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【第六部:終わりと始まり】第六章

秘密の特訓

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 エルスライでの公演初日をとうとう翌日に控え、一座には独特の緊張感がみなぎっていた。同じ演目でも、街を変えての初日はいつも特別だ。それは、演じる踊り子たちも、それを支える裏方たちも同様だった。
 生まれて初めて、芸能一座の公演を当事者として経験するディオネは、すでにそわそわしている。

「ねえナイシェ、あたし、ちゃんとできるかな? 大事な衣装を間違えたりとか、しないかなあ」

 ディオネにしては弱気な発言だ。

「大丈夫、私も一緒にやるから。いつもどおりでいいのよ」

 そういってみたものの、ナイシェも昔は衣装を持ったままうっかり持ち場を離れたりしてニーニャによく叱られたものだ。

 本番に向け、踊り子たちは前日早々床へ就く。一瞬の気の緩みが大怪我に繋がるため、体調を万全にし、集中力を高めなければならない。裏方はそんな彼らの栄養面を考えたり、彼らに代わり最後まで入念に小道具や装置の確認を行う。ナイシェもこの先一か月は裏方なので、ディオネとともに小道具の管理に回っていた。

 夜になると、会場となるテントは封鎖され、座員の寝泊まりするテントと、楽屋となる中テントだけの出入りとなる。あたりが寝静まるのを待ってから、ナイシェはそっとテントを抜け出した。向かったのは、封鎖されている大テントだ。出入口は太い鎖と錠前で閉じられているが、裏口にあたる部分は固定された紐を解けば隙間からくぐれるようになっている。
 夜道用にランプを持ってきていたが、テントの中は真っ暗で足元しか見えない。

 こんなときにパテキアの力があれば、すぐ明るくできるのに。

 そんなことを思いながら、目的の場所へ進んだ。明日からの公演の中で使う予定の、曲芸用の桃色の大布だ。次の町での新しい演目のために練習で使いたいが、本公演で使用している小道具なので、なかなか空かないのだ。練習時間が重なればもちろん公演間近の曲芸連中が優先だし、この先連日の興行が始まると、ますます使えなくなる。
 仮に予備の布で練習するにしても、練習用の中テントでは、広さも高さも不十分だ。大判の布を風に見立て、空間全体を使って踊るのに、重要なのは舞台の広さと天井の高さだ。ナイシェの考える踊りは、本番の舞台でしかできない、その広さを生かした迫力ある演目になるはずだった。

「……あった」

 箱の中から布を取り出す。明日の朝には天井に固定されてしまうから、この色の布で練習するのは今日を逃せばだいぶ先になってしまう。
 ナイシェは布を抱えて舞台へ向かった。真っ暗なので、裏方に置いてあったランプを数個灯し、やや離れた場所に配置する。うっかり布が当たって倒れでもしたら大火事になる。

 ナイシェは薄暗い舞台に上がり、布をかざした。光の透け具合を確認する。

 悪くない。明るいときにも試したいけど、たぶん大丈夫。

 次に、布の端を持って舞台のへりを大きく走った。時折細かなステップを入れたりジャンプしたりしながら、一周した。布の動きを観察する。桃色の布はゆらゆらとはためいて舞台いっぱいに広がった。さながら生き物のようだったが、布の終わりの部分が大人一人分ほど、舞台にずるずると引き摺られたまま持ち上がらなかった。
 多いく肩で息をつく。比較的速く動いたつもりだったが、だめだった。しばらく考えたあと、今度は上半身の動きを多くして、同じように一周してみた。布の端がゆっくりと頭をもたげ、地面から離れる。布は大きな蛇のように蠢きながらしばらく宙を舞ったが、ナイシェが一周する前に失速して舞台についてしまった。
 息を整える。

 まだ足りない。でも、がんばればできるかもしれない。

 ナイシェは更に、上半身の動きを大きく力強くした。体の動きをこれだけ大きな布の端まで伝えようとすると、それだけ強く速い動きが必要となる。しかし、それらを柔らかく優雅に見せなければならない。しかも、作品として完成させるには、舞台一周では当然不十分だ。それなりの時間、一瞬も止まらずに動き続けなければならない。少しでも休めば布は活力を失って舞台に沈む。

 三度舞台を一周するころには、ナイシェは肩で大きく息をしていた。布は、一度も地に触れることなく、薄暗い空間を音もなく舞った。夜のはずなのに、舞台を広く覆った桃色の布は、さながら風に揺れる桜のようだった。
 呼吸を乱しながら、あるじを失ってゆらゆらと落ちてくる布を見つめる。

 花が、散るみたいだ。

 それは不思議な感覚だった。一瞬、景色が見えた。妖精たちの、秘密の宴。夜の公園で、人間には気づかれないようにこっそり営まれる遊宴。花の精が空を飛び、戯れるように舞う夜桜――。

 ナイシェは手応えを掴んでいた。

 リューイに提案してみよう。今の私には無理だけど、一か月特訓すれば、きっとできるようになる。

 大布を折り畳むと、ナイシェはランプの灯をひとつ残して吹き消した。残ったランプを片付け、布を控室へ戻しに行く。すると、真っ暗なはずの控室から光が漏れていることに気づいた。そっと覗いてみて驚く。そこにはティーダがいた。ランプを三つ灯して、奇術用と書かれた道具箱からいくつか取り出している。ステッキとハンカチだった。そういえば、花の手品が失敗しやすいからハンカチに変えるとかいっていたのを思い出した。しかし、明日はいよいよ興行初日だ。ティーダにとっては、初舞台となるはずだ。

 なぜ、こんな時間に練習を……。

 入るに入れず、ナイシェは影から息を潜めて見守っていた。ティーダは薄暗い中でステッキを振り上げた。そのあと、すばやく両手を動かし、一瞬にしてステッキが消え、代わりに現れたハンカチが――右の袖口に、引っかかっていた。ティーダのため息が聞こえる。失敗のようだ。

 こんな調子で、明日の本番は大丈夫なのかしら……。

 自分のことのように不安になってくる。
 機会をうかがって、ナイシェはさも今気づいたかのように控室に入った。

「ティーダ! こんな時間に何しているの? 明日に備えて休まなきゃ」

 ティーダは急に声をかけられてビクンと体を震わせた。

「なんだ、ナイシェか……。そっちこそ、何やってるの」

「私は、次の公演用の演目を、ちょっとね。昼間は小道具が空かないから」
「そっか。僕も、次の公演用の練習だよ」

 ナイシェはまたもや驚いた。

「明日のじゃなくて? あなた、明日が初舞台でしょ。来月のことなんていいから、早く寝ないと!」

 ティーダは意にも介さず笑って答えた。

「明日のはもう完成してるからいいんだよ。僕はもっと、違うことをしたいんだ」

 だんだん呆れてくる。

「立派な考えだけど、それ、今やらなきゃいけないこと? ほら、一緒に戻りましょう。もう真っ暗よ。いくらい敷地の中とはいえ、小さな男の子がひとりで行き来するには危なすぎるわ」

 ティーダはナイシェに促され、渋々といったていで道具を片付け始めた。火の消し忘れがないか確認し、二人でテントを出る。寝床まではほんの少しの距離だが、暗闇の中ランプひとつの小さな灯りのみでは、子供にはさぞ心細いだろう。
 ナイシェはティーダの手を握った。とても小さく感じた。ラミよりも小さいのではないだろうか。だが、少年の手は、ラミとは違って硬く、細いが厚みのある手だった。

 これが、男の子の手なのだろうか。それとも、毎日奇術の訓練に励んでいるから?

 ナイシェはティーダの横顔をうかがった。相変わらず、前髪が帽子のように目元まで隠し、表情が見えない。
 また、胸がそわそわした。

 ティーダは平気な様子だったが、あんなに練習を失敗ばかりして、明日の本番は本当に成功するのだろうか?

 ナイシェは小さくため息をついた。心配で、今夜は眠れそうになかった。
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