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#1 歌声に誘われて
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海面の揺らぎが不規則に月明りを照らし返す。
吹く風は肌を刺し、痛い程に冷たい。
だと言うのに、俺の足は波打ち際という押して引く曖昧な境界線を越えて、あちら側へと、一歩、また一歩と進んで行く。
歌声が聴こえてくるのだ。
もしかすると俺が歌声だと認識しているだけで、ただそう聴こえる気がするだけの波の音なのかもしれない。
本当は端から全ては幻聴で、そんな音すらしていないのかもしれない。
でも、俺はその歌声に心を奪われてしまった。
まるで恋に落ちるみたいに、惹かれてしまった。だから、どうしようもなかった。
まるで自分の身体が突然他人の物になってしまったみたいに、勝手に動いた。
歌声の主はどこに居るのか。会いたくて仕方がない。そうしなくてはいけない気がした。抗えない。
――待っていてくれ。今、そっちへ向かう。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
俺は必死になって、波を切り分けて行く。
服が海水を吸って、ずしりと重たくなっていく。
前進すればするほど、押し流す波が強く抵抗してくる。
膝まで浸かれば足先の感覚はもう無くなり、腰まで浸かればもう脚自体無くなってしまったのかと錯覚する程だ。
「ぐっ、ぷはっ……。はぁ、はぁ……」
やがて波は抵抗を止めて、俺を受け入れ始めた。
もはや自分の足で動いているのか、波の押し引きに身を任せて沖へと流されているだけなのか、判別も付かなくなってくる。
浜辺の白い砂を撫で攫って行くのと同じ様に、波は俺の身体を攫って行く。
呼吸が出来ない。苦しい。それでも、俺の身体は本能的にもがいて前へ前へと進もうとする。
――そして、俺の意識は、記憶は、ここで暗転した。
―― ―― ―― ―― ――
「――ん、うぅん……」
目を覚ました。
地に着けた片手に体重をかけて、身を起こす。
寝起きの体調は良い物とは言えなかった。僅かに身体が重く、思考もぼやけて明瞭ではない。
肌にべたりと張り付く感触が気持ち悪い。おそらく、海水に浸った所為だろう。
体重を預けた片手の平を見れば、白い砂粒が無数に付着していた。
俺は両の手を叩き合わせる事で、それを払う。
どうやら俺が身を預けていたベッドは、無限に広がる白い砂の浜――と、そこまで考えてから、改めて周囲を見回す。
俺の尻の下には、白い砂の絨毯。
直上を見上げれば、濃く深い紺色の空に輝く幾数もの淡く光を放つ粒状の何か。
――星、だろうか?
光という概念すら存在しないのかと思う程の暗闇の空間の中、その淡い光だけが道標として輝いていた。
俺の最後の記憶は、踏みしめる砂の音と、その砂を撫でる波の音。
では、ここは海岸沿いの砂浜だ――と、そう考えるのは簡単だが、記憶の中の景色との齟齬に違和感を感じる。
砂浜であれば、波打ち際という境界線が有るはずだ。しかし、どこにも見当たらない。
今夜は月の明るい夜だったはずだ。しかし、見上げても月は出ておらず、光源は淡い球状の何かだけ。
不気味なほどに暗く、前後すら不確かだ。
「どこだ、ここは?」
その暗い世界が不気味で、柄にもなく心細くなって、俺は独り言を垂れた。
勿論それに誰かの答えが返って来ることは無い。
やがて、暗闇に目が慣れて来た頃。
今までしっかりと認識出来ていなかった辺りの様子が、ぼんやりと浮かび上がって来た。
周囲は決して無の空間ではなく、何かがある。
このまま呆けていても仕方が無しと、俺は周囲の様子を窺うべく立ち上がり、歩き出した。
近づけば、それらの輪郭がはっきりとして来る。それらを認識し、咀嚼し、現実を理解する。
俺は驚きを隠せなかった。
「海藻、岩、それと、魚……?」
最初は木でも生えているのかと思ったが、そうではない。
俺の身長を優に越す高さの、縦に伸びた海藻。
トンネルの様に潜ることが出来るアーチ状の大きな岩。
宙を泳ぐ、見た事もない奇妙な形をした魚。
空を飛ぶ鳥ではない。これは魚だ。
鱗が有り、ヒレと尾が有る。これは間違いなく魚だ。魚が宙を泳いでいるのだ。
そして、同時にふわふわと頭上を浮いていた球状の淡い光の源の正体も解った。
空の闇を見上げれば有るのだから星だろうと思っていた。しかし、違う。
空に浮かぶそれと同じ物が、手の届きそうな程近くにも存在したのだ。
「あれは……クラゲ?」
この紺一色の闇の世界で唯一、淡い光を放っていた光源。
その正体は、大きなクラゲだった。
傘の上に俺が乗って座る事が出来そうな程に大きく、もはや恐怖の対象。怪物と形容しても良いだろう。
しかしその怪物クラゲは俺に興味を示す事もなく、宙を舞って目の前を過る。
ここまで来れば、そう認識せざるを得ない。
信じられない事だが、ここは海岸沿いの砂浜ではなく――“海”だ。
それも海の中の、ずっとずっと底。暗闇に包まれた深海の世界。
ここは深海であり、俺は海底を歩いている。そうとしか考えられなかった。
俺は夢でも見ているのかもしれない。俺の脳に残された最後の記憶――夜の海のイメージに引っ張られて、こういった夢を見ているのかもしれない。
だって、深海で押しつぶされる事もなく、普段と同じ様に呼吸すら出来ている。
手を叩けば乾いている時と同じ様に付いた砂が払われる。服も乾いていて水分で重みを増してはいない。
それら物理的に事象が地上の空気に晒されている時と何ら変わりがない。
――そんな事、夢でなければあり得ないだろう。
でも、どうしてだろうか。不思議とこの非現実的な状況こそが、真に現実なのだと言う確かな感覚が有った。
あり得ない、意味の分からない状況だと言うのに、俺はこの状況をすんなりと受け入れてしまっていた。
気づけば、クラゲは何匹も周囲を漂い、まるで満天の星空のような、幻想的な光景を作り出していた。
クラゲは怪物サイズの大きなものから小さなものまで、淡い光の球が幾つもの漂っている。
そうしてそのクラゲの作り出す幻想的な光景に目を奪われながら歩みを進めていると、コツンと俺に足のつま先に、何か硬い物がぶつかった。
質感と蹴った音が軽く、不動の岩等の自然物とは明らかに異なっている。
気になった俺は腰を落として、それを拾い上げた。
「これは……湯呑み?」
それは湯飲みだ。角の欠けひびの入った湯飲み――だった物が、転がっていた。
よく目を凝らせば、他にも様々な物が当たりに捨てられていた。
欠けた湯飲み、ぐちゃぐちゃに丸められた紙くず、古い人形、穴の空いたお手玉、破れた本など。どれもガラクタの様な物ばかり。
「どうして、こんな物がここに? 誰かが捨てたゴミが沈んで来たんだろうか」
他にも何か無いかと当たりを見回す。
それらの転がったガラクタ類と一緒に、途中で飽きて放置された様に散らばったカルタの様なカードの残骸や、積み木の様に積み上げようとしたであろう形跡のある平たい石の山。
そんなゴミの山は、誰か子供が遊んだ形跡、過ごした時間の跡の様にも見える。
そう思うと、これまで見た捨てられたガラクタ類も全て、子供が使わなくなった物の墓場の様に思えて来た。
使い終わった、役目を終えた、そういう物の墓場。
「ここに、子供……誰か居たのか……? ――いや」
深海の奥底に誰かが居るはずが無い。
きっと、この闇の世界で一人で心細い俺の心が、捨てられ集積したゴミの山に意味を見出そうとしているだけなのだろう。
俺は頭を振って、自分にそう言い聞かせる。
そうしている内にも、一匹、また一匹と視界を過ぎ去って行く淡く光る大きなクラゲ。
そして、また一匹。すると、過ぎ去るクラゲのその奥に、白い人影が現れた。
先程までそこには何も無かったはずだ。誰も居なかったはずだ。
だと言うのに、海底の暗闇に佇み、クラゲの淡い光のスポットライトに照らされる一人の女性。
彼女は俺の方を見て、優しく微笑みかけて来る。
「――いらっしゃいませ」
それはこの深海では決して聞こえて来るはずの無い、俺の物とは違うもう一人の人物の声だ。
りんと鳴る風鈴の音の様な、混じり気が無く耳触りの心地良い、高めな女性の声。
いつの間にか目の前に現れた、淡く光る大きなクラゲを傘としてその元に佇む、一人の美しい女性。
幻聴? 幻覚? いいや、違う。
確かな質感を持って、彼女はそこに居た。
まるで全ての色を失ったかの様に、透明感のある白銀の髪。
この暗闇の世界――深い海の底と同じ、深く濃い紺色の瞳。
砂浜の粒よりもずっと白い、血色を感じさせないおそろしい程に白い肌。
纏う衣も白の着物。
背丈は俺と同じくらいで、年齢も二十代前半と近しそうに見える。
クラゲの淡い光のスポットライトに照らされて浮かび上がるその白と紺のコントラストが美しく、おそろしい程に整った顔立ちと佇まいが相まって、まるで絵画や彫刻の様で作り物めいて美しい。
こんな場所に、一人の女性。
人魚だろうか? いや、鱗に覆われた魚の尾は無い。二足の足で立っている。
じゃあ、竜宮城の乙姫様だろうか? そちらの方が最もらしい気もするが、俺をここまで案内して来たのは虐められていた亀ではなく、大きなクラゲたちだ。
しかし俺はその女性が何者なのかなんてどうでも良くなるくらいに、しばらくの間見惚れてしまっていた。
心を奪われ、目が離せなかった。
きっと、さぞ間抜けな顔をしていた事だろう。
そんなしばらく何のリアクションも返さない俺をおかしく思ったのか、彼女は少し不思議そうな表情を浮かべていた。
しかし何を思ったか、もう一度くすりと柔らかく、そして寂し気に微笑んで、
「あなたの願いを、叶えてあげます」
と、そんな事を言うのだ。
あまりに唐突で、意味不明だった。
「願いって、どういう……?」
何も分からないから、俺は困惑のまま思った事を口にするしかなかった。
彼女は優しく答えてくれる。
「そのままの意味ですよ。何か望みは、願いは、有りませんか? それを叶えてあげます。さあ、何でも言ってみてください」
彼女は受け入れてやると言わんばかりに手を差し出してくる。
いきなりそう言われると、困ってしまう。
人間の欲というのは尽きない物で、求めようと思えば幾らでも求めてしまうだろう。
しかし、今この状況に置いて、俺の求める物は一つであり、切実だった。
少し考える間を置いてから、俺は答える。
「――じゃあ、海底の事とか、君の事とか、俺の聞きたい事――質問に答えて貰えますか? それが、今の俺の望みです」
俺がそう答えれば、彼女は少し驚いた様な様子を見せ、また柔らかく微笑む。
「欲の無いお方ですね」
「いいえ。そういう訳では……」
もしかして、大金でも願えば貰えたのだろうか?
しかし何をどうやって、どういう理由があって俺の願いを叶えてくれるのか知らないが、実際今この瞬間において金や財、奇跡の様な絵空事を望もうと、それらは意味を成さないのだ。
海の底では金も財もそこらに転がる石ころ同然に過ぎない。
しかし彼女はそんな俺の回答に満足したのか、
「――分かりました。それでは、どうぞこちらへ」
そう言って、背を向けて歩みを進め始めた。
俺は静かに首肯し、彼女の後を着いて深海の奥へと誘われて行った。
一体どこへ連れていかれるのだろうか。彼女は一体何者なのだろうか。
そんな疑問にも、答えてくれるのだろうか。
吹く風は肌を刺し、痛い程に冷たい。
だと言うのに、俺の足は波打ち際という押して引く曖昧な境界線を越えて、あちら側へと、一歩、また一歩と進んで行く。
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もしかすると俺が歌声だと認識しているだけで、ただそう聴こえる気がするだけの波の音なのかもしれない。
本当は端から全ては幻聴で、そんな音すらしていないのかもしれない。
でも、俺はその歌声に心を奪われてしまった。
まるで恋に落ちるみたいに、惹かれてしまった。だから、どうしようもなかった。
まるで自分の身体が突然他人の物になってしまったみたいに、勝手に動いた。
歌声の主はどこに居るのか。会いたくて仕方がない。そうしなくてはいけない気がした。抗えない。
――待っていてくれ。今、そっちへ向かう。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
俺は必死になって、波を切り分けて行く。
服が海水を吸って、ずしりと重たくなっていく。
前進すればするほど、押し流す波が強く抵抗してくる。
膝まで浸かれば足先の感覚はもう無くなり、腰まで浸かればもう脚自体無くなってしまったのかと錯覚する程だ。
「ぐっ、ぷはっ……。はぁ、はぁ……」
やがて波は抵抗を止めて、俺を受け入れ始めた。
もはや自分の足で動いているのか、波の押し引きに身を任せて沖へと流されているだけなのか、判別も付かなくなってくる。
浜辺の白い砂を撫で攫って行くのと同じ様に、波は俺の身体を攫って行く。
呼吸が出来ない。苦しい。それでも、俺の身体は本能的にもがいて前へ前へと進もうとする。
――そして、俺の意識は、記憶は、ここで暗転した。
―― ―― ―― ―― ――
「――ん、うぅん……」
目を覚ました。
地に着けた片手に体重をかけて、身を起こす。
寝起きの体調は良い物とは言えなかった。僅かに身体が重く、思考もぼやけて明瞭ではない。
肌にべたりと張り付く感触が気持ち悪い。おそらく、海水に浸った所為だろう。
体重を預けた片手の平を見れば、白い砂粒が無数に付着していた。
俺は両の手を叩き合わせる事で、それを払う。
どうやら俺が身を預けていたベッドは、無限に広がる白い砂の浜――と、そこまで考えてから、改めて周囲を見回す。
俺の尻の下には、白い砂の絨毯。
直上を見上げれば、濃く深い紺色の空に輝く幾数もの淡く光を放つ粒状の何か。
――星、だろうか?
光という概念すら存在しないのかと思う程の暗闇の空間の中、その淡い光だけが道標として輝いていた。
俺の最後の記憶は、踏みしめる砂の音と、その砂を撫でる波の音。
では、ここは海岸沿いの砂浜だ――と、そう考えるのは簡単だが、記憶の中の景色との齟齬に違和感を感じる。
砂浜であれば、波打ち際という境界線が有るはずだ。しかし、どこにも見当たらない。
今夜は月の明るい夜だったはずだ。しかし、見上げても月は出ておらず、光源は淡い球状の何かだけ。
不気味なほどに暗く、前後すら不確かだ。
「どこだ、ここは?」
その暗い世界が不気味で、柄にもなく心細くなって、俺は独り言を垂れた。
勿論それに誰かの答えが返って来ることは無い。
やがて、暗闇に目が慣れて来た頃。
今までしっかりと認識出来ていなかった辺りの様子が、ぼんやりと浮かび上がって来た。
周囲は決して無の空間ではなく、何かがある。
このまま呆けていても仕方が無しと、俺は周囲の様子を窺うべく立ち上がり、歩き出した。
近づけば、それらの輪郭がはっきりとして来る。それらを認識し、咀嚼し、現実を理解する。
俺は驚きを隠せなかった。
「海藻、岩、それと、魚……?」
最初は木でも生えているのかと思ったが、そうではない。
俺の身長を優に越す高さの、縦に伸びた海藻。
トンネルの様に潜ることが出来るアーチ状の大きな岩。
宙を泳ぐ、見た事もない奇妙な形をした魚。
空を飛ぶ鳥ではない。これは魚だ。
鱗が有り、ヒレと尾が有る。これは間違いなく魚だ。魚が宙を泳いでいるのだ。
そして、同時にふわふわと頭上を浮いていた球状の淡い光の源の正体も解った。
空の闇を見上げれば有るのだから星だろうと思っていた。しかし、違う。
空に浮かぶそれと同じ物が、手の届きそうな程近くにも存在したのだ。
「あれは……クラゲ?」
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その正体は、大きなクラゲだった。
傘の上に俺が乗って座る事が出来そうな程に大きく、もはや恐怖の対象。怪物と形容しても良いだろう。
しかしその怪物クラゲは俺に興味を示す事もなく、宙を舞って目の前を過る。
ここまで来れば、そう認識せざるを得ない。
信じられない事だが、ここは海岸沿いの砂浜ではなく――“海”だ。
それも海の中の、ずっとずっと底。暗闇に包まれた深海の世界。
ここは深海であり、俺は海底を歩いている。そうとしか考えられなかった。
俺は夢でも見ているのかもしれない。俺の脳に残された最後の記憶――夜の海のイメージに引っ張られて、こういった夢を見ているのかもしれない。
だって、深海で押しつぶされる事もなく、普段と同じ様に呼吸すら出来ている。
手を叩けば乾いている時と同じ様に付いた砂が払われる。服も乾いていて水分で重みを増してはいない。
それら物理的に事象が地上の空気に晒されている時と何ら変わりがない。
――そんな事、夢でなければあり得ないだろう。
でも、どうしてだろうか。不思議とこの非現実的な状況こそが、真に現実なのだと言う確かな感覚が有った。
あり得ない、意味の分からない状況だと言うのに、俺はこの状況をすんなりと受け入れてしまっていた。
気づけば、クラゲは何匹も周囲を漂い、まるで満天の星空のような、幻想的な光景を作り出していた。
クラゲは怪物サイズの大きなものから小さなものまで、淡い光の球が幾つもの漂っている。
そうしてそのクラゲの作り出す幻想的な光景に目を奪われながら歩みを進めていると、コツンと俺に足のつま先に、何か硬い物がぶつかった。
質感と蹴った音が軽く、不動の岩等の自然物とは明らかに異なっている。
気になった俺は腰を落として、それを拾い上げた。
「これは……湯呑み?」
それは湯飲みだ。角の欠けひびの入った湯飲み――だった物が、転がっていた。
よく目を凝らせば、他にも様々な物が当たりに捨てられていた。
欠けた湯飲み、ぐちゃぐちゃに丸められた紙くず、古い人形、穴の空いたお手玉、破れた本など。どれもガラクタの様な物ばかり。
「どうして、こんな物がここに? 誰かが捨てたゴミが沈んで来たんだろうか」
他にも何か無いかと当たりを見回す。
それらの転がったガラクタ類と一緒に、途中で飽きて放置された様に散らばったカルタの様なカードの残骸や、積み木の様に積み上げようとしたであろう形跡のある平たい石の山。
そんなゴミの山は、誰か子供が遊んだ形跡、過ごした時間の跡の様にも見える。
そう思うと、これまで見た捨てられたガラクタ類も全て、子供が使わなくなった物の墓場の様に思えて来た。
使い終わった、役目を終えた、そういう物の墓場。
「ここに、子供……誰か居たのか……? ――いや」
深海の奥底に誰かが居るはずが無い。
きっと、この闇の世界で一人で心細い俺の心が、捨てられ集積したゴミの山に意味を見出そうとしているだけなのだろう。
俺は頭を振って、自分にそう言い聞かせる。
そうしている内にも、一匹、また一匹と視界を過ぎ去って行く淡く光る大きなクラゲ。
そして、また一匹。すると、過ぎ去るクラゲのその奥に、白い人影が現れた。
先程までそこには何も無かったはずだ。誰も居なかったはずだ。
だと言うのに、海底の暗闇に佇み、クラゲの淡い光のスポットライトに照らされる一人の女性。
彼女は俺の方を見て、優しく微笑みかけて来る。
「――いらっしゃいませ」
それはこの深海では決して聞こえて来るはずの無い、俺の物とは違うもう一人の人物の声だ。
りんと鳴る風鈴の音の様な、混じり気が無く耳触りの心地良い、高めな女性の声。
いつの間にか目の前に現れた、淡く光る大きなクラゲを傘としてその元に佇む、一人の美しい女性。
幻聴? 幻覚? いいや、違う。
確かな質感を持って、彼女はそこに居た。
まるで全ての色を失ったかの様に、透明感のある白銀の髪。
この暗闇の世界――深い海の底と同じ、深く濃い紺色の瞳。
砂浜の粒よりもずっと白い、血色を感じさせないおそろしい程に白い肌。
纏う衣も白の着物。
背丈は俺と同じくらいで、年齢も二十代前半と近しそうに見える。
クラゲの淡い光のスポットライトに照らされて浮かび上がるその白と紺のコントラストが美しく、おそろしい程に整った顔立ちと佇まいが相まって、まるで絵画や彫刻の様で作り物めいて美しい。
こんな場所に、一人の女性。
人魚だろうか? いや、鱗に覆われた魚の尾は無い。二足の足で立っている。
じゃあ、竜宮城の乙姫様だろうか? そちらの方が最もらしい気もするが、俺をここまで案内して来たのは虐められていた亀ではなく、大きなクラゲたちだ。
しかし俺はその女性が何者なのかなんてどうでも良くなるくらいに、しばらくの間見惚れてしまっていた。
心を奪われ、目が離せなかった。
きっと、さぞ間抜けな顔をしていた事だろう。
そんなしばらく何のリアクションも返さない俺をおかしく思ったのか、彼女は少し不思議そうな表情を浮かべていた。
しかし何を思ったか、もう一度くすりと柔らかく、そして寂し気に微笑んで、
「あなたの願いを、叶えてあげます」
と、そんな事を言うのだ。
あまりに唐突で、意味不明だった。
「願いって、どういう……?」
何も分からないから、俺は困惑のまま思った事を口にするしかなかった。
彼女は優しく答えてくれる。
「そのままの意味ですよ。何か望みは、願いは、有りませんか? それを叶えてあげます。さあ、何でも言ってみてください」
彼女は受け入れてやると言わんばかりに手を差し出してくる。
いきなりそう言われると、困ってしまう。
人間の欲というのは尽きない物で、求めようと思えば幾らでも求めてしまうだろう。
しかし、今この状況に置いて、俺の求める物は一つであり、切実だった。
少し考える間を置いてから、俺は答える。
「――じゃあ、海底の事とか、君の事とか、俺の聞きたい事――質問に答えて貰えますか? それが、今の俺の望みです」
俺がそう答えれば、彼女は少し驚いた様な様子を見せ、また柔らかく微笑む。
「欲の無いお方ですね」
「いいえ。そういう訳では……」
もしかして、大金でも願えば貰えたのだろうか?
しかし何をどうやって、どういう理由があって俺の願いを叶えてくれるのか知らないが、実際今この瞬間において金や財、奇跡の様な絵空事を望もうと、それらは意味を成さないのだ。
海の底では金も財もそこらに転がる石ころ同然に過ぎない。
しかし彼女はそんな俺の回答に満足したのか、
「――分かりました。それでは、どうぞこちらへ」
そう言って、背を向けて歩みを進め始めた。
俺は静かに首肯し、彼女の後を着いて深海の奥へと誘われて行った。
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