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【第五部:聖なる村】第十一章
使者
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「……姉さん。姉さん!?」
ナイシェが叫びながらディオネの頬に触れる。
「落ち着け、大丈夫だ。息をしている」
エルシャが制す。ディオネは先ほどまでと同じく、眠ったように胸を動かしていた。
「でも……でも!」
言葉にならず、これ以上平静でいるのは限界なようだった。
エルシャはナイシェの肩に乗せた手に力を込めた。
「聞くんだ、ナイシェ」
強い口調に、ナイシェの動きが止まる。
「ディオネはもう、目を開けたり話したりする力が残っていない。だが、息はできている。俺たちの声も聞こえている。ディオネは最後まであきらめない。俺たちもだ。しっかりしろ」
ナイシェの涙は止まらなかった。が、その目は意志を持って姉へ向けられた。
「姉さん。私も愛してる。離れるのはいやよ。だから、頑張って。お願いだから、息を、し続けて……!」
それからずっと、姉の髪や頬を撫でながら、ナイシェは話しかけ続けた。小さいころのおぼろげな記憶や、ニーニャ一座のこと、エルシャとの出会い、そして姉と十一年ぶりに再会してからのこと。ディオネはまったく反応しなかったが、ナイシェは姉の胸や肩が静かに上下し続けるのを確認しながら、話し続けた。
馬車の窓越しに見える空の色が橙に変わり、そして紺色に変わっても、話し続けた。やがて闇に包まれ、聞こえるのが馬の蹄と車輪の音だけになると、どうしようもない恐怖が襲ってきた。一度乾いた涙が、再び頬を伝う。
「姉さん……姉さん……! どこにも行かないわよね? 絶対、もう一度目を開けるわよね!? 信じてるからね?」
泣きじゃくりながら、温かいディオネの頬や髪を撫でる。
胸の動きが緩慢になっていることに、エルシャは気づいていた。窓から顔を出して前方へ叫ぶ。
「今どのあたりだ! もっと急げないのか!?」
風を切る音に乗って、御者の声が聞こえてきた。
「もうすぐルインだと思うけどね、暗いから昼間みたいな速さでは行けないよ!」
もどかしさを感じながら窓を閉めると同時に、ナイシェが叫んだ。
「エルシャ! 姉さんの様子が……!」
ディオネの顔が青白く、唇が土色に変わっていく。胸が動いていない。
「ディオネ! 息をするんだ!」
エルシャが頬を叩きながら叫ぶ。直後、胸がわずかに持ち上がった。少しだけ、唇に朱が戻る。しかし動いたのはその一回だけだった。再び、ディオネの顔色が悪くなっていく。
「だめ、姉さん! 息をして、お願い!」
すがりつくナイシェを引き離し、エルシャはディオネの上に覆いかぶさった。冷たく土気色になったディオネの唇を覆うように、自らの唇を重ねる。そこから息を吹き込むと、大きくディオネの胸が持ち上がった。何度か繰り返すと、ディオネの頬に赤みが差してきた。
「ディオネ、聞こえるか? まだ終わってはいないぞ!」
泣きながら動けずにいるナイシェに、エルシャは叫んだ。
「ナイシェ! ディオネの首元を触れ! 拍動が止まったらいうんだ」
ナイシェは震える指先を姉の首元に当てた。以前、エルシャに教わったことがある。首元の拍動は心臓が動いている証。命の証だ。
弱々しいが、ゆっくりとした拍動を感じた気がした。
同時に、強く速い拍動も感じる。
――違う、これは私の心臓の音だ。
再びディオネの首元で指をさまよわせる。手が震えて、感覚もはっきりしない。さっきまであったものが見つけられない。どこから聞こえてくるのか、ドンドンと激しい鼓動が体中に響く。
「――ダメよ、無理! わからない!」
ナイシェが金切り声をあげた。すぐさまエルシャが代わる。
「大丈夫だ、弱いけど動いてる」
短くそういうと、再びディオネに空気を吹き込む。
「ナイシェ、できるか? 大丈夫、俺たちが、代わりに息をさせてあげられる。落ち着いて、ゆっくり、胸が動けば成功だ」
いわれたとおり、ディオネの口から息を吹き込む。
「もっとだ! たくさん吹き込まないと、空気が足りない!」
ナイシェは更に吹き込んだ。胸の動きを見ようとするが、涙で滲んでよく見えない。頭がくらくらしてきた。もう一度やろうとして、嗚咽が漏れた。エルシャは一瞬だけナイシェの手を強く握り、再び自らディオネの唇を覆った。何度か息を吹き込むたびに、首元で拍動を確認する。わずかに視界に入る外の景色が、やや白んできた。隣でナイシェが泣きじゃくっている。エルシャは大きく肩を使ってひとつ深呼吸をした。またディオネに唇を当てる。
……このままではもたない……呼吸も……ディオネの心臓も……。
自身の呼吸もままならず、焦点すら定かでなくなってきたとき、突然馬車が急停止した。体勢を崩し、ナイシェと二人で慌ててディオネの体を支える。
こんなときに、敵が……!?
床に転がり落ちた剣を拾い、エルシャは舌打ちした。
ここまでか――
「ナイシェ! ディオネを頼む! 呼吸だ!」
叫びながら馬車を飛び出す。前方から刺すような光がいくつも照らし、視界を奪う。
「御者! どうした!」
「いや、それが……」
しどろもどろな御者の声には切迫感がない。訝しむと同時に、前方から男の声が聞こえた。
「エルシャ様! エルシャ様であらせられますか!? アルマニア宮殿の者です」
「何だと……?」
視界に、見慣れた宮廷装束に身を包んだ男たちが走り出てきた。
「フェランより報告を受け参じました! ディオネ様はご無事ですか?」
フェランが――あいつは本当に、三日かからずに宮殿へ着いたのか。
わずかに希望の光が見えた。
「すでに呼吸が止まっている。心臓もいつ止まってもおかしくない!」
一番年配の男がうなずいて手早く指示を出した。
「医務班もおります。赤魔術で今すぐ宮殿へお連れします、特別許可を得ておりますので」
すぐさま白装束の医務班数人が馬車の中へ乗り込み、その周りを魔術部らしき人間たちが囲んだ。二言三言の文言のあと、エルシャと馬車の中の人間は跡形もなく消え去った。
ナイシェが叫びながらディオネの頬に触れる。
「落ち着け、大丈夫だ。息をしている」
エルシャが制す。ディオネは先ほどまでと同じく、眠ったように胸を動かしていた。
「でも……でも!」
言葉にならず、これ以上平静でいるのは限界なようだった。
エルシャはナイシェの肩に乗せた手に力を込めた。
「聞くんだ、ナイシェ」
強い口調に、ナイシェの動きが止まる。
「ディオネはもう、目を開けたり話したりする力が残っていない。だが、息はできている。俺たちの声も聞こえている。ディオネは最後まであきらめない。俺たちもだ。しっかりしろ」
ナイシェの涙は止まらなかった。が、その目は意志を持って姉へ向けられた。
「姉さん。私も愛してる。離れるのはいやよ。だから、頑張って。お願いだから、息を、し続けて……!」
それからずっと、姉の髪や頬を撫でながら、ナイシェは話しかけ続けた。小さいころのおぼろげな記憶や、ニーニャ一座のこと、エルシャとの出会い、そして姉と十一年ぶりに再会してからのこと。ディオネはまったく反応しなかったが、ナイシェは姉の胸や肩が静かに上下し続けるのを確認しながら、話し続けた。
馬車の窓越しに見える空の色が橙に変わり、そして紺色に変わっても、話し続けた。やがて闇に包まれ、聞こえるのが馬の蹄と車輪の音だけになると、どうしようもない恐怖が襲ってきた。一度乾いた涙が、再び頬を伝う。
「姉さん……姉さん……! どこにも行かないわよね? 絶対、もう一度目を開けるわよね!? 信じてるからね?」
泣きじゃくりながら、温かいディオネの頬や髪を撫でる。
胸の動きが緩慢になっていることに、エルシャは気づいていた。窓から顔を出して前方へ叫ぶ。
「今どのあたりだ! もっと急げないのか!?」
風を切る音に乗って、御者の声が聞こえてきた。
「もうすぐルインだと思うけどね、暗いから昼間みたいな速さでは行けないよ!」
もどかしさを感じながら窓を閉めると同時に、ナイシェが叫んだ。
「エルシャ! 姉さんの様子が……!」
ディオネの顔が青白く、唇が土色に変わっていく。胸が動いていない。
「ディオネ! 息をするんだ!」
エルシャが頬を叩きながら叫ぶ。直後、胸がわずかに持ち上がった。少しだけ、唇に朱が戻る。しかし動いたのはその一回だけだった。再び、ディオネの顔色が悪くなっていく。
「だめ、姉さん! 息をして、お願い!」
すがりつくナイシェを引き離し、エルシャはディオネの上に覆いかぶさった。冷たく土気色になったディオネの唇を覆うように、自らの唇を重ねる。そこから息を吹き込むと、大きくディオネの胸が持ち上がった。何度か繰り返すと、ディオネの頬に赤みが差してきた。
「ディオネ、聞こえるか? まだ終わってはいないぞ!」
泣きながら動けずにいるナイシェに、エルシャは叫んだ。
「ナイシェ! ディオネの首元を触れ! 拍動が止まったらいうんだ」
ナイシェは震える指先を姉の首元に当てた。以前、エルシャに教わったことがある。首元の拍動は心臓が動いている証。命の証だ。
弱々しいが、ゆっくりとした拍動を感じた気がした。
同時に、強く速い拍動も感じる。
――違う、これは私の心臓の音だ。
再びディオネの首元で指をさまよわせる。手が震えて、感覚もはっきりしない。さっきまであったものが見つけられない。どこから聞こえてくるのか、ドンドンと激しい鼓動が体中に響く。
「――ダメよ、無理! わからない!」
ナイシェが金切り声をあげた。すぐさまエルシャが代わる。
「大丈夫だ、弱いけど動いてる」
短くそういうと、再びディオネに空気を吹き込む。
「ナイシェ、できるか? 大丈夫、俺たちが、代わりに息をさせてあげられる。落ち着いて、ゆっくり、胸が動けば成功だ」
いわれたとおり、ディオネの口から息を吹き込む。
「もっとだ! たくさん吹き込まないと、空気が足りない!」
ナイシェは更に吹き込んだ。胸の動きを見ようとするが、涙で滲んでよく見えない。頭がくらくらしてきた。もう一度やろうとして、嗚咽が漏れた。エルシャは一瞬だけナイシェの手を強く握り、再び自らディオネの唇を覆った。何度か息を吹き込むたびに、首元で拍動を確認する。わずかに視界に入る外の景色が、やや白んできた。隣でナイシェが泣きじゃくっている。エルシャは大きく肩を使ってひとつ深呼吸をした。またディオネに唇を当てる。
……このままではもたない……呼吸も……ディオネの心臓も……。
自身の呼吸もままならず、焦点すら定かでなくなってきたとき、突然馬車が急停止した。体勢を崩し、ナイシェと二人で慌ててディオネの体を支える。
こんなときに、敵が……!?
床に転がり落ちた剣を拾い、エルシャは舌打ちした。
ここまでか――
「ナイシェ! ディオネを頼む! 呼吸だ!」
叫びながら馬車を飛び出す。前方から刺すような光がいくつも照らし、視界を奪う。
「御者! どうした!」
「いや、それが……」
しどろもどろな御者の声には切迫感がない。訝しむと同時に、前方から男の声が聞こえた。
「エルシャ様! エルシャ様であらせられますか!? アルマニア宮殿の者です」
「何だと……?」
視界に、見慣れた宮廷装束に身を包んだ男たちが走り出てきた。
「フェランより報告を受け参じました! ディオネ様はご無事ですか?」
フェランが――あいつは本当に、三日かからずに宮殿へ着いたのか。
わずかに希望の光が見えた。
「すでに呼吸が止まっている。心臓もいつ止まってもおかしくない!」
一番年配の男がうなずいて手早く指示を出した。
「医務班もおります。赤魔術で今すぐ宮殿へお連れします、特別許可を得ておりますので」
すぐさま白装束の医務班数人が馬車の中へ乗り込み、その周りを魔術部らしき人間たちが囲んだ。二言三言の文言のあと、エルシャと馬車の中の人間は跡形もなく消え去った。
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