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【第五部:聖なる村】第十一章

治療

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 ナイシェには、何が起きたのかすぐにはわからなかった。外で何やら宮殿とか何とかいう声が聞こえ、突然白い服を着た男たちが馬車に乗り込んできた。男たちはそれぞれに管のついた風船のような道具や小さな懐中電灯のようなものを持っていて、ナイシェを押しのけてディオネの横に陣取ったかと思うと、そこで突然周囲が一面明るくなって、ナイシェは思わず目を閉じた。まぶしくて両目を覆っていると、急に周りが騒がしくなり、何度か誰かに体当たりされてナイシェはしりもちをついた。
 そっと目を開けると、そこはもう狭くて暗い馬車の中ではなかった。真っ白な壁と高い天井、広い部屋。昼間のように明るい空間で、目の前を白い服の男たちが行ったり来たりしていた。

 しばし我を失っていたが、すぐにディオネがいないことに気づいた。

「姉さん……姉さん!? エルシャはどこ!?」

 ふらふらと立ち上がると、不意に誰かに腕を掴まれた。振り向くと、フェランが立っていた。

「ナイシェ! ここは宮殿です。転移の術でディオネを運んでもらいました。今、医務班が対応しています。ひとまず彼らに任せましょう」
「姉さんはどこ? もう息をしていないのよ!?」

 泳いだ視線が、部屋の中央にある寝台で止まる。医務班の人間に取り囲まれてよく見えないが、隙間から見覚えのある足が見えている。

「姉さん……!」

 ふらりと近づこうとするナイシェを、フェランが引き留めた。

「ナイシェ、今行っても邪魔になるだけです」
「でも……!」

 何かいおうとするナイシェの両肩を、フェランは強く掴んだ。

「今すぐ必要な処置があります。毒の分析も進めている。少なくとも今は、彼らに任せるべきです。皆、全力でディオネを助けようとしていますから」

 行きかう白い人間たちの間から、一瞬ディオネの顔が見えた。顔の半分ほどを覆うような、半球状のマスクのようなものをかぶせられている。それが管を介して歯車と連結し、一人が一定のリズムでその歯車を回していた。その動きに合わせて管の途中にある風船のようなものが伸び縮みし、よく見ると、それに連動してディオネの胸も上下に動いている。その傍らでは、別の男たちがディオネの体を調べたり何かの薬液を投与したりしている。男たちの交わす言葉は耳慣れないものばかりでよく聞き取れなかったが、いくつかの断片がナイシェを捉えた。

「……今ある薬では、どうにも……」
「もうすぐ、心臓が……」

 ナイシェは立ち尽くしたまま動けなかった。もう何度流したか知れない涙が、乾く間もない頬を伝う。唐突にすべての音が遠くなり、足元の地面が歪んだ気がした。
 そのとき、突然開いた扉から入ってきたエルシャの姿を見て、ナイシェは手放しかけた意識をかろうじて繋ぎ止めた。ぐしゃぐしゃに泣きながら自分を見つめるナイシェを、エルシャが胸へ抱き寄せる。そしてフェランへ目を向けた。

「フェラン……よくやってくれた。ぎりぎりの状態だった」

 フェランが苦しそうに目を伏せる。

「しかし……ディオネの具合は……」

 エルシャは小さく息をついた。

「あの毒薬は、既知のどの成分とも違うらしい。今行っている処置は、解毒ではなく、命を繋ぐためのものだそうだ」

 ナイシェが顔をあげた。

「でも、それじゃあ……」

 エルシャは小さくうなずいた。

「このままでは、時間の問題だ。だが……試す価値のある薬が、ひとつだけ残っている」

 そしてディオネへ目を向けた。

「悪魔の手先……毒薬。ひょっとしたら、ジュノレがサルジアに操られたときに使った、サラマ・エステの薬草……あれが、使えるかもしれない。サルジアはあのとき、ジュノレの精神を麻痺させる薬を盛ったといっていた。ディオネは精神ではなく体を麻痺させる毒だが……既知の毒ではなく、悪魔が絡んでいるならば……あるいはあのときの薬草が、何かしらの効果を持つかもしれない」

 何の根拠もない直観だった。だが、試す価値はあるだろう。

「あのときの薬草の残りが、わずかだが保管してあるらしい。今、投与できるよう調合中だ。まだ、望みはある。少なくとも呼吸は、今のあの機械で安定している」

 歯車と風船でできたあれのことだろう。
 ナイシェは、人形のように横たわったまま動かないディオネを遠くから見つめた。徐々に焦点が合わなくなり、ディオネが周りの白い人間と一体化して風景のように溶け込んでいく。景色が波のように歪み始め、ナイシェはめまいを覚えた。
 ナイシェの異変に気づき、エルシャはフェランへ視線を送った。

「ナイシェを頼む。……もう、限界だ」

 フェランはうなずいてナイシェの手を取った。

「ナイシェ、隣の部屋で休みましょう」

 一枚の扉で隔てられた小さな部屋へいざないながら、フェランはエルシャへ目を向けた。

「エルシャ、あなたは……」
「俺はまだやることがある。薬草の件で、もう少し、な」

 フェランが眉をひそめた。

「早く休んでください。顔色が悪い。あなたこそ、限界でしょう……?」

 エルシャは軽く手を挙げて背を向けた。

「まだ、大丈夫だ。あとでちゃんと休むから安心しろ。おまえも、ナイシェと一緒に少し眠るんだ。ひどい顔をしているぞ」
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