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第二章 ガイアの遺伝子編

#72 白い雨合羽

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 その頃、地球。
 戸館ボクシングジムにて。

「お疲れ、テイテイ。はい、これ」
「ああ」

 奈緒がペットボトルのドリンクをテイテイに手渡し、テイテイは短く答えて受け取り、それをごくごくと飲む。
 テイテイはあれから毎日の様にここに通い、奈緒と共に特訓を続けていた。

「今日はもう帰るだろう?」
「そうだな」

 熱中して居れば、時間はあっという間に過ぎて行く。
 気づけばもう外は暗くなっていた。

「今日は随分と遅くまでやってしまったね。どうする? 別に、泊って行っても構わないよ?」
「いいや、そこまで迷惑はかけられない」
「そうかい。ニュースでやっていただろう、白い通り魔が出るらしいじゃないか。気を付けるんだよ」
「ニュースはあまり見ないが、そうなのか。だが、わざわざ俺を襲う様な通り魔なんて居ないだろう」

 今ニュースで話題となっている、白い通り魔。
 誰彼構わず無差別に夜間一人で歩いている者を襲い、襲われた者は昏睡状態となってしまうのだという。
 
 しかし、テイテイは鍛え上げられた長身の男だ。その上人間でありながらも自身の魂に流れる波動を操り神の力を行使出来てしまう。
 通り魔だろうが何だろうが、一蹴してしまえるだろう。
 
 奈緒もそんな心配、杞憂にすらならない事は分かっている。
 すぐに自分の言った事が自分でおかしくなり、喉を鳴らして笑ってしまった。
 
「くくっ。そうだね、冗談だよ。じゃあ、また明日」
「ああ、またな」

 そう言って、テイテイはジムを後にした。

 テイテイは夜道を一人、帰路を歩いている。
 今夜は月明りが明るく照らし、夜だというのにやけに明るく感じる。
 有っても無くても変わらない様な壊れてチカチカと点滅している街灯の下をテイテイは歩く。

 丁度道半ばまで歩いた頃だろうか。
 ふと、テイテイは背後に気配を感じ、振り向く。

「――誰だ、お前は」

 そこには、乳白色の雨合羽を被った一人の――おそらく、女性と思われる細い身体をした人の姿が有った。
 雨合羽のフードを目部下に被っているからか、そして月明りが逆行となっているからか、その顔や表情は窺い知れない。
 
 白い雨合羽の女はテイテイの問いに答える事は無い。

(どう見ても、ただの女だ。しかし、なんだ、これは……?)
 
 見た所、凶器を持っている訳でも無い。
 だというのに、彼女からは真っ黒なまるで肌を焼く様な殺気を感じ、テイテイは警戒を解く事は出来なかった。
 
 テイテイは拳法、格闘術の達人だ。
 そのテイテイが人間を相手に負ける事など決してあり得ない。
 しかし、その研ぎ澄まされた直感が、目の前の何でもない女の殺気を“危険だ”と判断しているのだ。

 テイテイは相手の出方を窺う為に、しばらくの間白い雨合羽の女と見合う。
 一定の間合いを保ち、その後――、動く。

 先に動いたのは、雨合羽の女の方だった。
 素手で、そして素人の稚拙な動きで、テイテイに殴りかかって来る。

 テイテイは奈緒との特訓で新たに修得した新たな技術『カンガルースタイル』を用いて、その雨合羽の女の攻撃を全て回避する。
 あらゆる攻撃パターンを身体に叩き込まれたテイテイの身体は、まるで自動操縦かの様に、機械的に、そして反射的に動く。

 『カンガルースタイル』を修得したテイテイの身体は反射で動き、半ば勝手に攻撃を回避してくれる。
 だからこそ、その戦闘の最中相手を冷静に分析する余裕すらあった。
 
 だからこそ最初は底知れぬ黒い殺気に警戒して、相手の力量を見極めようとしていたテイテイだったが、すぐにそれも徒労だと一蹴した。
 やはりどう見ても素人の動きで、一生かかってもテイテイに女の攻撃は当たらないだろう。

「――素人が。襲う相手を間違えたな」

 そして、隙だらけの女のボディーにカウンターの拳を叩き込む――その刹那。

(――!?)

 女から感じていた殺気が、波動――つまり、神の力に似た感覚に変わった。
 それにテイテイの身体と、そして思考も同時に反応し、すぐに『鎖』のスキルを発動。
 自身の拳に鬼と戦う時と同じ様に鎖を纏わせる。

 雨合羽の女の身体にテイテイの鎖の拳は直撃。
 その女の身体は吹き飛ばされ、地面に投げ飛ばされる。

「はあ? 何だったんだ、さっきのは。俺の感覚がおかしくなっているのか……?」

 何の抵抗も無かった。
 あれ程どす黒い殺気と、そして波動。
 それを感じたからこそ、テイテイはスキルを使ったのだ。
 何かしらの致命的なアクションが有ると直感したからこそ、神または鬼に順ずる相手だと判断したからこそ、殆ど殺す気で振るった拳だ。
 
 それなのに、無抵抗に殴られ倒れる女。
 しかも、それだけではない。

「軽すぎる。まるで、居ないみたいな……」

 殴った感触が、無いと言ってもいい程希薄だった。
 本当に自分が相対していたのが女だったのか、それとも空気だったのか、分からなくなってしまう程に。
 そこに居ないのではと錯覚してしまう程に、希薄な存在。

 テイテイが違和感に戸惑いを見せていると、雨合羽の女はまるでダメージを負っていないかのように、ふらりと立ち上がる。
 それを見て、テイテイは拳を前に構え直す。――と、そこで違和感に気付いた。

「――鎖が!?」

 テイテイは自身の構えた拳を見る。
 すると、先程自身がスキルで生み出し纏っていたはずの鎖が、黒い炭のようになってボロボロと崩れ落ちていた。
 
 気づかぬ間に、反撃を受けていた事を悟ったテイテイは雨合羽の女へと意識を向け直す。
 しかし、少し遅かった。
 
 テイテイが崩れる鎖に気を取られていた一瞬の間に、女はテイテイへと再接近していた。
 そして、その手をテイテイに触れようとしている。
 
(――まずい!)

 テイテイがそう思うと同時に、反射で身体は動く。
 回避は間に合わない、なら防御だ、と。
 
 しかし、先程の拳に纏っていた鎖が壊された、その相手の攻撃手段が分からない。
 本当に今防御の体勢を取って大丈夫なのか。
 固い鎖すらも簡単に破壊してしまう攻撃を、もし自分の身が受けてしまったら――。
 
 この鎖が破壊されたという有り得ない事実に、テイテイは次の一手を迷ってしまう。
 そして、その迷いが更なる遅れを招いてしまった。

 しかし、その女の白い手がテイテイに届く事は無かった。
 二人の間に『結晶』の弾丸が放たれ、二人の身体はそれぞれ後方に吹き飛ばされる。
 
 紫色の結晶がアスファルトの地面に突き刺さり、月明りを反射する輝くオブジェと成っている。
 そして、その結晶のオブジェの上に、ふわりと白いワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織った姿の黒髪ロングのエルフが降り立った。

「テイテイ君、大丈夫ですか?」

 黒髪のエルフは眼鏡を片手でくいと持ち上げながら、テイテイに振り向いて微笑む。
 
「ああ、助かった。――でも、ユウリ先生はどうしてここに……?」

 テイテイの元に助けに現れたのは、来人の家庭教師をしていた神、ユウリだった。
 
 彼女は来人もイリスも不在の今、来人の母照子の護衛をする為に、天野家に滞在していたはずだ。
 と言っても、基本は家に居て執筆をしている照子が危険に晒される方が稀だ。
 普段は天野家のリビングに有る大きな液晶テレビでアニメ観賞を楽しんでいるユウリだった。

 そんなユウリが今はテイテイの元に駆けつけている。
 それはつまり、今テイテイと対峙していた相手――白い雨合羽の女は、それに値するだけの危険性が有るという事だ。
 
「“それ”の気配が有ったので、見に来たんです。そしたらテイテイ君が居て、ナイスタイミングでしたね」

 それとユウリが指すのは、先程吹き飛ばされて地面に倒れる雨合羽の女。
 
「そいつは、何者なんだ? 何故俺を襲う?」
「さあ。そこまでは分かりません。ただ、わたしはライジン様に言われた通り周囲を警戒していただけですから」

 ライジン様、来人の父親の名だ。
 テイテイは来人から百鬼夜行以降音信不通だと聞いていたが、ユウリはそのライジンから指示を受けて動いていたらしい。

 そう話をしていたのも束の間。
 雨合羽の女はぬるりと立ち上がり、それを見た二人も構えを取る。
 
 テイテイは再び拳に鎖を纏わせ、その鎖の隙間からはマグマが滴り落ちる。
 ユウリは結晶で双剣を作り、両手に構える。

 しかし――、

「――なっ!?」
「――消え、ましたね」

 戦闘態勢を取っていた二人。
 しかし、瞬きをする程の僅かな間に、目の前に居たはずの雨合羽の女は忽然と姿を消していた。
 辺りを見回しても、そして周囲の気配や波動の残滓を探っても、元々そこに誰も居なかったかの様に、何の形跡も無い。
 
「一体何だったんだ……」

 真っ黒な殺気を放つ白い雨合羽の女は本当にそこに居たのか、それとも――。

 
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