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【第六部:終わりと始まり】第七章

イシュマ・ニエヴァの役割

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 エルシャの言葉に、全員が息を呑んだ。

「神がこの世界を創り上げたとき、イシュマ・ニエヴァが指示を受けてこの世の自然を構築した。山、川、海、砂漠、草原――神の描いた設計図に沿って、イシュマ・ニエヴァが、従える無数の精霊たちとともに、これらを創り上げた。やがて人間が誕生し、彼らが自らの意志で動き出してからは、自然の営みは神のご意志により人間との関わりの中での変化に委ねられた。精霊たちは積極的に介入することはせず、ただ静かに見守るだけだった。そうした中で、大昔は人間にとって身近だった精霊の存在も、やがて忘れられていくことになった」

 ナイシェは、サラマ・エステでの出来事を思い出していた。
 鏡のように静かな、カマル湖。そこに棲む水の精が、自分たちをサラマ・エステの内部へと導き、頂上から投げ出されたときには救ってくれた。精霊とは本来、あのように人間と関わる存在だったのかもしれない。

「そして、人間の営みの中で、悪魔が生まれた。光のあるところには必ず、影がある。その光が強ければ強いほど、その影は濃くなる。この世にたくさんの自然や生き物、人工物が創られていくに従い、闇は深くなり、やがて悪魔が生まれた――つまり、いってみれば、悪魔ですら、神自身が創り出した産物なんだ」
「悪魔は……神が、創った……?」
「そう――図らずも、ね。その結果、タラ・ム・テールが起きた」
「『すべてを意味する戦い』……?」

 ティーダが繰り返す。

「そう。神と悪魔の戦争だ。それでどちらも重傷を負ったとき――実はあのとき、イシュマ・ニエヴァも関わっていた。神の力の源が破壊され、ばらばらになったとき、イシュマ・ニエヴァの力がかけらを覆ったんだ。時が来て、十二個のかけらがひとつの場所に集まったとき――イシュマ・ニエヴァがすべてのかけらを融合し、神に還元する。それこそがすなわち、真の神の復活なんだ」
「悪魔の復活の前にそれが果たされれば、神が勝利する――!」

 エルシャがうなずいた。

「そういうことだったんだ。ずっと、理解できない神の記憶の断片があった。ナイシェの中の少年がイシュマ・ニエヴァだとわかったことで、すべてが繋がった。タラ・ム・テールでの、神と悪魔以外の存在の気配を、ずっと感じていた。よく知っている、懐かしい気配――あれは、イシュマ・ニエヴァだったんだな……」
「イシュマ・ニエヴァは、宮殿に住む悪魔の手先に、私の夢に閉じ込められたといっていた。それは、神を復活させないためだったのね」
「そう。そして、サラマ・アンギュースの中の誰かが、自分を解放してくれるといっていた。それはつまり、封印の民オルセノのことではないだろうか」

 エルシャの発言の真意が、皆わからないようだった。

「ここにいる者は誰も、彼を解放するすべを知らない。残るは、封印の民だけだ。俺の中にある神の記憶の解釈が正しければ、神は過去に何度か、封印の力を使ったことがある。昔、次第に神の意に反して悪行を行うようになった人間に対して、その悪しき心を封印しようとした。だが最終的に神は、封じるのではなく人間の選択に任せることにした。そこから闇が生まれ、世界が滅びる道へ進もうとも、それが自分の生み出したものの選んだ結果なのだ、と。いったん封じたものを、また解放したんだ――つまり、封印の民は、封印だけでなく解放もつかさどるのかもしれない。もっとも、その力をイシュマ・ニエヴァに対して使えるのかは、俺にもわからないが……」

 エルシャの話は筋が通っているような気がした。神の民の誰かがイシュマ・ニエヴァを解放できるのだとしたら、それは封印の民以外にはあり得ないように思えてくる。
 つまり、最後のひとりであり封印の民であるアデリアの孫を探し出すことができれば、神の勝利だ。万が一にでも、その人物を悪魔の手先に知られるわけにはいかない。そして、あとひとりで、神の民が全員揃うということも、決して悟られてはいけない――。

 エルシャはティーダのほうを向いた。

「ティーダ。もう一度訊くよ。君は本当に、かけらを手放す気はないのかい?」

 ティーダはしばらく黙ってから、口を開いた。

「僕ね、ナイシェに、ここが僕の居場所になると思う、っていわれて来たんだ」

 意志を持った口調に、全員がティーダを見つめる。

「ここはさ、びっくりするくらい広くて、豪華で、きれいに着飾った人ばかりで、何だか変な感じがするけど。でも、ナイシェが引き合わせてくれた人たちはさ、みんな、僕のことを、受け入れてくれるんだよね。僕がサラマ・アンギュースでも、嫌がらないどころか、まるで普通のことのように、気にせず接してくれる。エルシャたちだけじゃない。かけらを持っていないジュノレだってそうなんだ。それがさ……すごく、落ち着くんだ。ナイシェがいってたことの意味が、やっとわかったよ。隠したり嘘をついたりしなくていいのって、すごく楽だ。今の僕を受け入れてくれる場所がここしかないのなら、僕は、ここを守るために戦うよ。戦うほうが、逃げるよりましだ」

 はっきりと、そういった。それが、かけらの力に頼りながらも、その存在をひた隠しにして懸命に生きてきた少年の、出した答えだった。
 エルシャはその言葉を噛みしめるようにゆっくりうなずいた。

「わかった。ならば、君がこの宮殿にいることを、絶対的に気づかれてはいけない。大変だろうが、引き続きマリア付きの侍女として振舞う必要がありそうだ。それも、最後のひとりが見つかるまでの辛抱だ」

 ラミも大きな目を一層輝かせる。

「あなたがいたらとっても助かるわ! だって、創造の民でしょ? 予見の民とか記憶の民とかより、よっぽど戦えるわよね」

 再びラミの顔がティーダに迫り、ティーダの頬が赤に染まる。

「えっと、そ、そうなの……かな?」

 打って変わって、声が弱々しくなる。一方のゼムズは声を荒げている。

「おいラミ、そのいい方はねえだろ? 俺たちだって剣の腕じゃ負けねぇぜ」

 その横で、ディオネがこっそりナイシェに耳打ちした。

「ちょっと! ティーダの奴、ひょっとして……」

 ナイシェは笑みを噛み殺した。

「気づかないふりしてあげましょ、姉さん」

 エルシャたちと出会うことで、ティーダが新しい居場所を見つけられるのか、不安があった。しかしティーダは、自分の置かれた状況を受け入れ、前向きになれているようだ。
 ティーダだけではない。全員が、自分の奥底から湧き出る不思議な力のようなものを感じていた。

 あと少しで、神の民が全員揃う。多くの友を失ったこの戦いに、終止符を打つことができるのだ。

 体が震えた。これは、決して負けることのできない戦いだ。この宮殿の中に、フェランやイシュマ・ニエヴァを苦しめ続けた悪魔の手先と、最後のサラマ・アンギュースが、同時に存在しているのだ。慎重に動かなければ、取り返しのつかないことになる。

 希望と同時に沸き上がる不安を無理やり押さえつけて、ナイシェは前を向いた。

 一度逃げ出して、再び戻ることを決意したのだ。もう何が起きても、逃げるつもりはなかった。
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