはできなかったが、やはり宮廷内の卑しい噂や身分の差を気に病み、我が子の将来を憂いていたのだろうか。
すぐには受け入れられない事実だった。しかし、自分がナキアのいったい何を知っていたというのか。すべての記憶は、エルシャが十歳までのナキアの姿だ。幼かった自分が、ナキアとリキュスの何を理解していたのか。そしてその記憶は、この十四年の間に、まったく修飾されなかったといい切れるのか。
ナキアともリキュスとも、よい関係が築けていると思っていた。しかしそれは、勝手な自分の思い違いだったのかもしれない。あるいは、今のリキュスとの関係を構築するために必要だった、無意識の記憶の改竄かもしれなかった。
「申し訳ありません。大切な神託をお受けの身に、余計な心配事を増やしてしまいましたね」
ワーグナの言葉で我に返った。
「いえ……話して下さってありがとうございます。この任務を終えたら、兄としてしっかりと、リキュスを支えようと思います」
エルシャはそういうと、緩慢な足取りで階段を上っていった。
「……何が、あったのですか」
エルシャの問いに、ワーグナはもう一度ため息をついた。やがて、覚悟を決めたように話し出した。
「リキュス様の母君――ナキア様がお亡くなりになったときのことです。ナキア様は、最後にリキュス様と二人きりで話がしたいとおっしゃいました」
それはエルシャも覚えていた。まだ十歳くらいのころだった。エルシャはリキュスとジュノレと、曙宮の裏庭でかくれんぼをして遊んでいた。その途中で、乳母がリキュスを呼びに来たのだ――ナキアが危篤だからすぐ戻るように、と。嫌がるリキュスを連れて、乳母は去っていった。それから数日間、リキュスと会うことはなかった。ナキアの密葬が済み、久しぶりに会ったリキュスは、抜け殻のようになっていた――今思うと、リキュスが妙によそよそしくなったのは、あのころからだったかもしれない。
「リキュス様がナキア様の部屋に入室され、いくら待っても出ていらっしゃらないので、御父上のアルクス様が、部屋に入られました」
ワーグナが続けた。
「そこには……血だらけの状態ですでに息を引き取られたナキア様と、同じく血だらけで倒れているリキュス様が、いらっしゃいました」
初めて知らされる真実だった。父のアルクスからもリキュスからも、そんな話は聞いたことがない。
「リキュス様は意識を失っておいでで、背中には、大きな傷がありました。そして……ナキア様の右手には……血の付いた、ナイフが握られておりました」
心臓が絞られるように痛み、突然息苦しくなった。何かいおうと口を開いたが、言葉にならなかった。
「ナキア様は……リキュス様を道連れに、心中しようとなさったのです。アルクス様はすぐ医師を呼びました。ナキア様は亡くなられましたが、リキュス様は翌日に意識を取り戻しました。しかし、あのとき病室で会ったことの記憶は、失っておいででした。ですが、リキュス様にとっては、そのほうが幸いだったでしょう……実の母親が自分を殺めようとしたなど、到底受け入れられることではありません。ただ、今思うと……あの出来事が、少なからず今のリキュス様に影響を及ぼしているのではないか、と……」
ワーグナが苦し気に目を伏せた。
「私どもには何もおっしゃいませんが、リキュス様は、あのときのことをすでに思い出されているのかも……いや、無意識のうちにでも、あの出来事はリキュス様に影を落としているのかもしれません……」
エルシャには、信じられなかった。彼の記憶の中のナキアは、いつも穏やかでつつましく、優しい女性だった。そのナキアが、死の間際に、愛する息子を道連れにしようとしていたなど、到底想像できない。その姿からは微塵も察することはできなかったが、やはり宮廷内の卑しい噂や身分の差を気に病み、我が子の将来を憂いていたのだろうか。
すぐには受け入れられない事実だった。しかし、自分がナキアのいったい何を知っていたというのか。すべての記憶は、エルシャが十歳までのナキアの姿だ。幼かった自分が、ナキアとリキュスの何を理解していたのか。そしてその記憶は、この十四年の間に、まったく修飾されなかったといい切れるのか。
ナキアともリキュスとも、よい関係が築けていると思っていた。しかしそれは、勝手な自分の思い違いだったのかもしれない。あるいは、今のリキュスとの関係を構築するために必要だった、無意識の記憶の改竄かもしれなかった。
「申し訳ありません。大切な神託をお受けの身に、余計な心配事を増やしてしまいましたね」
ワーグナの言葉で我に返った。
「いえ……話して下さってありがとうございます。この任務を終えたら、兄としてしっかりと、リキュスを支えようと思います」
エルシャはそういうと、緩慢な足取りで階段を上っていった。
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