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第2話

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 初めて遥巳と顔を合わせたのは、鷹華が十二歳になってからだった。
「鷹華、これ、遥巳様のお部屋へ運んでちょうだい」
 厨房係の多江に声をかけられた。いつも遥巳の身の回りの世話をしている京子が、一週間の暇をもらったらしい。
「え、私が、ですか?」
 ころころと玉を転がすような声が、いっそう高くなる。
「ええ。あなたもそろそろ立派な使用人にならなきゃいけない歳だからね。これまでみたいに、『失敗ばかりだけど、まだ見習いだから許してくださ~い』、じゃあ済まないのよ。学費までご主人様にお世話になったんだから、これからはいっそう気を引き締めてお仕えしないと」
 ごくり、と喉を鳴らす。
 にわかに緊張し始めたのは、失敗できないからというだけではない。
(とうとう、遥巳様に、お会いするんだ)
 台車を押しながら、鷹華は何度も深呼吸をした。
「粗相をしないように、粗相を……」
 ぶつぶつと言い聞かせながら、扉をノックする。
「遥巳様、鷹華でございます。お食事をお持ち致しました」
 恐る恐る声をかけると、中から声が聞こえた。
「どうぞ」
 思ったより高い声だった。遥巳は今、十五歳のはずだ。同じ頃の貴久は、すでに声が低かった気がする。
 扉を開けて驚いた。
 ベッドの上に、遥巳が座っていた。振り返ったその姿は、最後に彼を見た時――鷹華が八歳の時、窓ガラス越しに見た華奢な遥巳そのままだった。あれから四年経っているのに、まるで遥巳の周りだけ、時が止まっていたかのようだ。ふわふわの髪と、透けてしまいそうなほど白い肌。清潔な白いシャツを着た胸板は薄く、袖から見える手首は痛々しいほど細い。
「鷹華。初めまして、で、いいんだよね?」
「は、はい! 山村鷹華と申します、よろしくお願い致します!」
「苗字はいらないよ。使用人には意味がない」
 わずかに微笑んだ口元から紡がれた感情のこもらない言葉に、鷹華は唇を結んだ。
「……し、失礼致しました……」
 ゆっくり台車を押しながら近づく。窓からの逆光でわからなかったが、近くまで寄って、気づいた。遥巳の口角はきゅっと持ち上がって笑っているように見えたが、その目に光はなく、不自然なほどに冷たい。
「食事の運搬、押しつけられたの?」
「え……?」
 遥巳がじっと鷹華を見つめていた。
「京子以外は、誰もこの部屋に入りたがらない。皆、僕と話すのも嫌がるからね。だから君が来たんでしょ?」
 そんな話は初耳だ。
「滅相もございません、とても光栄で――」
「無理しなくていい。噂は知ってるんだ。出来のいい二人の兄に比べて、僕は体が弱くて使い物にならない。一条家のお荷物だから、こうやってひっそりと暮らしながら、せめて誰にも迷惑をかけないように静かに生きるのが、僕の役目。そうだろう?」
「そ、そんなことは……」
「でもさ、迷惑をかけないように生きろなんて、無理な話なんだ。だってそうでしょ? 人間は、生きているだけで、誰かしらに迷惑をかけている」
 相変わらず感情のこもらない目で、淡々とそう語る遥巳の言葉が、鷹華の心の奥深くに落ちて小さな棘のように刺さった。
「……そう……なんですね……。そうなんです……」
 静かだった遥巳の目が、訝し気に鷹華を見る。鷹華は目を大きくして、驚いたように遥巳を見つめていた。
「迷惑をかけないように、生きているつもりでした。でも、追い出されたんです……。そうですよね、だって、生きているだけで、迷惑なんですから……」
 ぽろぽろと大粒の涙が鷹華の頬を伝い、遥巳は驚いて枕元のちり紙を差し出した。
「なんだよ、どうしておまえが泣くんだよ。ああ、そうやって僕の神経を逆撫でして、僕の方からおまえを拒絶するように仕向けてるのか?」
 鷹華は慌てて涙を拭うと、すぐに台車から盆を下ろした。
「も、申し訳ありません、すぐにお食事を――ひゃああっ!?」
 床頭台に盆を乗せようと一歩踏み出し、つま先が台車に躓く。しまったと思った時にはすでに遅く、盆はひっくり返って冷たいスープが遥巳の上半身を濡らした。
「ああっ! すみません遥巳様! お、お許しくださいっ、どうか私を追い出さないでください!」
 必死に叫びながら、涙を拭いたばかりのちり紙を遥巳のシャツへ押しつける。
「ああっ、どうして私はいつもこうなの! あんなに失敗しないようにって思ってたのに、遥巳様がお風邪でも召したら私のせいです! 多江さんにもまた叱られるわ、せっかくのお料理を台無しにして……!」
 早口に捲し立てながらちり紙を押し当て、それでも足りないと気づくと鷹華は自らのエプロンを外し始めた。
「よ、鷹華……」
 呆気にとられる遥巳を無視して、真っ白のエプロンで服を拭こうとする鷹華の手を、遥巳が掴んだ。
「鷹華。そうじゃなくて、ここは、タオルと着替えを取りに行くところだろう?」
「ああ! そうですね、そうでした! 只今お持ちしま――きゃああ!?」
 びくんと跳ねあがった鷹華の背中が再び台車にぶつかり、今度は熱々のビーフシチューが鷹華の背中にかかる。
「あっ、あっ、熱い! やだっ、何これ!?」
 すっかりパニックになって跳ね回っている鷹華を見ていた遥巳が、堪えきれずにぷっと吹き出した。
「……鷹華。落ち着けよ」
 半泣きになっている鷹華の腕を、今度は優しく掴む。
「食事はいらない。どうせお腹なんて空いていないから。その代わり、タオルと僕の着替えを持ってきて。それと、おまえもすぐに着替えろ」
「は、はい、本当にすみませんでした、あの、どうかお許しください、私を追い出さないでください……」
 体を縮こまらせて震える鷹華に、遥巳は柔らかい笑顔で応えた。
「いいから、着替えてこい。わかるね? タオルと、僕の着替えもだ。おまえが、責任を持って、取ってくるんだぞ。時間が、かかってもいいから」
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