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第8章

山吹のDNA①

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 哲平たちが引き上げたあと、狭いリビングには慎一と山吹だけが残された。山吹は、リビングの掃き出し窓から見える小さな庭を眺めた。

「……ここに、お花が咲いていたんですね」

 慎一は山吹の視線を追うと、ためらいがちに笑った。

「ああ、昔はね……。妻が熱心に、手入れをしていた」

 山吹が振り返る。

「黄色いフリージアが好きな、あやめさん?」

 慎一は視線を逸らした。

「……すまなかった。記憶をなくしていたとはいえ、君を……困らせるようなことを、して……。いや、困らせているのは、記憶をなくす前からだね。ずっとだ……君を造り出してから、ずっと」
「……困っては、いません。ただ……不思議でした。あなたは、私を見ているようで、見ていなかった。私を通して、いつも違う人を見ている気がしていたから……それは誰なのか、と……」

 慎一はソファに腰を下ろすと、静かに頭を抱えた。

「こんなに身勝手で、倫理規範を逸脱するような僕が、いかにも科学者然としてさっきの若者たちにVCについて話すのを見て、君は呆れただろう。人間が、人間のDNAを利用して違う生き物を造る……そんなことは、本来許されるべきではない。クローン技術を一部利用はしているけれど、厳密にはクローン胚ではない。法律にも違反していない――そんな屁理屈で自分を騙してVCを造り、それが成功すると、僕は、FC社にも内密で、君を造った。……ほかのVCたちとは違う、完全に個人的な理由で、だ。僕は本来、君に恨まれてもいい存在だ」
「でも……一度生まれた私を生かしておけるのは、あなただけでした」
「そう。僕は、僕のために君を造り出し、君が僕に依存するように、誰にも触れさせずに育てた……。君が、僕だけを見るように」

 慎一は山吹の顔を見た。穏やかだが感情のこもらない目で、自分を見ている。彼女はいつも、そうだった。

「僕は、馬鹿だね……。こんな育て方をして、君が僕を本当に好きになるわけがない。そして、君は……あやめ本人ではない」
「でも、記憶を失ったあなたは、私を見てあやめといいました」

 慎一は苦笑いした。

「そう……。スズオだったときの記憶も感情も、すべて覚えている。僕は自分の過ちを都合よく忘れ去って、さらに君を傷つけた。そうだよね? 僕を見ても、僕のことなんか知らないふりをして、やり過ごすほどに。研究所でのことや、浅川慎一という人間と過ごした時間のこと。すべてを、なかったことにしたかった。そうなんだろう?」
「それは、違います」

 山吹がきっぱりと否定した。

「私があなたを知らないふりをしたのは、本当のあなたを知りたかったからです。慎一さんは、ずっと私に秘密を抱えていた。それが何なのか、私にはわからなかった。私はね、知らないふりなんてしていません。本当に、慎一さんのことを、知らなかったのです。慎一さんという人間が、何者なのか……一緒にいても、見ることができなかった。だから……スズオさんと時を過ごせば、それがわかるのではないかと、思ったのです」

 そして、わずかに微笑んだ。

「今、やっとわかりました。慎一さんが見ていたものは、あやめさんだった。私ではなく、奥様のあやめさん。私の……DNAの、一部なのですね」
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