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【第五部:聖なる村】第九章
リキュスとテュリス
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その日の夜は、まだ初春だというのに窓を開けていても蒸し暑かった。眠気もそがれ苛立ちの募る日は、黄昏宮の西にある裏庭で涼むことに、テュリスはしていた。吹き抜ける風も、木立の間を通れば不思議と心地よい。自室から持ち出したワインを口につけながら、芝の上でテュリスはほどよいまどろみが訪れるのを待っていた。
近くでがさりと物音がして、テュリスは小さく舌打ちをするとけだるく上半身を起こした。
こんな時間に王族専用の敷地内で人の気配がするとは、警吏部の連中はどんな警備をしているんだ。
そんなことを思いながら音のしたほうへ目をやり、その後ろ姿を捉えると、テュリスの苛立ちは好奇心へと変わった。自分と似たような上等な衣服を身にまとい、自分より一回りほど体格のいいその男に、テュリスは声をかけた。
「こんな夜中にひとりでお散歩かい、国王様?」
呼ばれた男は、驚く様子もなく振り返ると、わずかばかり片眉を上げた。
「テュリス殿……あなたこそ、こんなところで何を」
抑揚はないが、その言葉から察するに多少は困惑しているようだ。テュリスは芝に座ったまま、国王――リキュスに向かってワイングラスを掲げた。
「寝つけなくてね、こっそり一杯やっていただけさ」
リキュスはゆっくりした足取りで近づいてくる。
「よく、警備の者が許しましたね」
テュリスは鼻で笑った。
「それはおまえも同じだろう――いや、国王陛下ともなれば、警備員も止められないか。俺はそもそも、奴らに内緒で出てきているからな」
「あらゆる出入り口に警備がいるのに、どうやって――」
いいかけて、リキュスは口をつぐんだ。テュリスが意味ありげににやりと笑う。
「……これ以上は、訊かないほうがよさそうですね」
いうと、リキュスはテュリスの隣に腰を下ろした――微妙な距離を置いて。テュリスは気にも留めない様子だ。
「で? おまえこそ、どうしてここに?」
リキュスはわずかに微笑んだ。
「少し、仕事の息抜きを……。夜風にあたれば、気分転換になるかと思いまして」
テュリスは驚きを隠せなかった。
「おまえ……こんな時間まで仕事か? 真面目にもほどがあるだろう」
しかしリキュスは表情を変えない。
「この仕事には、やりがいを感じています。確かに私は若輩者ですし、何の準備もできていない状態で一国の王となりましたが……宮廷長やジュノレ殿の助けのおかげで、何とか国の平和と安定のために役立つことができているのではないかと、これでも自負しています」
醸し出す雰囲気やその口調は穏やかそのもので、ともすれば地味すぎるとさえ思うが、いっていることはそれにそぐわず朗然としていた。
「なるほどな……。常に冷静沈着、自身を過大にも過小にも評価せず、物事を客観的に把握・分析できる能力……。ジュノレもなかなか人を見る目があるということか」
独り言のようにテュリスが呟く。聞いてか聞かずか、リキュスは視線を合わせないまま続けた。
「……正直にいうと、そんな周りの方々の善意に息苦しくなることも、ありますけどね……」
テュリスは興味深げにリキュスのほうへ振り向いた。
「俺に、そんなことをいっていいのか?」
リキュスも振り返る。口元がかすかに笑った。
「テュリス殿のことは、信頼していますから」
「信頼?」
鼻で笑うテュリスに、リキュスはいった。
「ええ。自分の利益を最優先に物事を判断する、あなたのそのぶれない芯を、私は信頼しています。何の問題もありません」
テュリスは今度は声を上げて笑った。
「おまえは面白い奴だよ。そうだな、その判断は間違ってはいない。宮殿の人間は、俺とおまえの関係についていろいろ憶測しているようだがな。そういう外野に惑わされないおまえの強さは、エルシャにはない長所だよ」
リキュスは再び視線を外し、宙を見た。
「信じられないかもしれませんが……あなたのその歯に衣着せぬ物言い、私は嫌いではありません。あなたは善悪の価値観ではものを語らない。すべてが自分を中心として語られる。ですから私も、あなたとは何の遠慮もなく話ができる。気遣いや罪悪感、そういったものとは無縁になれるのです」
「褒められているのか、けなされているのか……。まるで、おまえ自身が悪人みたいな言い草だな」
「……私は、私自身をわかっているつもりです。しかし、ジュノレ殿やワーグナは……私を、人として過大評価している。それが……心苦しいですね……」
表情を変えずにそう呟くリキュスを見て、テュリスはいった。
「そんな甘いことをいっているうちは、やっぱりおまえは善人だよ」
ワインの最後の一口を飲み干すと、テュリスは立ち上がった。
「さて、と……。今夜は面白い話を聞かせてもらったよ。おまえの護衛に見られないよう、俺はこっそり部屋に戻るとするさ。おまえも、これから起きることを誰かに告げ口なんて野暮なことはするなよ」
リキュスは微笑んで返した。
「心得ております」
テュリスは背を向けると、片手をひらひらと振りながら木陰へ歩いていき――アルム語ではない何かの呟きとともに、すっとその姿を消した。
「宮殿の敷地で、違法習得した赤魔術を部屋から抜け出すために使うとは……どこまで自由な人なんだ」
思わずそう漏らし、リキュスは小さな笑いを噛み殺した。
近くでがさりと物音がして、テュリスは小さく舌打ちをするとけだるく上半身を起こした。
こんな時間に王族専用の敷地内で人の気配がするとは、警吏部の連中はどんな警備をしているんだ。
そんなことを思いながら音のしたほうへ目をやり、その後ろ姿を捉えると、テュリスの苛立ちは好奇心へと変わった。自分と似たような上等な衣服を身にまとい、自分より一回りほど体格のいいその男に、テュリスは声をかけた。
「こんな夜中にひとりでお散歩かい、国王様?」
呼ばれた男は、驚く様子もなく振り返ると、わずかばかり片眉を上げた。
「テュリス殿……あなたこそ、こんなところで何を」
抑揚はないが、その言葉から察するに多少は困惑しているようだ。テュリスは芝に座ったまま、国王――リキュスに向かってワイングラスを掲げた。
「寝つけなくてね、こっそり一杯やっていただけさ」
リキュスはゆっくりした足取りで近づいてくる。
「よく、警備の者が許しましたね」
テュリスは鼻で笑った。
「それはおまえも同じだろう――いや、国王陛下ともなれば、警備員も止められないか。俺はそもそも、奴らに内緒で出てきているからな」
「あらゆる出入り口に警備がいるのに、どうやって――」
いいかけて、リキュスは口をつぐんだ。テュリスが意味ありげににやりと笑う。
「……これ以上は、訊かないほうがよさそうですね」
いうと、リキュスはテュリスの隣に腰を下ろした――微妙な距離を置いて。テュリスは気にも留めない様子だ。
「で? おまえこそ、どうしてここに?」
リキュスはわずかに微笑んだ。
「少し、仕事の息抜きを……。夜風にあたれば、気分転換になるかと思いまして」
テュリスは驚きを隠せなかった。
「おまえ……こんな時間まで仕事か? 真面目にもほどがあるだろう」
しかしリキュスは表情を変えない。
「この仕事には、やりがいを感じています。確かに私は若輩者ですし、何の準備もできていない状態で一国の王となりましたが……宮廷長やジュノレ殿の助けのおかげで、何とか国の平和と安定のために役立つことができているのではないかと、これでも自負しています」
醸し出す雰囲気やその口調は穏やかそのもので、ともすれば地味すぎるとさえ思うが、いっていることはそれにそぐわず朗然としていた。
「なるほどな……。常に冷静沈着、自身を過大にも過小にも評価せず、物事を客観的に把握・分析できる能力……。ジュノレもなかなか人を見る目があるということか」
独り言のようにテュリスが呟く。聞いてか聞かずか、リキュスは視線を合わせないまま続けた。
「……正直にいうと、そんな周りの方々の善意に息苦しくなることも、ありますけどね……」
テュリスは興味深げにリキュスのほうへ振り向いた。
「俺に、そんなことをいっていいのか?」
リキュスも振り返る。口元がかすかに笑った。
「テュリス殿のことは、信頼していますから」
「信頼?」
鼻で笑うテュリスに、リキュスはいった。
「ええ。自分の利益を最優先に物事を判断する、あなたのそのぶれない芯を、私は信頼しています。何の問題もありません」
テュリスは今度は声を上げて笑った。
「おまえは面白い奴だよ。そうだな、その判断は間違ってはいない。宮殿の人間は、俺とおまえの関係についていろいろ憶測しているようだがな。そういう外野に惑わされないおまえの強さは、エルシャにはない長所だよ」
リキュスは再び視線を外し、宙を見た。
「信じられないかもしれませんが……あなたのその歯に衣着せぬ物言い、私は嫌いではありません。あなたは善悪の価値観ではものを語らない。すべてが自分を中心として語られる。ですから私も、あなたとは何の遠慮もなく話ができる。気遣いや罪悪感、そういったものとは無縁になれるのです」
「褒められているのか、けなされているのか……。まるで、おまえ自身が悪人みたいな言い草だな」
「……私は、私自身をわかっているつもりです。しかし、ジュノレ殿やワーグナは……私を、人として過大評価している。それが……心苦しいですね……」
表情を変えずにそう呟くリキュスを見て、テュリスはいった。
「そんな甘いことをいっているうちは、やっぱりおまえは善人だよ」
ワインの最後の一口を飲み干すと、テュリスは立ち上がった。
「さて、と……。今夜は面白い話を聞かせてもらったよ。おまえの護衛に見られないよう、俺はこっそり部屋に戻るとするさ。おまえも、これから起きることを誰かに告げ口なんて野暮なことはするなよ」
リキュスは微笑んで返した。
「心得ております」
テュリスは背を向けると、片手をひらひらと振りながら木陰へ歩いていき――アルム語ではない何かの呟きとともに、すっとその姿を消した。
「宮殿の敷地で、違法習得した赤魔術を部屋から抜け出すために使うとは……どこまで自由な人なんだ」
思わずそう漏らし、リキュスは小さな笑いを噛み殺した。
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