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#10 END:高橋ホームズ

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 すうすうと規則的な呼吸音が聞こえてくる。すぐ隣に居るはずなのに、どこか遠くから、まるで別の世界の物かの様に聞こえてくる。
 微睡む意識の中、隣で眠るであろう彼女の呼吸を感じながら、ふと違和感に気付く。
 重い瞼を上げ、薄く目を開く。視界に映るのは影だ。黒い影が人型を形成し、こちら見下ろすように佇んでいる。
 ああ。この呼吸は、俺の隣からではない。目の前の影から、彼女と同じ――。
 

・・・


 肌で感じる冷たい感覚に違和感を覚え、目を覚ます。
 呼吸をしようと口を開こうとすれば、張り付く気持ちの悪い感触。身体を起こし、その感触を片手で拭い、まだ朧げな意識でそれを見る。

 赤。自身の白い肌に赤黒い何かがべったりと付着していた。それが血だと認識するのに然程時間はかからなかった。
 その赤の衝撃に、朧気だった意識が一気に起こされる。

「ホームズ君! 血が……」

 傍らで共に眠っていた彼に声をかける。しかし、まだ眠っているのだろうか、反応は無い。
 身体を揺すり起こそうと触れると、先程覚醒前に肌で感じた感覚と同じ冷たさを感じ、彼の身体へと視線を落とす。

「あ……」

 冷たく、動かなくなった彼の身体。その喉元は赤黒く染まっており、傷口は乱暴に、まるで獰猛な獣に肉を喰い千切られたかの様に、抉り取られた損傷が有った。
 間違いなく、死んでいる。目の前で、愛した彼が、死んでいる。

「いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ……。うそ、なんでぇ……」

 何故、誰が、そう自問するが、答えを返す者は居ない。ここにはわたししか居ない。
 答えは知っていた。理解する事を拒もうとする心とは裏腹に、頭の方はやけに澄んでいて、思考は明瞭だ。否応にもこの状況を理解させてくる。

「起きたら、名前を教えてくれるって言ったじゃない。これから一緒に生きて行こうって、そう言ったじゃない……」

 やはり、声を掛けても彼から返事は返って来ない。暗く静寂に包まれた部屋に、掠れた自分の声が嫌に響き渡る。

 この状況、彼を殺したのは、彼の喉を食いちぎったのは、わたしだ。わたしの中の執行者だ。
 でも、どうして。わたしたち時の管理者の使命は、時に干渉する対象者を殺す事だ。彼は確かにその原因を作り出す存在だが、直接の干渉者ではない、それ故に殺す事は出来ないはずだ。そう聞かされていた。そう信じていた。

 彼はわたしを愛してくれた。夢を捨てて、名声を捨てて、富を捨てて、その輝かしい未来を捨てて、わたしを選んでくれた。これで良かったはずだ、この選択は間違っていないはずだ。これで多くの人々を殺さなくて済むはずだ。
 いや、はずだった。

 ――彼は“輝かしい未来を捨てて”わたしを選んでしまった。

「はは、ははは、あはははは……」

 その事実に気付いた瞬間。彼の血液で染められた口から、乾いた笑いが自然と漏れ出す。
 彼は選択をしてしまった。未来を知り、その未来を捨てるとは即ち、定められた未来を、過去を変えるという事だ。それは間違いなく時への干渉であり、わたしが殺すべき対象者の条件に合致してしまう。
 失敗した。わたしが甘かった、彼にわたしの正体を看破された時点で、彼が真実を知ってしまった時点で、彼は選択を迫られる。選んでしまった時点で、彼は執行対象だ。――いや、違う。そうじゃない。
 どうして、そんな簡単な事に気付かなかったのだろうか。自分の愚かさを呪うも、もう遅い。

『愛した者を殺すのは、どんな気分だ? 愛した者に殺されるのは、どんな気分だ?』

 それは自分の中執行者を突き動かす、命令の声。大いなる存在。
 頭の中に、わたしを嘲笑う声が響く。それは幻聴か、それとも――。

 十年前の高橋杏子の姿で彼に迫り、真実を隠し通して彼が筆を折る様に誘導する。そんな事可能なはずがなかった。
 最初からそのつもりだったのか、最初から彼を殺す為に、わたしを利用したのか。この怒りを、この感情を、どこへぶつければ良いのだろうか。相手は時の管理者そのものだ。わたしには何も出来ない。

 打ちひしがれ、絶望の中。ふと、脳裏に過ったのは彼の書いた小説のラストシーン。それはこの世界ではもう日の目を浴びる事は無い、もはやわたしだけが知っている物語。わたしは、それをなぞる。

 ああ、大いなる存在よ。お前はわたしを上手く操り、目的を達成したと思っているのかもしれない。しかし、わたしに人格を、感情を与えてしまったのはお前の過ちだ。わたしは執行者。わたしは時に干渉出来る。まさか、身内から執行対象が出るとは思うまい。

 身体が溶け、大気と一体となる様な異質な浮遊感に包まれる。時を駆ける、タイムトラベルによる船酔いの様な感覚。わたしは再び、過去へと遡る。

 浮遊感から解放されると、身体は再構成されていた。間違いない、寸分違わぬ十年前の高橋杏子の姿だ。位置座標も問題ない。ここは彼のアパートの部屋、その廊下だ。
 現状を認識した後、そのまま台所から一本の包丁を抜き取り、忍ばせる。

 丁度この時間だ、間に合った。部屋の扉を開けると、部屋の隅から幾つもの黒い影がじわじわと這い出し、一つに集約して新たな姿に構成されて行く。その黒い影が重なり合い、高橋杏子の姿を作り出した。
 過去の、この時間軸に来たばかりのわたしだ。彼の記憶を投影し、作り出したその肉体。ああ、この頃の自分が憎らしい。わたしは包丁を構え、そして――、

 わたしは、己を喰らう。

 彼女は、己を喰らう。


・・・


「何だ、これ」

 バイトを上がり帰って来ると、何か違和感を感じて、恐る恐る部屋に入る。
 しかし、部屋には何の変りもない。泥棒に部屋を荒されていたり、殺人事件が起きて血だまりが出来ていたり、不思議な女の子が突然やって来たり、なんて小説の中の様な事は何も起きていない。
 本棚から溢れた本と、ローテーブルとその上にはノートパソコン。いつもと同じ光景が広がっていた。
 しかし、ただ一つ。部屋に見覚えのない物が落ちていた。
 拾い上げてみると、犬の様な動物が自分の尻尾を咥えた変なデザインのキーホルダーだ。
 手に取ってよく見ても、やはり記憶にない。心当たりすらない。だと言うのに、どこか気になる。

 ――そんな、気がした。
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