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#3 おかしな村
しおりを挟む――肌を撫でる潮風と、サラサラと波が砂を洗う音に意識を揺り起こされて、俺は目を覚ました。
瞼を持ち上げれば、照り付ける眩い太陽の光が入り込んできて、一瞬目を細めて眼前を片腕で覆う。
「――戻った、のか……?」
身体を起こして、手で日差しを避けつつ薄く瞼を開け、改めて辺りの様子を見まわす。
俺の下に広がる白い砂の絨毯も陽射しで熱され、深海で感じたそれよりも乾いていて随分と温かい。
海の方を見れば、海面が朝日を照らし返してきらきらと輝いていた。
それらはどれも海底の闇とは対照的な光景だ。
(――ああ、あの不思議な世界から帰って来た)
そう思った矢先、俺はすんと鼻付く匂いに違和感を覚えた。
勿論それは海特有の潮の匂いで、特段挙げるべき特徴も無い。でも、それが少し違う気がした。
その違和感の正体は分からなかったが、結局はすぐにどうでも良くなった。
考えても分からない事だし、いつまでも浜辺でぼうっとしている訳にもいかない。
それに、
「どうせ、夜にまた来るんだよな……」
俺は海の彼方、水平線を見る。
あの深海で、暗闇の世界で、彼女と――ナキと約束をした。“また会いに行く”と。
あの世界へ居られるのは夜の間だけだ。なら、夜になればまた、俺はあの深海へと誘われるのだろう。
きっと、あの美しい歌声に導かれて。
俺は「よしっ」と気合の掛け声と共に立ち上がり、海へと背を向けた。
ひとまずは帰ろう。俺は一夜の不思議な体験を胸に、帰路に――、
「……え? いや、は?」
意味が分からなかった。
眼前に広がった光景に、一瞬理解が追い付かなかった。
――何故なら、今俺が立っている場所、そこは見た事も無い、記憶に欠片ほども刻まれていない場所。全く知らない浜辺だったのだから。
ここは、俺が昨晩歌声に誘われて入水した浜辺ではない。
あの時の浜辺は、振り返れば視界に入るのはコンクリートとアスファルトで出来た人工物、道路やビル、電柱等の、人類の誇るべき味気ない文明の象徴たちだった。
しかし、今ここは違う。
真っ先に視界に入るのは木々生い茂る林。おそらく防潮林の役割として植わっている物だろうか。
記憶の中に有る様な武骨で味気の無い人工物ではなく、自然の姿がそこには在った。
そのまま視線を横へと流せば、港が有る。
港と言っても古い物なのか、大きな船は泊っていない。木製の小舟が数隻。もっとも、大きな漁船なんかは既に漁へ出てしまった後なのかもしれないが。
その港の付近には集落だと思われる建物群が有り、それはずっと奥の山の方まで広がり、小さな村を成している様だ。
その港も、村も、それら浜辺に連なる全てが俺の記憶の中には存在しない場所だった。
「ああ、そうか……」
俺は状況を理解し、そして愕然とした。
深海の世界から帰還した俺は、知らない土地の、知らない浜辺に流れ着いてしまったのだ。
――そうだ。ナキは別に元の場所へと帰れるとは一言も言っていなかったのだ。
朝になれば地上に戻れるというだけであって、この広い海のどこの海岸へと流れ着くかという保証はどこにも無かったのだ。
深海で過ごす彼女にとって、地上であればどこも然程の違いは無かったのかもしれないが、俺にとっては大問題だ。
元の場所へ帰ろうにも、ここがどこかも分からない。
しかし起きてしまったものは仕方なし。俺は大きく溜息を吐いてから、ひとまずは位置を確認しようとスマートフォンを――、
「――無い」
無かった。俺のスマートフォンが無かった。
自分のポケットをくまなく全て捜索しても、スマートフォンは愚か財布等、所持品の類が全てが失われていた。
浜辺で倒れている間に誰かに盗られたか、もしくは海を漂う内に流されてしまったのかもしれない。
それにしては、俺の衣服は水を吸ってぐっしょりと重くなっている訳でも無く、深海帰りだと思えない程に乾いていて綺麗な状態ではあった。
あの超常の深海の世界に本当に海を漂って辿り着いたのだとは考えにくいし、であれば前者の可能性が高いだろうか。
しかしどちらにせよ、無い物はどうしようもなかった。
それでも不幸中の幸いか、帰る手段に心当たりが無いわけではなかった。
夜になればまたナキに会いに深海へ行き、そして次は元の場所に帰れるように“お願い”すればいい。
深海の世界に住まう超常的、怪異的な存在の彼女の事だ。きっと頼れば力になってくれるだろう。
しかし、だからといって今から夜までの一日を、この浜辺で無為に時間を過ごすという訳にもいかない。
「はぁ……。とりあえずは――」
俺は港に連なる村の方を見る。
おそらく、そこには人が居るだろう。であれば電話を貸して貰えるかもしれないし、そうでなくてもここがどこなのか位置情報くらいは分かるだろう。
そうすればナキに頼らずとも帰る事が出来るかもしれない。
言葉が通じない場合は――まあ、その時考えよう。
ともかく、夜になるまでどこか屋根の有る所で過ごせれば御の字だ。
そんな考えから、俺はひとまず村へと足を運ぶ事にした。
元々俺の居た砂浜から視界に入る位の距離だったから、砂を踏みしめて進めばほどなく村に着いた。
しかし、その村はあまりに寂れていた。
木造で屋根が藁で出来た茅葺の古い建物が並んでいて、皆出払っているのか、人の姿をすぐに見つける事は出来なかった。
それでも、周囲の家々の建築様式から何となく、ここが日本のどこかなのではと推測出来た事は、俺にとって喜ばしい事だった。
ここが日本のどこに有る村なのかまでは分からないが、しかしここまでの田舎町は今時そうそう無いだろう。
ともかく、ここが日本のどこかなら言葉も通じるだろうし、ナキに頼らずとも家に帰る事が出来る可能性も高いだろう。
俺はそう少し安堵して、村の奥へと進んで行った。
それから人を探しつつ村の中を歩いていると、見慣れない物が目に付いた。
通りに面した家々を見れば、玄関に何か藁で編まれた小判型の飾りが下げられていたのだ。
黒い藁と白い藁の二色を使って編まれていて、横の糸には黒い藁が使われている。
正月やそういった行事で飾られていそうな雰囲気だが、同じ物を見たことは無い。敷いて挙げるなら草履が一番近しい形かもしれない。
この村にはそういった行事や風習でも有るのだろうか。
そうして村の通りを歩いていると、第一村人発見だ。
俺は目の前から歩いて来た細く痩せて骨ばった着物姿の男に声をかけた。
「あの、すみません」
男は立ち止まってくれはしたものの、何も答えない。
腕を組んだまま値踏みするように俺の事を頭の天辺から足のつま先まで舐める様に見回した後、俺を睨みつけたまま黙ってその場に立っていた。
言葉が分からなかったのだろうか、それとも俺の声が聞こえなかったのだろうか。
「えっと、あのー―」
男の態度の意味がよく分からず、困った末に改めて声をかけようとすると――、
「ちっ」
男は俺に聞こえる様に大きな舌打ちをして、その上わざわざすれ違いざまに肩をぶつけて、去って行ってしまった。
俺が「おい」と呼び止めようとしても、無視してすたすたと離れて行く。
「はぁ?」
全く持って意味が分からない。
何がそうも気に入らなかったのだろうか。そこまで俺の態度が悪かっただろうか、失礼が有っただろうかと思い返してはみるが、やはり俺自身に何の落ち度も無い様に思える。
というか落ち度が生まれる間も与えてはくれなかった。
強いて上げるとすれば、先程の男がとても急いでいる所を呼び止めてしまった可能性くらいだろうか。
仮にそうだったとしても、わざわざそこまで敵意を露わにしなくても良いのではないだろうか。
しかし拒絶されてしまったものは仕方がない。
次は時間に余裕を持っていそうな人を当たろうと思い、玄関前の植木に柄杓を使って水をやっている、着物の袖をたすき掛けした女性に声を掛けてみた。
どうやらこの村の民たちは、皆一様に着物を普段着として着ている様だ。それは昔の日本に迷い込んで来たかと錯覚するような光景だった。
果たして、現代日本にこの様な時代錯誤な村がまだ存在しているだろうか?
そう疑問に思うが、それもこれも友好的な村民を見つけて話を聞かねば始まるまい。
「すみません。お時間大丈夫ですか?」
今度は機嫌を損ねまいと、先程よりもより丁寧に心がけて、そう声を掛けた。
すると、その女性は顔を上げて、こちらの様子を窺う。
そしてやはり先ほどの男と同様に、俺の事をじっと見つめて、何かを待つ様な素振りを見せた。
俺の二の句を待っているのだろうかと思い、俺は言葉を続けた。
「実は迷子と言うか、ここがどこか分からなくて。あと、スマホも無くしてしまっていて、良かったら電話を貸して欲しいんですが」
しかし、その女性から返事が返って来る事は無い。不動のまま俺を睨みつけて何かを待っている。
そして、しばらくじっと俺の様子を窺った後、
「うわっ、ちょっと!」
今度は持っていた柄杓で水を掛けられた。
そして、やはり俺の事を憎々し気に睨みつけて、そのまま家の中へと引っ込んで行ってしまった。
――同じだ。先程の男と同じで、俺の様子を窺った後、しばらく経てば急に機嫌を悪くしてしまう。
本当に、全く意味が分からなかった。
俺が何を言っても、どういう風に声を掛けても、彼らは何の言葉も返す事無く、そして突然機嫌を悪くする。
この村の住人は、どこかおかしい。
それから村の外れ辺りまで来て、その間にも二人程声を掛けてみたが、やはり同じ様な対応を受け、どれも徒労に終わった。
駄目だ。この村では電話を借りることは愚か、ここはどこかという情報を聞くことすら出来そうも無い。
歩き回った挙句に酷い対応を受けて、全て徒労に終わり、急に疲れが押し寄せて来た。
「……もう、いいか」
途方に暮れた俺は、踵を返して浜辺へと戻る事にした。
この分なら、やはり夜まで待ってナキに会い、“お願い”して元の場所へと帰して貰うのが一番良いだろう。
そう思って、再び歩き出そうとした時。
「――ちょいと、お前さん」
この村に来てから初めて聞く、人の声だった。
その声の方を見れば、村の外れにぽつんと建てられた家の軒先に、一人の老婆が腰掛けていた。
足が悪いのか、傍には杖が置いてあり、内職作業中なのか周囲には藁の束が積まれている。
「良かった。この村の人は皆、まともに喋れないのかと思ってました」
俺がこれまでの仕打ちからそう少しだけ皮肉を含んで言うと、老婆は掠れた声で少し笑った後、
「お前さん、余所者だろう。そんなんじゃあ、誰も相手にしてはくれないよ。こっちへ来な」
と、そう言って手招きをする。
俺はやっとの事で出会えたまともにコミュニケーションを取れる相手を逃すまいと、招かれるまま老婆の元へ。
そして、そのまま手振りで促される通りに、老婆の隣へと腰掛けた。
老婆の周囲に積まれた藁は黒と白の二色が有り、既に完成した物だと思われる小判型の物も幾つか転がっていた。
これらは村の通りで見た、玄関に並んでいた藁の飾りと同じ物だろう。
俺は老婆に尋ねる。
「あの、聞きたい事が有るんですけど」
「ああ、そうだろうねえ」
「この村は、どこかおかしいです。皆話しかけても無視するし、急に機嫌を悪くするし……。さっき言ってましたよね、“そんなじゃあ、誰も相手にしてくれない”と。どうすれば良いのか、何が駄目だったのか、教えて貰えませんか?」
俺がまくしたてる様にそう言い切れば、老婆は「はあ」と溜息を一つ吐き、それから、この村について語ってくれた。
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