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#15 朝日
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翌日の朝。
深海の世界から帰って来た俺は、いつものように浜辺へと打ち上げられていた。
冷たい潮風に反して、朝日が暖かく照らしている。
潮風が木々を揺らし、波が奏でる砂を洗うさらさらという音が耳に心地良い。
しかしそれ自体はいつもの事で、もう今更感慨深く語る事でも無いかもしれない。
それでも今日のそれら浜辺で感じられる自然の一つ一つが特別に感じられた。
俺は首だけを動かして、隣に視線をやった。
大の字に広げ伸ばした左腕に重みを感じる。
波の音とも潮風の音とも違う、穏やかで規則的な音色が聞こえて来る。
朝日の光とも違う、生きた温かさを触れた腕を通して感じられる。
「――本当に“お願い”叶ったんだな」
ぽつりと、独り言つ。
その小さな声も波の音に攫われて行った。
俺の隣には、俺の左腕を枕として眠るナキの姿が有った。
昨晩の“お願い”――「一緒に、お祭りに行きませんか」と、俺はそうナキに言った。
それはつまりデートの誘いであり、タテシマ様を介して誰かに迷惑をかける事の無いお願いだ。
俺はらしくもなくどくどくと脈打つ心臓の鼓動を抑えながら、彼女の答えを待った。
そして、ナキは少し迷った後ゆっくりと口を開いて、
「――分かりました。一日だけ、ですよ」
と、そう俺のデートの誘いを承諾してくれた。
そして、今だ。
朝日と共に地上へ帰って来た俺と共に、ナキはここに居る。
正直言って、あの深海の世界も、ナキという女性も、全ては俺の夢なのではないかと思う時も有った。
それ程にあの空間は非現実的で、神秘的で、幻の様な一時だったからだ。
でも――、
俺は右手を伸ばして、まだ眠るナキの髪を指先で遠慮がちに梳く。
――本物だ。
白い髪、白い肌、白い着物。そんな彫刻の様に作り物めいた美しい深海の歌姫が、深海の世界を抜け出して共に朝日を浴びている。
俺はもう一度寝返りを打って、また大の字の体勢に戻った。
こんなに安らかに眠っているのだから、起こしてしまうのも悪いだろう。
しばらくこの潮風と波、そして歌姫の寝息をBGMとしてゆっくりとしていよう。
さて、あれからどれくらいの時間が経っただろうか。
三十分? 一時間? もしかするとそんなに経っていないかもしれないし、もっと経っているかもしれない。
俺は寝返りを打って、左隣に視線をやる。
「……全っ然起きないな」
ナキは依然として穏やかな寝息を立てている。
俺の左腕の枕と砂浜のベッドがそんなに寝心地が良いのか、全く起きる気配も無い。
祭りは夕方からだし、今日は祭りが有るからという理由で、ジュウオウ村はどこも仕事は休みだ。
だからここでゴロゴロとしていても良いのだが、冷たい潮風に当たって風邪を引いても困る。
いや、もっと冷たい深海の底で暮らしているナキがそれで風邪を引くのかというのはともかくとして、俺の左腕もそろそろ痺れて音を上げてきた。
「おーい、ナキさーん」
俺は身体を起こして、ナキの肩を揺する。
時折「うぅん……」喉を鳴らす掠れた声は聞こえて来るものの、やはり一向に起きる気配は無かった。
「仕方ない、か」
俺はなんとかナキを抱きかかえて、お姫様だっこの形を取る。
その身体は成人女性とは思えない程に軽く、「よいしょ」と気合を入れて持ち上げただけに肩透かしをくらう程だった。
俺はそのままナキを抱えて、浜辺のボロ小屋へと運んで行った。
砂浜を歩いている最中、ふと背後――海の方から視線を感じた。
俺は振り返るが、しかしそこには誰も居ない。
それでも僅かな違和感を覚え、視線を落とす。
すると、砂浜の上に影が落ちていた。
文字通り、落とし物の様にぽてんと影が落ちていたのだ。
その影はナキが眠っていた場所にそのまま落ちていて、砂浜で眠るナキの姿形そのままだった。
俺は自分の足元に視線をやる。
すると、やはりと言うか、そこには俺の影しか無かった。
抱きかかえているはずのナキの影は無く、まるで俺がひとり立ち尽くしている様な形だ。
不安になって腕の中を見るが、そこにはちゃんと穏やかに寝息を立てて眠るナキが居る。
俺はまだ砂浜のベッドの上で眠る影に向かって、話しかける。
「置いて行きますよ」
すると、影がぴくりと震える様に動いた様に見えた。
直後、潮風で乾いた俺の瞳がぴくりと瞼を降ろす。
そうして一度瞬きをして視界が開けた時には、そこにもう影は無かった。
代わりに、俺の足元には俺の物ともう一つ――ナキの影が有った。
きちんと俺に抱き合掛けられる形で砂浜の上に映し出されている。
数歩前へ歩いてみると、その影はちゃんと付いて来る。何もおかしな点は無い。
もしかするとまだ寝ぼけていた俺の目の錯覚で、変な幻でも見たのかもしれない。
それとも、彼女と同じで寝坊助な神様が、まだそこで寝ていたのかもしれない。
俺はナキを抱き抱えたまま、さくさくと子気味良い音を立てる白い砂浜を踏みしめて、今や我が家であるボロ小屋へと向かった。
それから。
「ん……、ぅん……?」
「あ、起きました?」
ぱちぱちと囲炉裏の火が弾ける音だけが響いていた狭いボロ小屋に、鈴の音の様な声。ごそごそと布団の上を這う衣擦れ音。
ナキが起きてきた。
ちなみに今はもうお昼を過ぎて、そろそろ日も傾いて祭りも始まろうかという頃だ。
何だかんだで、ナキは丸々半日くらい眠っていた。
俺が無理やり連れ出した所為で何かの拍子で死んでしまったのではないかと冷や冷やして時折様子を窺っていたが、結局すうすうと穏やかな寝息を立てて眠っているだけだった。
そんな事あり得ないだろうとは思うが、それでもナキの存在の儚さがそう思わせたのだ。
しかしナキが眠っていたのも当然というか、そもそも俺とナキでは生活のリズムが違うのだ。
ナキは昼の間眠り、深夜活動する。俺は昼間活動し、夕方眠って夜に海へ向かう。
だからナキは特別地上へ来た事によって眠ってしまった訳では無く、単純に体内時計的にお眠だったのだろう。
「おはようございます。よく眠ってましたね」
俺が声を掛ければ、ナキはしばらくぼうっとしていた後に、やっと状況を認識した様で、ばっと勢いよく布団を被ってしまった。
その後、ひょこりと布団の隙間から顔を覗かせて、
「……おはよう、ございます」
と、遠慮がちに挨拶を返してくれた。
寝ている所を見られていたのが少し恥ずかしかったのかもしれない。
それから、ナキはいそいそと布団から出て来て、俺の正面へと座った。
「すみません。ここは、えっと――」
「ここは、俺の家――まあ、間借りしてるボロ小屋です」
ナキはきょろきょろと家の中を見回す。
壁の穴に板が打ち付けてある継ぎ接ぎで、隙間風も吹き込んでくる。
女性を招くにはあまり格好の付く場所ではないので、あまりじろじろ見られると少し恥ずかしかった。
しかしナキは別にそういう訳で家の中を見ていた訳では無く、単純に地上の世界が物珍しかったらしい。
落ち着かなさそうに立ち上がってうろうろしてみたり、その辺りに転がっている物を手に取ったりして、時折「おおー」と感嘆の声を上げたりと楽しそうにしていた。
なんとも可愛らしい生き物だ。
「ナキさん、何か食べます? それとも、お祭りに行けば出店とか有ると思うので、そこで食べてもいいですし」
俺がそう問えばナキは少しの間天を仰いで考えた後、
「じゃあ、お祭りで」
「分かりました」
外の様子を見る。
日も傾き、ぼんやりと薄暗くなってきた。
ジュウオウ村の方を見れば、村の入り口には松明が掲げられ、他所からの客人の列も見える。
丁度祭りが始まったのだろう。
「それじゃあ、行きましょうか」
俺はナキへと片手を差し出す。
ほんの少しの間の後、ナキは柔らかく微笑んで、そっと俺の手の上に、自分の小さく白い手を乗せた。
深海の世界から帰って来た俺は、いつものように浜辺へと打ち上げられていた。
冷たい潮風に反して、朝日が暖かく照らしている。
潮風が木々を揺らし、波が奏でる砂を洗うさらさらという音が耳に心地良い。
しかしそれ自体はいつもの事で、もう今更感慨深く語る事でも無いかもしれない。
それでも今日のそれら浜辺で感じられる自然の一つ一つが特別に感じられた。
俺は首だけを動かして、隣に視線をやった。
大の字に広げ伸ばした左腕に重みを感じる。
波の音とも潮風の音とも違う、穏やかで規則的な音色が聞こえて来る。
朝日の光とも違う、生きた温かさを触れた腕を通して感じられる。
「――本当に“お願い”叶ったんだな」
ぽつりと、独り言つ。
その小さな声も波の音に攫われて行った。
俺の隣には、俺の左腕を枕として眠るナキの姿が有った。
昨晩の“お願い”――「一緒に、お祭りに行きませんか」と、俺はそうナキに言った。
それはつまりデートの誘いであり、タテシマ様を介して誰かに迷惑をかける事の無いお願いだ。
俺はらしくもなくどくどくと脈打つ心臓の鼓動を抑えながら、彼女の答えを待った。
そして、ナキは少し迷った後ゆっくりと口を開いて、
「――分かりました。一日だけ、ですよ」
と、そう俺のデートの誘いを承諾してくれた。
そして、今だ。
朝日と共に地上へ帰って来た俺と共に、ナキはここに居る。
正直言って、あの深海の世界も、ナキという女性も、全ては俺の夢なのではないかと思う時も有った。
それ程にあの空間は非現実的で、神秘的で、幻の様な一時だったからだ。
でも――、
俺は右手を伸ばして、まだ眠るナキの髪を指先で遠慮がちに梳く。
――本物だ。
白い髪、白い肌、白い着物。そんな彫刻の様に作り物めいた美しい深海の歌姫が、深海の世界を抜け出して共に朝日を浴びている。
俺はもう一度寝返りを打って、また大の字の体勢に戻った。
こんなに安らかに眠っているのだから、起こしてしまうのも悪いだろう。
しばらくこの潮風と波、そして歌姫の寝息をBGMとしてゆっくりとしていよう。
さて、あれからどれくらいの時間が経っただろうか。
三十分? 一時間? もしかするとそんなに経っていないかもしれないし、もっと経っているかもしれない。
俺は寝返りを打って、左隣に視線をやる。
「……全っ然起きないな」
ナキは依然として穏やかな寝息を立てている。
俺の左腕の枕と砂浜のベッドがそんなに寝心地が良いのか、全く起きる気配も無い。
祭りは夕方からだし、今日は祭りが有るからという理由で、ジュウオウ村はどこも仕事は休みだ。
だからここでゴロゴロとしていても良いのだが、冷たい潮風に当たって風邪を引いても困る。
いや、もっと冷たい深海の底で暮らしているナキがそれで風邪を引くのかというのはともかくとして、俺の左腕もそろそろ痺れて音を上げてきた。
「おーい、ナキさーん」
俺は身体を起こして、ナキの肩を揺する。
時折「うぅん……」喉を鳴らす掠れた声は聞こえて来るものの、やはり一向に起きる気配は無かった。
「仕方ない、か」
俺はなんとかナキを抱きかかえて、お姫様だっこの形を取る。
その身体は成人女性とは思えない程に軽く、「よいしょ」と気合を入れて持ち上げただけに肩透かしをくらう程だった。
俺はそのままナキを抱えて、浜辺のボロ小屋へと運んで行った。
砂浜を歩いている最中、ふと背後――海の方から視線を感じた。
俺は振り返るが、しかしそこには誰も居ない。
それでも僅かな違和感を覚え、視線を落とす。
すると、砂浜の上に影が落ちていた。
文字通り、落とし物の様にぽてんと影が落ちていたのだ。
その影はナキが眠っていた場所にそのまま落ちていて、砂浜で眠るナキの姿形そのままだった。
俺は自分の足元に視線をやる。
すると、やはりと言うか、そこには俺の影しか無かった。
抱きかかえているはずのナキの影は無く、まるで俺がひとり立ち尽くしている様な形だ。
不安になって腕の中を見るが、そこにはちゃんと穏やかに寝息を立てて眠るナキが居る。
俺はまだ砂浜のベッドの上で眠る影に向かって、話しかける。
「置いて行きますよ」
すると、影がぴくりと震える様に動いた様に見えた。
直後、潮風で乾いた俺の瞳がぴくりと瞼を降ろす。
そうして一度瞬きをして視界が開けた時には、そこにもう影は無かった。
代わりに、俺の足元には俺の物ともう一つ――ナキの影が有った。
きちんと俺に抱き合掛けられる形で砂浜の上に映し出されている。
数歩前へ歩いてみると、その影はちゃんと付いて来る。何もおかしな点は無い。
もしかするとまだ寝ぼけていた俺の目の錯覚で、変な幻でも見たのかもしれない。
それとも、彼女と同じで寝坊助な神様が、まだそこで寝ていたのかもしれない。
俺はナキを抱き抱えたまま、さくさくと子気味良い音を立てる白い砂浜を踏みしめて、今や我が家であるボロ小屋へと向かった。
それから。
「ん……、ぅん……?」
「あ、起きました?」
ぱちぱちと囲炉裏の火が弾ける音だけが響いていた狭いボロ小屋に、鈴の音の様な声。ごそごそと布団の上を這う衣擦れ音。
ナキが起きてきた。
ちなみに今はもうお昼を過ぎて、そろそろ日も傾いて祭りも始まろうかという頃だ。
何だかんだで、ナキは丸々半日くらい眠っていた。
俺が無理やり連れ出した所為で何かの拍子で死んでしまったのではないかと冷や冷やして時折様子を窺っていたが、結局すうすうと穏やかな寝息を立てて眠っているだけだった。
そんな事あり得ないだろうとは思うが、それでもナキの存在の儚さがそう思わせたのだ。
しかしナキが眠っていたのも当然というか、そもそも俺とナキでは生活のリズムが違うのだ。
ナキは昼の間眠り、深夜活動する。俺は昼間活動し、夕方眠って夜に海へ向かう。
だからナキは特別地上へ来た事によって眠ってしまった訳では無く、単純に体内時計的にお眠だったのだろう。
「おはようございます。よく眠ってましたね」
俺が声を掛ければ、ナキはしばらくぼうっとしていた後に、やっと状況を認識した様で、ばっと勢いよく布団を被ってしまった。
その後、ひょこりと布団の隙間から顔を覗かせて、
「……おはよう、ございます」
と、遠慮がちに挨拶を返してくれた。
寝ている所を見られていたのが少し恥ずかしかったのかもしれない。
それから、ナキはいそいそと布団から出て来て、俺の正面へと座った。
「すみません。ここは、えっと――」
「ここは、俺の家――まあ、間借りしてるボロ小屋です」
ナキはきょろきょろと家の中を見回す。
壁の穴に板が打ち付けてある継ぎ接ぎで、隙間風も吹き込んでくる。
女性を招くにはあまり格好の付く場所ではないので、あまりじろじろ見られると少し恥ずかしかった。
しかしナキは別にそういう訳で家の中を見ていた訳では無く、単純に地上の世界が物珍しかったらしい。
落ち着かなさそうに立ち上がってうろうろしてみたり、その辺りに転がっている物を手に取ったりして、時折「おおー」と感嘆の声を上げたりと楽しそうにしていた。
なんとも可愛らしい生き物だ。
「ナキさん、何か食べます? それとも、お祭りに行けば出店とか有ると思うので、そこで食べてもいいですし」
俺がそう問えばナキは少しの間天を仰いで考えた後、
「じゃあ、お祭りで」
「分かりました」
外の様子を見る。
日も傾き、ぼんやりと薄暗くなってきた。
ジュウオウ村の方を見れば、村の入り口には松明が掲げられ、他所からの客人の列も見える。
丁度祭りが始まったのだろう。
「それじゃあ、行きましょうか」
俺はナキへと片手を差し出す。
ほんの少しの間の後、ナキは柔らかく微笑んで、そっと俺の手の上に、自分の小さく白い手を乗せた。
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