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#01 高橋先輩

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 金曜の深夜。閉店作業を早々に終え、バイトを上がった俺は、近所の店で雑に酒とつまみを買ったビニール袋を指先にぶら下げて、だらだらと徒歩で帰路に付く。
 街灯と月明りに照らされ深夜だと言うのに明るいの街路。歩きながらも、夢想に耽る。頭の中は混沌としながら幾つもの世界が交差し、広がって行く。
 この頭の中の混沌を、広がって行く世界を、文字に起こし、紡いで行く。“小説の執筆”それが俺の学生時代からの趣味であり、願わくはそれを世に出す事を夢見ている。幸い明日は休日、存分に没頭出来るだろう。

 そんな風に夢想の世界に没頭していると、時間は一瞬で過ぎて行き、気付けばもうアパートの自室の前だ。
 今時でない防犯上怪しい旧式の鍵が取り付けられた安アパートの自室の扉の鍵穴に鍵を差し込み、いつもの様に少し力を込めて回す。鍵を開けると、ドアノブにかけた手を捻る。
 そこでやっと、顔を上げて気付いた。部屋の灯りが付いている。開けたドアの隙間から、薄っすらと光が漏れだしているのが見えた。一瞬脳裏過った不法侵入や泥棒といったワード、そしてそこから連想ゲームの様に広がりかけた妄想の物語を、すぐさま振り払う。
 先程自分の手で鍵を開けたばかり、施錠はされていた。現実的に考えて自分の消し忘れだろう。嵩む無駄な電気代の事を考え、今更後悔したとてもう後の祭り。げんなりしつつも玄関ドアを引き、中へ入る。
 玄関からリビングまでは短い廊下が有り、その両サイドに台所やトイレが有る。どうやら消し忘れたのはリビングの灯りらしい。廊下との仕切りに有る薄い扉の磨りガラスの先から光が漏れている。
 ため息を付きながら、リビングの方へと向かう。ぎしぎしと足元の廊下の板が体重で軋む音。そして、それに紛れてがさりと僅かな物音が扉の奥から聞こえてきた気がした。
 はっとして、息を殺す。扉越しに人の気配。心臓が跳ねる。じっとりとした汗が頬を伝う。
 いや、しかしだ。もしかすると気のせいかもしれない。そんなはずは無い。先程の妄想に引っ張られているだけだろう。そんな風に自分に言い聞かせて、慎重にリビングの扉を開ける。

 すると、部屋には知らない女の後ろ姿。不法侵入、泥棒といったワードが再び頭を駆け巡る。
 その女がこちらへと振り向き、その肩まである髪がふわりと揺れる。そして、こちらへと向いた女の顔を認識すると、その思考は再び中断される。
 いや、正確には知っていた。今この瞬間俺の部屋で佇む、学生服に身を包む彼女の顔を知っていた。しかし、その顔に浮かべる表情は自分の知っているそれでは無かった。

 ――十年も前の事、まだ学生時代、高校一年の頃の話だ。本の虫だった俺は休み時間と放課後の時間を毎日のように図書室で過ごしていた。
 勿論図書室なので目的は本と、その静かな空間だった。“だった”――そう、最初はそうだったが、途中からそこへ通う目的は変わって行った。その途中から生まれた目的、それが図書室で出会った、三年の“高橋先輩”の存在だ。
 古風な学生服の良く似合う、肩まで伸ばした髪が印象的な女性だ。顔は可愛いよりは綺麗目の物静かな人だったと記憶している。先輩に一目惚れした俺は、先輩に会う為にという不純な目的を胸に秘め、図書室へと足繁く通い詰めたのだ。
 ただその頃の俺は奥手も奥手、へたれと言い換えても良い。それ以上の一切のアプローチをかける事が出来なかった。それ故にこれ以上の特筆すべき交流が有った訳はない。
 互いに読む本の趣味が合っていた事から僅かな交流を持つようにはなったが、顔を合わせば軽く挨拶を交わし、図書室で過ごす時間は互いに静かに読書に勤しみ、間にぽつりぽつりと偶に会話を挟みつつといった程度、それだけの関係だ。

 そして先輩は三年、俺は一年。つまりはそんな時間を過ごせたのもたった一年にも満たない間の事だった。先輩が卒業する時も気の利いた言葉をかけられた記憶も無いし、連絡先の交換すら言い出す事が出来なかった。先輩が卒業して以降、どこで何をしているのかも俺は知らない。
 そんな青春時代の淡い思い出、そこに刻まれた高橋先輩の姿。その懐かしい姿、懐かしい顔で、知らない表情を浮かべる女が、俺の部屋に居た。
 その高橋先輩の姿をした女と、目が、合う。まるで世界が一瞬静止したかの様な錯覚に襲われる。

 もしかすると、高橋先輩が俺の事を覚えていて、会いに来てくれたのかもしれない。もしかすると、先輩も俺に密かに恋心を抱いていて、忘れられなかったのかもしれない。もしかすると、もしかすると――。
 自分に都合の良い様々な妄想。だが、その全てを目の前で微笑む彼女の表情が否定する。――高橋先輩は、こんな表情をしない。
 それに、だ。十年も前の制服を着て、十年前と同じ、皺一つ無い若い姿で、そんなはずがない。

「あら、おかえりなさい」

 目の前の状況に対して完全に静止してしまっていた俺に、高橋先輩の姿をした女は優しく声をかける。その声音は、やはり記憶の中の先輩と同じ物だった。

「お前は……?」

 その声に現実に引き戻された俺は、自分でも笑ったしまいそうになるくらいの掠れた声で、辛うじて絞り出した言葉をを吐き出す。

「お前なんて失礼ね。わたし、一応キミの先輩なのだけれど?」

「あ、ごめんなさ……じゃなくて、そうじゃなくて!」

 危うく、先輩と同じ声音に反射的に謝罪が漏れ出そうになる。違う、違うだろう。
 自分の逸る心を落ち着かせる為に、一度深呼吸。そして、

「……どうやって、入ったんですか。鍵は掛かっていたはずです」

「そう、ね。わたしにも分からないの。気付いたらここに居て……。あ、でもキミの事はちゃんと分かるわよ? ホームズ君、久しぶりね」

 俺の事をそう呼ぶのは、高橋先輩だけだ。最初に出会った時に読んでいた本の主人公から取って、そう愛称で呼ばれていた。そういえば、愛称が定着してしまい一度もちゃんと名前を呼んでくれた事は無かった気がする。

「分からない……? 今が何年の何月か、分かりますか?」

 投げかけた質問。しかし、彼女は迷う事無く十年前の日付を返答した。
 それが本当に彼女の主観視点で十年前から時が動いていないのか、俺を謀る為の嘘なのか、図りかねた。

「まあ、そんな事どっちでもいいじゃない。ほら、疲れたでしょう? いつまでもそこに立ってないで、座って座って」

 そう言って、彼女はリビングの中央に有るテーブルに肩肘を付いて、まるでここが自分の家だと言わんばかりに、我が物顔で座布団へ座る。
 俺もいつまでもこうして警戒している訳にもいかず、片手に下げていたビニール袋をテーブルの上へと置き、渋々と彼女の対面の座布団へと腰を下ろした。
 すると彼女は酒とつまみの入ったビニール袋に興味を示し、がさごそと物色して中身を取り出し始めた。

「ホームズ君、これお酒? 貰っても良い?」

「駄目でしょう。十年前、先輩は未成年ですよ」

「でも今は十年経っているのでしょう? ならわたし、もうおばさんだわ」

 そう言いながら、彼女は勝手に缶のプルタブを空け、カシュッと炭酸の抜ける音が部屋に響く。
 まだ二十代だろうに、それをおばさんと表現するのかは判断しかねた。俺なんてあと三年はお兄さんを自称したいと思っている。それに、先輩なら十年後もきっと綺麗に歳をとって、素敵な女性になっている事だろう。
 まあわざわざ生真面目に彼女の飲酒を咎める理由もない。俺も彼女に続いて、もう一本の缶を開け、つまみのナッツの袋を開ける。酒を入れて寝れば、きっと明日にはこの強めの幻覚も霧散しているはずだ。
 学生服姿でごくごくと缶から炭酸の液体を注ぎ込む彼女の非現実的な姿、その口元につい目が行ってしまい、ばつが悪くなり反射的に目を逸らす。
 その視線に気づいてか気付かずか、彼女は悪戯っぽくこちらへと微笑みを向ける。喉を潤した彼女は満足げだ。しかし、やはりその表情は全て俺の知らない物だ。

「せんぱ……いや、あなたは何の為に、十年前から来たんですか?」

 本当に十年前からの来訪者なのか、それとも先輩を騙る何者かなのか。どちらにせよ、今は話を合わせるのが吉だろう。

「キミに会う為に、じゃあ、駄目?」

「駄目です。俺が先輩に会いに行く理由は有っても、先輩が俺に会いに来る理由は有りませんよ」

「そう? じゃあ、キミがわたしに会いに来る理由って、何かしら?」

 心臓が高く跳ねる。口を滑らせてしまった。いや、この先輩は分かっていてやっているのかもしれない。
 何故ここにいるのか、彼女は何者なのか、そんな謎がどうでもよくなるくらい、先輩の声が、言葉が、一挙手一投足が、俺の淡い恋心、思い出の一ページに火を点けてくる。

 一瞬の逡巡。しかし、もう十年前の自分ではない、ここでまた同じ轍を踏むべきではない。一度短く溜息を吐き、覚悟を決め、口を開く。

「気付いていたと思いますけど、俺、先輩の事好きだったんですよ。それが、俺が会いに行く理由です」

 最も、実際には俺に高橋先輩に会いに行く勇気なんて無かったし、こうやって彼女が会いに来てくれなければこうやって告白紛いの事をする機会も一生訪れなかっただろう。
 再び缶に口を付けて、照れくささを誤魔化す。

「そうだったんだー。へー、ふーん、全然気付かなかったなー」

「嘘、下手ですね」

「ふふっ。そうね、知っていたわ」

 そして、彼女は一瞬だけ目を伏せ、一拍の間を置いてからこちらへと向き直り、「えっと、ね」と前置きをして、

「――まだ、わたしの事、好き?」

 彼女は少し照れ臭そうに、そう言った。先輩の顔で、声音で。その瞳は真っ直ぐとこちらの瞳孔を覗いていて、目が離せなくなる。
 からんと、身動ぎで揺れたテーブルの上で缶が音を鳴らす。

「だったら、どうなんですか。あなたは、先輩じゃないでしょう」

「ううん。わたしは“高橋先輩”よ。キミが望むなら、わたしはずっとキミの傍に居てあげる」

 魔性。淡い恋心、思い出の一ページに点いていた火が、ごうごうと音を立てて強く燃え上がるのを感じた。

「俺が、望むなら……」

 目を閉じ、心を落ち着ける為に一度深呼吸。刹那、目を閉じたのは一瞬の間。
 目を開けると、視界に入って来たのは、いつの間にか傍に接近していた彼女の顔。
 すぐに身動ぎして、俺は距離を取り直す。

「ま、考えといて。わたし、暫くここに居るから」

 そんな俺の一連の行動をふふっと一笑して、彼女は立ち上げる。

「ここに居るって、いや、あの、え?」

 まとまりのない言葉を羅列する俺を尻目に、「じゃ、おやすみ」と部屋の隅に置いてあるベッドへと潜り込んでしまった。耳をすませば、すうすうといった寝息がもう聞こえてくる。
 さて、どうしたものか。寝て起きれば、夢から覚める様に彼女は居なくなってしまうのだろうか。しかし、これが夢ならば好き放題やってしまおう、なんて思い切って行動に移せる様な精神性を俺は持ち合わせていない。
 彼女の穏やかな寝息を聞いていると、どっと身体から力が抜けてしまった。

 仕方なく部屋の灯りを落とし、卓上に置いたノートパソコンを立ち上げる。青白いモニターの灯りだけが、暗い部屋に浮かび上がる。
 静かな部屋に、彼女の寝息と、カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。
 そうやっていつもの様に執筆作業をしていると、酔いが回って来たからか、それとも先程の一件の疲れからか、気付けば意識を手放していた。
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