2 / 5
第2話
しおりを挟む
初めて遥巳と顔を合わせたのは、鷹華が十二歳になってからだった。
「鷹華、これ、遥巳様のお部屋へ運んでちょうだい」
厨房係の多江に声をかけられた。いつも遥巳の身の回りの世話をしている京子が、一週間の暇をもらったらしい。
「え、私が、ですか?」
ころころと玉を転がすような声が、いっそう高くなる。
「ええ。あなたもそろそろ立派な使用人にならなきゃいけない歳だからね。これまでみたいに、『失敗ばかりだけど、まだ見習いだから許してくださ~い』、じゃあ済まないのよ。学費までご主人様にお世話になったんだから、これからはいっそう気を引き締めてお仕えしないと」
ごくり、と喉を鳴らす。
にわかに緊張し始めたのは、失敗できないからというだけではない。
(とうとう、遥巳様に、お会いするんだ)
台車を押しながら、鷹華は何度も深呼吸をした。
「粗相をしないように、粗相を……」
ぶつぶつと言い聞かせながら、扉をノックする。
「遥巳様、鷹華でございます。お食事をお持ち致しました」
恐る恐る声をかけると、中から声が聞こえた。
「どうぞ」
思ったより高い声だった。遥巳は今、十五歳のはずだ。同じ頃の貴久は、すでに声が低かった気がする。
扉を開けて驚いた。
ベッドの上に、遥巳が座っていた。振り返ったその姿は、最後に彼を見た時――鷹華が八歳の時、窓ガラス越しに見た華奢な遥巳そのままだった。あれから四年経っているのに、まるで遥巳の周りだけ、時が止まっていたかのようだ。ふわふわの髪と、透けてしまいそうなほど白い肌。清潔な白いシャツを着た胸板は薄く、袖から見える手首は痛々しいほど細い。
「鷹華。初めまして、で、いいんだよね?」
「は、はい! 山村鷹華と申します、よろしくお願い致します!」
「苗字はいらないよ。使用人には意味がない」
わずかに微笑んだ口元から紡がれた感情のこもらない言葉に、鷹華は唇を結んだ。
「……し、失礼致しました……」
ゆっくり台車を押しながら近づく。窓からの逆光でわからなかったが、近くまで寄って、気づいた。遥巳の口角はきゅっと持ち上がって笑っているように見えたが、その目に光はなく、不自然なほどに冷たい。
「食事の運搬、押しつけられたの?」
「え……?」
遥巳がじっと鷹華を見つめていた。
「京子以外は、誰もこの部屋に入りたがらない。皆、僕と話すのも嫌がるからね。だから君が来たんでしょ?」
そんな話は初耳だ。
「滅相もございません、とても光栄で――」
「無理しなくていい。噂は知ってるんだ。出来のいい二人の兄に比べて、僕は体が弱くて使い物にならない。一条家のお荷物だから、こうやってひっそりと暮らしながら、せめて誰にも迷惑をかけないように静かに生きるのが、僕の役目。そうだろう?」
「そ、そんなことは……」
「でもさ、迷惑をかけないように生きろなんて、無理な話なんだ。だってそうでしょ? 人間は、生きているだけで、誰かしらに迷惑をかけている」
相変わらず感情のこもらない目で、淡々とそう語る遥巳の言葉が、鷹華の心の奥深くに落ちて小さな棘のように刺さった。
「……そう……なんですね……。そうなんです……」
静かだった遥巳の目が、訝し気に鷹華を見る。鷹華は目を大きくして、驚いたように遥巳を見つめていた。
「迷惑をかけないように、生きているつもりでした。でも、追い出されたんです……。そうですよね、だって、生きているだけで、迷惑なんですから……」
ぽろぽろと大粒の涙が鷹華の頬を伝い、遥巳は驚いて枕元のちり紙を差し出した。
「なんだよ、どうしておまえが泣くんだよ。ああ、そうやって僕の神経を逆撫でして、僕の方からおまえを拒絶するように仕向けてるのか?」
鷹華は慌てて涙を拭うと、すぐに台車から盆を下ろした。
「も、申し訳ありません、すぐにお食事を――ひゃああっ!?」
床頭台に盆を乗せようと一歩踏み出し、つま先が台車に躓く。しまったと思った時にはすでに遅く、盆はひっくり返って冷たいスープが遥巳の上半身を濡らした。
「ああっ! すみません遥巳様! お、お許しくださいっ、どうか私を追い出さないでください!」
必死に叫びながら、涙を拭いたばかりのちり紙を遥巳のシャツへ押しつける。
「ああっ、どうして私はいつもこうなの! あんなに失敗しないようにって思ってたのに、遥巳様がお風邪でも召したら私のせいです! 多江さんにもまた叱られるわ、せっかくのお料理を台無しにして……!」
早口に捲し立てながらちり紙を押し当て、それでも足りないと気づくと鷹華は自らのエプロンを外し始めた。
「よ、鷹華……」
呆気にとられる遥巳を無視して、真っ白のエプロンで服を拭こうとする鷹華の手を、遥巳が掴んだ。
「鷹華。そうじゃなくて、ここは、タオルと着替えを取りに行くところだろう?」
「ああ! そうですね、そうでした! 只今お持ちしま――きゃああ!?」
びくんと跳ねあがった鷹華の背中が再び台車にぶつかり、今度は熱々のビーフシチューが鷹華の背中にかかる。
「あっ、あっ、熱い! やだっ、何これ!?」
すっかりパニックになって跳ね回っている鷹華を見ていた遥巳が、堪えきれずにぷっと吹き出した。
「……鷹華。落ち着けよ」
半泣きになっている鷹華の腕を、今度は優しく掴む。
「食事はいらない。どうせお腹なんて空いていないから。その代わり、タオルと僕の着替えを持ってきて。それと、おまえもすぐに着替えろ」
「は、はい、本当にすみませんでした、あの、どうかお許しください、私を追い出さないでください……」
体を縮こまらせて震える鷹華に、遥巳は柔らかい笑顔で応えた。
「いいから、着替えてこい。わかるね? タオルと、僕の着替えもだ。おまえが、責任を持って、取ってくるんだぞ。時間が、かかってもいいから」
「鷹華、これ、遥巳様のお部屋へ運んでちょうだい」
厨房係の多江に声をかけられた。いつも遥巳の身の回りの世話をしている京子が、一週間の暇をもらったらしい。
「え、私が、ですか?」
ころころと玉を転がすような声が、いっそう高くなる。
「ええ。あなたもそろそろ立派な使用人にならなきゃいけない歳だからね。これまでみたいに、『失敗ばかりだけど、まだ見習いだから許してくださ~い』、じゃあ済まないのよ。学費までご主人様にお世話になったんだから、これからはいっそう気を引き締めてお仕えしないと」
ごくり、と喉を鳴らす。
にわかに緊張し始めたのは、失敗できないからというだけではない。
(とうとう、遥巳様に、お会いするんだ)
台車を押しながら、鷹華は何度も深呼吸をした。
「粗相をしないように、粗相を……」
ぶつぶつと言い聞かせながら、扉をノックする。
「遥巳様、鷹華でございます。お食事をお持ち致しました」
恐る恐る声をかけると、中から声が聞こえた。
「どうぞ」
思ったより高い声だった。遥巳は今、十五歳のはずだ。同じ頃の貴久は、すでに声が低かった気がする。
扉を開けて驚いた。
ベッドの上に、遥巳が座っていた。振り返ったその姿は、最後に彼を見た時――鷹華が八歳の時、窓ガラス越しに見た華奢な遥巳そのままだった。あれから四年経っているのに、まるで遥巳の周りだけ、時が止まっていたかのようだ。ふわふわの髪と、透けてしまいそうなほど白い肌。清潔な白いシャツを着た胸板は薄く、袖から見える手首は痛々しいほど細い。
「鷹華。初めまして、で、いいんだよね?」
「は、はい! 山村鷹華と申します、よろしくお願い致します!」
「苗字はいらないよ。使用人には意味がない」
わずかに微笑んだ口元から紡がれた感情のこもらない言葉に、鷹華は唇を結んだ。
「……し、失礼致しました……」
ゆっくり台車を押しながら近づく。窓からの逆光でわからなかったが、近くまで寄って、気づいた。遥巳の口角はきゅっと持ち上がって笑っているように見えたが、その目に光はなく、不自然なほどに冷たい。
「食事の運搬、押しつけられたの?」
「え……?」
遥巳がじっと鷹華を見つめていた。
「京子以外は、誰もこの部屋に入りたがらない。皆、僕と話すのも嫌がるからね。だから君が来たんでしょ?」
そんな話は初耳だ。
「滅相もございません、とても光栄で――」
「無理しなくていい。噂は知ってるんだ。出来のいい二人の兄に比べて、僕は体が弱くて使い物にならない。一条家のお荷物だから、こうやってひっそりと暮らしながら、せめて誰にも迷惑をかけないように静かに生きるのが、僕の役目。そうだろう?」
「そ、そんなことは……」
「でもさ、迷惑をかけないように生きろなんて、無理な話なんだ。だってそうでしょ? 人間は、生きているだけで、誰かしらに迷惑をかけている」
相変わらず感情のこもらない目で、淡々とそう語る遥巳の言葉が、鷹華の心の奥深くに落ちて小さな棘のように刺さった。
「……そう……なんですね……。そうなんです……」
静かだった遥巳の目が、訝し気に鷹華を見る。鷹華は目を大きくして、驚いたように遥巳を見つめていた。
「迷惑をかけないように、生きているつもりでした。でも、追い出されたんです……。そうですよね、だって、生きているだけで、迷惑なんですから……」
ぽろぽろと大粒の涙が鷹華の頬を伝い、遥巳は驚いて枕元のちり紙を差し出した。
「なんだよ、どうしておまえが泣くんだよ。ああ、そうやって僕の神経を逆撫でして、僕の方からおまえを拒絶するように仕向けてるのか?」
鷹華は慌てて涙を拭うと、すぐに台車から盆を下ろした。
「も、申し訳ありません、すぐにお食事を――ひゃああっ!?」
床頭台に盆を乗せようと一歩踏み出し、つま先が台車に躓く。しまったと思った時にはすでに遅く、盆はひっくり返って冷たいスープが遥巳の上半身を濡らした。
「ああっ! すみません遥巳様! お、お許しくださいっ、どうか私を追い出さないでください!」
必死に叫びながら、涙を拭いたばかりのちり紙を遥巳のシャツへ押しつける。
「ああっ、どうして私はいつもこうなの! あんなに失敗しないようにって思ってたのに、遥巳様がお風邪でも召したら私のせいです! 多江さんにもまた叱られるわ、せっかくのお料理を台無しにして……!」
早口に捲し立てながらちり紙を押し当て、それでも足りないと気づくと鷹華は自らのエプロンを外し始めた。
「よ、鷹華……」
呆気にとられる遥巳を無視して、真っ白のエプロンで服を拭こうとする鷹華の手を、遥巳が掴んだ。
「鷹華。そうじゃなくて、ここは、タオルと着替えを取りに行くところだろう?」
「ああ! そうですね、そうでした! 只今お持ちしま――きゃああ!?」
びくんと跳ねあがった鷹華の背中が再び台車にぶつかり、今度は熱々のビーフシチューが鷹華の背中にかかる。
「あっ、あっ、熱い! やだっ、何これ!?」
すっかりパニックになって跳ね回っている鷹華を見ていた遥巳が、堪えきれずにぷっと吹き出した。
「……鷹華。落ち着けよ」
半泣きになっている鷹華の腕を、今度は優しく掴む。
「食事はいらない。どうせお腹なんて空いていないから。その代わり、タオルと僕の着替えを持ってきて。それと、おまえもすぐに着替えろ」
「は、はい、本当にすみませんでした、あの、どうかお許しください、私を追い出さないでください……」
体を縮こまらせて震える鷹華に、遥巳は柔らかい笑顔で応えた。
「いいから、着替えてこい。わかるね? タオルと、僕の着替えもだ。おまえが、責任を持って、取ってくるんだぞ。時間が、かかってもいいから」
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
聖女の婚約者は、転生者の王子だった ~悪役令嬢との再会に心を揺らす~
六角
恋愛
ラは、聖女として神に選ばれた少女である。彼女は、王国の平和と繁栄のために、王子と婚約することになった。しかし、王子は、前世の記憶を持つ転生者であり、ミラとは別の乙女ゲームの世界で悪役令嬢と恋に落ちたことがあった。その悪役令嬢は、この世界でも存在し、ミラの友人だった。王子は、ミラとの婚約を破棄しようとするが、ミラの純真な心に触れて次第に惹かれていく。一方、悪役令嬢も、王子との再会に心を揺らすが、ミラを裏切ることはできないと思っていた。三人の恋の行方はどうなるのか?
囚われの姉弟
折原さゆみ
恋愛
中道楓子(なかみちふうこ)には親友がいた。大学の卒業旅行で、親友から思わぬ告白を受ける。
「私は楓子(ふうこ)が好き」
「いや、私、女だよ」
楓子は今まで親友を恋愛対象として見たことがなかった。今後もきっとそうだろう。親友もまた、楓子の気持ちを理解していて、楓子が告白を受け入れなくても仕方ないとあきらめていた。
そのまま、気まずい雰囲気のまま卒業式を迎えたが、事態は一変する。
「姉ちゃん、俺ついに彼女出来た!」
弟の紅葉(もみじ)に彼女が出来た。相手は楓子の親友だった。
楓子たち姉弟は親友の乗附美耶(のつけみや)に翻弄されていく。
落ちる花(アルファポリス版)
みきかなた
恋愛
幼馴染みの美しい彬智に心を寄せる茉莉花。
だが彼の心は亡き姉の英梨花への変わらぬ恋で占められている。
叶わぬ恋に身を焦がす少女と、運命に翻弄される少年たちの、長き人生の物語。
ムーンライトノベルズより転載しております。
★【完結】棘のない薔薇(作品230327)
菊池昭仁
恋愛
聡と辛い別れをした遥はその傷が癒えぬまま、学生時代のサークル仲間、光一郎と寂しさから結婚してしまい、娘の紅葉が生まれてしあわせな日々を過ごしていた。そんな時、遙の会社の取引先の商社マン、冴島と出会い、遙は恋に落ちてしまう。花を売るイタリアンレストラン『ナポリの黄昏』のスタッフたちはそんな遥をやさしく見守る。都会を漂う男と女。傷つけ傷つけられて愛が加速してゆく。遙の愛の行方はどこに進んで行くのだろうか?
【完結】君の世界に僕はいない…
春野オカリナ
恋愛
アウトゥーラは、「永遠の楽園」と呼ばれる修道院で、ある薬を飲んだ。
それを飲むと心の苦しみから解き放たれると言われる秘薬──。
薬の名は……。
『忘却の滴』
一週間後、目覚めたアウトゥーラにはある変化が現れた。
それは、自分を苦しめた人物の存在を全て消し去っていたのだ。
父親、継母、異母妹そして婚約者の存在さえも……。
彼女の目には彼らが映らない。声も聞こえない。存在さえもきれいさっぱりと忘れられていた。
薄幸の佳人
江馬 百合子
恋愛
この世のものとは思えない美貌を持つ藤泉院 無月。
孤高の名家の令嬢である彼女は、父と継母に屋敷に閉じ込められ、緩慢な日々を過ごしていた。
そんな彼女の心の支えは、幼馴染の春乃宮 日向だけ。
この先もこの屋敷でずっと生贄のように生きていくのだと思っていた。
そんなある日、青年、深草 槙とその妹女子高生の深草 一葉と出会い、運命は大きく動き始める。
誰よりも世界を知らなかった令嬢と、彼女を取り巻く人々の現実味のない世界が、解き明かされる過去とともに、少しずつ色を帯びていく。
それは日々色味を増して。
そして、彼女は希望と恋を知る。
今、彼女は孤独な屋敷から歩み出したばかり。
薔薇の姫は夕闇色に染まりて
黒幸
恋愛
あらすじで難解そうに見えますが本編はコメディです、多分メイビー。
その世界は我々が住む世界に似ているが似ていない。
我々がよく知っているつもりになっているだけで、あまり知らない。
この物語の舞台は、そんなとある異世界……。
我々がイタリアと呼ぶ国に似たような国がその世界にはある。
その名もセレス王国。
重厚な歴史を持ち、「永遠の街」王都パラティーノを擁する千年王国。
そして、その歴史に幕が下りようとしている存亡の危機を抱えていることをまだ、誰も知らない。
この世界の歴史は常に動いており、最大の力を持つ国家は常に流転する。
今この時、最も力を持った二大国とセレス王国は国境を接していた。
一つは、我々が住む世界のドイツやフランスを思わせる西の自由都市同盟。
そして、もう1つがロシアを思わせる東の自由共和国である。
皮肉にも同じ自由を冠する両国は自らの自由こそ、絶対の物であり、大義としていた。
本当の自由を隣国に与えん。
そんな大義名分のもとに武力という名の布教が幾度も行われていた。
かつての大戦で両国は疲弊し、時代は大きく動き始めようとしている。
そして、その布教の対象には中立を主張するセレス王国も含まれていた。
舞台を決して表に出ない裏へと変えた二大国の争い。
永遠の街を巻き込んだ西と東の暗闘劇は日夜行われている。
そんな絶体絶命の危機にも関わらず、王国の民衆は悲嘆に明け暮れているかというとそうでもない。
そう、セレス王国には、最後の希望『黎明の聖女』がいたからだ。
これは歴史の影で誰にもその素顔を知られること無く、戦い続けた聖女の物語である。
そして、愛に飢えた一人の哀しき女の物語でもある。
旧題『黎明の聖女は今日も紅に染まる~暗殺聖女と剣聖の恋のシーソーゲーム~』
Special Thanks
あらすじ原案:『だって、お金が好きだから』の作者様であるまぁじんこぉる様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる