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【第五部:聖なる村】第十章
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アルマニア王国を横断するカティヤ山脈のすぐ北に位置するアリクレスは、変わりやすい気候とともに暮らす穏やかな人々の町だった。西に行けば治安の悪いヘルマーク、北に上ればより安定して栄えているニコルやツールがある中で、それでもアリクレスに留まる人々には、欲や喧騒とは無縁の、独特の緩い時間が流れている。
それは、夜の酒場でも同様だった。騒がしい宴会やせわしなく働く女たちの姿はなく、皆思い思いに語り合いながら、ゆっくりと杯を傾けている。
「こういう町もいいものだな」
エルシャがおもむろに呟く。そこへなみなみと注がれた酒が三杯運ばれ、ルイは目を輝かせてすぐさまそれを手に取った。
「久しぶりの酒だよ、気持ちが昂っちゃうな」
フェランがそれをたしなめる。
「ルイ、そんな様子だと、また酒に溺れるんじゃないですか? せっかくやめられたのに」
「今日だけだよ、今日だけ」
ルイは意にも介さずひとりでジョッキをあおった。フェランは半ば呆れた様子で、自分も酒へ手を伸ばす。エルシャはそんな二人を笑い、それから目の前のジョッキを見て、小さなため息をついた。
「……俺はやめておく。やっぱりまだ、体が受け付けそうにない」
途端に、フェランの顔が曇る。それに気づいて、エルシャは慌てて笑顔を作った。
「だいぶ調子はいいんだ。だが今日は、大事な日だからな」
エルシャがニコルで瀕死の重傷を負ってから、まだ一か月しか経っていない。まともに歩けるようになったのも、この二週間ほどのことだ。それでもこのアリクレスまで足を運んだのは、まさに今日が、約束の日だったからだ。
――二か月後、アリクレスの中央酒場で落ち合おう。うまく行っても行かなくても、だ。
ちょうど二か月前、そんな約束をした。数々の修羅場をくぐり抜けてきたあいつなら、きっと今夜、ここに現れるはずだ。
エルシャは時計を見た。午後十時。
もう、ラミたちは眠っただろうか。
宿に置いてきた女性三人のことが、今更ながら気になる。ルイも、同じことを考えていたようだ。ジョッキを二分目ほどまでに減らすと、一息ついてからいった。
「ところで本当に、ディオネとナイシェで大丈夫なの? ディオネはまあ、……アレだから、頼りになるだろうけど、ナイシェはさ、見るからにひ弱そうだし……」
人目があるため、ナリューンという言葉は使わずに表現する。するとフェランが微笑んでいった。
「ああ見えて、ナイシェもすごいんですよ。力はないかもしれませんが、とても身軽で、簡単にはやられません。何といっても、踊り子ですからね」
さも得意げにいった最後の言葉に、ルイは目を丸くした。
「踊り子? ナイシェが?」
フェランはくすくすと笑った。
「普段はあんなにおっとりしていますけどね、彼女の実力は本物です」
エルシャもうなずく。
「初めて会ったとき、俺たちは彼女の踊りを見たんだ。それはもう……言葉ではいい表せないくらい、素晴らしかったよ。羽でも生えているのかというくらい、ね」
フェランは思い出していた。初めて出会ったあの日、急遽花形の踊り子の代役として出たナイシェだったが、あの息を呑むほどに美しく神秘的だった登場の瞬間は、今でも脳裏に焼きついている。足元につけた鈴を微塵も鳴らすことなく、ふわりと舞い降りたひとりの妖精。これまで、宮殿の劇場でエルシャの供として多くの歌や踊りを観てきたが、あれほど心を奪われた瞬間はほかになかった。
「なるほど、女の子みたいなフェランより、むしろナイシェのほうが頼りになるというわけか」
笑いながらうなずくルイに、フェランが顔を赤らめる。
「やめてください、これでも少しは気にしてるんです」
すると、フェランが必要以上に女性らしくなってしまった最大の元凶ともいうべきエルシャが間に入った。
「まあ、夜の盛り場だからな。ナイシェのような子供みたいな女性が長時間滞在しても、悪目立ちするだろう。適材適所というやつだよ」
フェランがほっとしたようにうなずく。ルイは腑に落ちないようだが、そんなもんかね、と呟きながら残り少なくなったジョッキをあおった。
最後の一滴まで流し込もうと真上を向いたルイの目の前に、突然大きな男の顔が現れていった。
「何だ、知らない顔だな」
激しくむせ込むルイには構わず、エルシャとフェランは思わず腰を浮かせた。
「ゼムズ!」
そこには、筋肉隆々の大男が、よく知っている懐かしい笑顔で立っていた。
それは、夜の酒場でも同様だった。騒がしい宴会やせわしなく働く女たちの姿はなく、皆思い思いに語り合いながら、ゆっくりと杯を傾けている。
「こういう町もいいものだな」
エルシャがおもむろに呟く。そこへなみなみと注がれた酒が三杯運ばれ、ルイは目を輝かせてすぐさまそれを手に取った。
「久しぶりの酒だよ、気持ちが昂っちゃうな」
フェランがそれをたしなめる。
「ルイ、そんな様子だと、また酒に溺れるんじゃないですか? せっかくやめられたのに」
「今日だけだよ、今日だけ」
ルイは意にも介さずひとりでジョッキをあおった。フェランは半ば呆れた様子で、自分も酒へ手を伸ばす。エルシャはそんな二人を笑い、それから目の前のジョッキを見て、小さなため息をついた。
「……俺はやめておく。やっぱりまだ、体が受け付けそうにない」
途端に、フェランの顔が曇る。それに気づいて、エルシャは慌てて笑顔を作った。
「だいぶ調子はいいんだ。だが今日は、大事な日だからな」
エルシャがニコルで瀕死の重傷を負ってから、まだ一か月しか経っていない。まともに歩けるようになったのも、この二週間ほどのことだ。それでもこのアリクレスまで足を運んだのは、まさに今日が、約束の日だったからだ。
――二か月後、アリクレスの中央酒場で落ち合おう。うまく行っても行かなくても、だ。
ちょうど二か月前、そんな約束をした。数々の修羅場をくぐり抜けてきたあいつなら、きっと今夜、ここに現れるはずだ。
エルシャは時計を見た。午後十時。
もう、ラミたちは眠っただろうか。
宿に置いてきた女性三人のことが、今更ながら気になる。ルイも、同じことを考えていたようだ。ジョッキを二分目ほどまでに減らすと、一息ついてからいった。
「ところで本当に、ディオネとナイシェで大丈夫なの? ディオネはまあ、……アレだから、頼りになるだろうけど、ナイシェはさ、見るからにひ弱そうだし……」
人目があるため、ナリューンという言葉は使わずに表現する。するとフェランが微笑んでいった。
「ああ見えて、ナイシェもすごいんですよ。力はないかもしれませんが、とても身軽で、簡単にはやられません。何といっても、踊り子ですからね」
さも得意げにいった最後の言葉に、ルイは目を丸くした。
「踊り子? ナイシェが?」
フェランはくすくすと笑った。
「普段はあんなにおっとりしていますけどね、彼女の実力は本物です」
エルシャもうなずく。
「初めて会ったとき、俺たちは彼女の踊りを見たんだ。それはもう……言葉ではいい表せないくらい、素晴らしかったよ。羽でも生えているのかというくらい、ね」
フェランは思い出していた。初めて出会ったあの日、急遽花形の踊り子の代役として出たナイシェだったが、あの息を呑むほどに美しく神秘的だった登場の瞬間は、今でも脳裏に焼きついている。足元につけた鈴を微塵も鳴らすことなく、ふわりと舞い降りたひとりの妖精。これまで、宮殿の劇場でエルシャの供として多くの歌や踊りを観てきたが、あれほど心を奪われた瞬間はほかになかった。
「なるほど、女の子みたいなフェランより、むしろナイシェのほうが頼りになるというわけか」
笑いながらうなずくルイに、フェランが顔を赤らめる。
「やめてください、これでも少しは気にしてるんです」
すると、フェランが必要以上に女性らしくなってしまった最大の元凶ともいうべきエルシャが間に入った。
「まあ、夜の盛り場だからな。ナイシェのような子供みたいな女性が長時間滞在しても、悪目立ちするだろう。適材適所というやつだよ」
フェランがほっとしたようにうなずく。ルイは腑に落ちないようだが、そんなもんかね、と呟きながら残り少なくなったジョッキをあおった。
最後の一滴まで流し込もうと真上を向いたルイの目の前に、突然大きな男の顔が現れていった。
「何だ、知らない顔だな」
激しくむせ込むルイには構わず、エルシャとフェランは思わず腰を浮かせた。
「ゼムズ!」
そこには、筋肉隆々の大男が、よく知っている懐かしい笑顔で立っていた。
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