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【第六部:終わりと始まり】第一章
躍動
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結局、その日の夜はよく眠れなかった。目を閉じていても胸はざわつき、頭は冴えている。やっと眠気が来たころには空は白み、鳥のさえずりが聞こえだしていた。
サリとディオネはだいぶ遅くまで飲んでいたようで、真夜中にそっと布団に潜り込んだまま、微動だにせず寝息をたてている。
ナイシェは小さくため息をつくと、静かに寝台を下りた。
今から寝ては、逆に起きられなくなる。たまにはサリより早く出て、料理の仕込みでもしよう。
酒場は通りを二本挟んだすぐ近くにある。まだ品物を並べ始めたばかりの朝市場で新鮮な食材を大量に買い込み、ナイシェは酒場の裏口の鍵を開けた。重苦しい木のきしみがひときわ耳に残る。裏口はそのまま厨房に繋がっており、ナイシェは食糧を置くと厨房を通り抜けてカウンターへ出た。いつもはサリの定位置だ。そこから見渡せる店内は、今はすべてのテーブルが両脇に寄せられ、椅子はさかさまになってそのテーブルに引っ掛けられていた。これも、店じまいしたあとの定位置だ。いつもはサリが開店前に掃除をしてからそれらを並べる。
たまには自分がやって、サリの仕事を減らしてあげよう。
ナイシェは普段より広く見える店内へ足を延ばした。掃除道具を取りに行こうと店内を横断すると、思いのほか靴音が響いてナイシェは足を止めた。
開店中は、テーブルやいすが広がっているし、何より多くの客で賑わっているから、足音など気になったこともなかった。それに、ここは木の板だが普段ナイシェがいる厨房は床も石でできていて、音など響かない。
ナイシェは、もう一度かかとを床に打ちつけてみた。カツンと高い音が、床下に広がっているだろう空間を共鳴させる。同時にがらんどうの店内をも震わせ、それらの振動はナイシェの足元に回帰して全身を巡った。
ナイシェは息を呑んだ。
すごい……まるで楽器だわ。
今度は、調子を変えて足を踏み鳴らしてみる。張り詰めた高い音、太く低い音。それらを織り交ぜながら、ナイシェは両足でリズムを刻んだ。
頭の中にあったのは、リューイの舞台で見た太鼓の踊りだった。不可思議でいて力強く打ち鳴らされる太鼓の音と、それに乗って踊る者たち。ほかに何の楽器も使わない、ともすれば単調になりかねない踊りを、リューイの仲間たちは、圧倒的な存在感と迫りくる気迫で演じきった。柔軟な体を活かした優雅な動きが得意なナイシェにとって、あのとき見た迫力溢れる演技は憧れでもあった。
あのときの太鼓さながらに足でリズムを刻むと、自然に体が動いた。
流れるように踊るいつもの自分とは違う。緩急のついた動きで、指先だけでなく腕や足、すべてに張力を与える。表現するのは――闘志、そして歓喜の爆発!
広間の真ん中で、ばねのように高くジャンプし、両足を大きく踏み鳴らしながら着地する。
少ししか踊っていないのに、息は上がりじっとりと汗をかいていた。
……だめだ、力強さが全然足りない。あの踊りを踊るには、もっと筋力が必要だ。
ゆっくりと立ち上がり、ナイシェは額の汗を拭った。
同じリズムでも、もっと軽やかな小太鼓のようなものを想像してみたらどうだろう?
再び、かかとを打ち鳴らす。今度は足首を柔らかくして、軽やかに。力を抜いてリズムを刻み始めると、脳裏に浮かんだのは、春の訪れを知らせる鳥のさえずりや小動物たちの足音だった。目を閉じると、途端に足元に緑の草原が広がる。リスや野ウサギが木陰から姿を現し、小鳥たちは出会いを求めて美しく歌う。
先ほどまでの緊張は抜け去り、今度は滑らかな絹のように柔らかく、手足が動く。せわしなく木の床を鳴らすつま先と、対照的に穏やかにたゆとう両腕。しなやかに波打つ上体が、それらを繋いで融合させる。
かすかな煙たさと古い木の臭いに満たされた酒場も、この瞬間だけは、ナイシェに至福を与える喜びとぬくもりの舞台となっていた。
サリとディオネはだいぶ遅くまで飲んでいたようで、真夜中にそっと布団に潜り込んだまま、微動だにせず寝息をたてている。
ナイシェは小さくため息をつくと、静かに寝台を下りた。
今から寝ては、逆に起きられなくなる。たまにはサリより早く出て、料理の仕込みでもしよう。
酒場は通りを二本挟んだすぐ近くにある。まだ品物を並べ始めたばかりの朝市場で新鮮な食材を大量に買い込み、ナイシェは酒場の裏口の鍵を開けた。重苦しい木のきしみがひときわ耳に残る。裏口はそのまま厨房に繋がっており、ナイシェは食糧を置くと厨房を通り抜けてカウンターへ出た。いつもはサリの定位置だ。そこから見渡せる店内は、今はすべてのテーブルが両脇に寄せられ、椅子はさかさまになってそのテーブルに引っ掛けられていた。これも、店じまいしたあとの定位置だ。いつもはサリが開店前に掃除をしてからそれらを並べる。
たまには自分がやって、サリの仕事を減らしてあげよう。
ナイシェは普段より広く見える店内へ足を延ばした。掃除道具を取りに行こうと店内を横断すると、思いのほか靴音が響いてナイシェは足を止めた。
開店中は、テーブルやいすが広がっているし、何より多くの客で賑わっているから、足音など気になったこともなかった。それに、ここは木の板だが普段ナイシェがいる厨房は床も石でできていて、音など響かない。
ナイシェは、もう一度かかとを床に打ちつけてみた。カツンと高い音が、床下に広がっているだろう空間を共鳴させる。同時にがらんどうの店内をも震わせ、それらの振動はナイシェの足元に回帰して全身を巡った。
ナイシェは息を呑んだ。
すごい……まるで楽器だわ。
今度は、調子を変えて足を踏み鳴らしてみる。張り詰めた高い音、太く低い音。それらを織り交ぜながら、ナイシェは両足でリズムを刻んだ。
頭の中にあったのは、リューイの舞台で見た太鼓の踊りだった。不可思議でいて力強く打ち鳴らされる太鼓の音と、それに乗って踊る者たち。ほかに何の楽器も使わない、ともすれば単調になりかねない踊りを、リューイの仲間たちは、圧倒的な存在感と迫りくる気迫で演じきった。柔軟な体を活かした優雅な動きが得意なナイシェにとって、あのとき見た迫力溢れる演技は憧れでもあった。
あのときの太鼓さながらに足でリズムを刻むと、自然に体が動いた。
流れるように踊るいつもの自分とは違う。緩急のついた動きで、指先だけでなく腕や足、すべてに張力を与える。表現するのは――闘志、そして歓喜の爆発!
広間の真ん中で、ばねのように高くジャンプし、両足を大きく踏み鳴らしながら着地する。
少ししか踊っていないのに、息は上がりじっとりと汗をかいていた。
……だめだ、力強さが全然足りない。あの踊りを踊るには、もっと筋力が必要だ。
ゆっくりと立ち上がり、ナイシェは額の汗を拭った。
同じリズムでも、もっと軽やかな小太鼓のようなものを想像してみたらどうだろう?
再び、かかとを打ち鳴らす。今度は足首を柔らかくして、軽やかに。力を抜いてリズムを刻み始めると、脳裏に浮かんだのは、春の訪れを知らせる鳥のさえずりや小動物たちの足音だった。目を閉じると、途端に足元に緑の草原が広がる。リスや野ウサギが木陰から姿を現し、小鳥たちは出会いを求めて美しく歌う。
先ほどまでの緊張は抜け去り、今度は滑らかな絹のように柔らかく、手足が動く。せわしなく木の床を鳴らすつま先と、対照的に穏やかにたゆとう両腕。しなやかに波打つ上体が、それらを繋いで融合させる。
かすかな煙たさと古い木の臭いに満たされた酒場も、この瞬間だけは、ナイシェに至福を与える喜びとぬくもりの舞台となっていた。
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