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足を上げる。
その段に上ると、たった一段なのに世界が異様に低く見えた。不意に恐ろしくなる。
先生たちはわたしたちに号令をかける。
足の指を台のへりにしっかりかけろ、と教わった。
――はい、一、二
ピーっという笛の音に合わせて飛び込み台を思い切り蹴る。飛んでいる、というよりは落ちていく感覚。
ああどうか、指先からキレイに水に入れますように。
バシャーン、という水音で目が覚めた。
「佳祐、ここにいるのか?」
目が覚めたのと同時に拓己さんが部屋に飛び込んできた。気がつくとわたしは佳祐の腕の中で寝ていたようで、慌てて起き上がる。
佳祐もゆっくり顔を上げた。
「綾乃――!」
あちこちで綾乃を呼ぶ声が響く。
下駄箱に綾乃の靴はなかった。
手分けをして彼女を探す。
嫌な霧が、どんよりと坂下に溜まっていた。坂を下ればくだるほど濃くなっていく。なにも見えなくなる。
「綾乃、どこ?」
わたしは自分がここをひとりで下りた日のことを思い出していた。もしかすると彼女も坂下の波打ち際でひとりで佇んでいるのかもしれない。自然に歩幅は大きくなり、不安は膨らんでいく。
「――綾乃!」
綾乃のスニーカーがまるであの日のように坂下にキレイに並べられていて、それでも彼女の姿は見当たらなかった。
代わりに、そこには湖西が立っていた。
「湖西くん……綾乃は見つかった?」
湖西は一点を指さした。坂に沿って誰かが登っていった足跡がある。まだ新しい。
「あそこに登ったんじゃないかな? 草むらの草があそこから先は倒れていないから」
ギョッとする。
このひとはなにを言ってるんだろう?
「あそこまで行けば障害物もなく飛び込むことができるでしょう?」
「ひどい! 綾乃はそんなことしない!」
「僕はなにもしてないよ。僕がしたのは渡辺さんに毎日、ピアノを聴かせただけ。彼女がすきだったのは『乙女の祈り』。あとは君に聴かせるためのドビュッシーの練習に付き合ってくれたよ。それから渡辺さんは頼んでもいないのに、君たち三人の思い出話をしてくれたんだ。僕にはそういうのは無かったからうらやましかったよ、友だちとの思い出ってやつ」
「こんなところで綾乃が死んだみたいに言わないでよ! わたしがここで死ねなかったのを見たでしょう? 綾乃だって、綾乃だってどこかほかのところに」
「名璃子ちゃんは昨日、僕がタク兄と話してたの聞いてたでしょう? もしも誰かがここに飛び込んだら――」
右手のひらが、じんと痺れた。
気がつくとわたしは湖西の頬を叩いていた。
訳のわからない痛みや苦しみや悲しさが渦巻いて、許せそうになかった。
湖西は殴られた左頬を触っていた。わたしの中のひとりのわたしは「ひどいことをした」と思っていた。けれどもうひとりのわたしは平気な顔をして頬を撫でている彼に対する怒りで満たされていた。
それはなだめることのできる性質《たち》のものではなくて、わたしは水辺に立つ湖西のところへどんどんにじり寄った。
彼が不思議そうに顔を上げた瞬間、全体重をかけて彼を水の中に突き倒した――。
「卑怯者! なにもかも自分のせいじゃないフリして。なんで誰かに同情したりしないの? ひとの気持ちを考えないの? ほら、自分を見てみたらいいじゃない。水に落ちたって誰も沈まないし、溶けない。証明できたじゃない。綾乃はきっと生きてる!」
湖西は驚いたのかわたしの名を呼ぶこともなかった。
わたしはここの水が怖かった。得体の知れない水。
坂を上って水が生き物のように背中から襲いかかる気がして、振り向かずに走った。息が切れても走った。
「拓己さん……拓己さん……」
学校の前でみんなからの連絡を待っていた拓己さんの姿が目に入ると、足は勝手にもう走ることをやめた。
「名璃子ちゃん、どうした? ゆっくり息を吸って、吐いて――話すのは落ち着いてからでいいよ」
なにから話したらいいのかわからない。
なにが本当なのかわからない。
全部嘘だと思いたい。
「坂の下で」
しどろもどろに、話は行ったり来たりしながらあったことを伝えた。
拓己さんは根気よく最後まで聞いてくれて、みんなを待とう、と言った。
手分けをしていたパパと佳祐が戻ってきて、手短に要点を拓己さんが話すと、佳祐が走り出そうとした。それを拓己さんが制する。
「待て、あいつとはもう一度ゆっくり話さなくちゃいけない。俺に行かせてくれ。俺はあいつの従兄弟だから」
拓己さんの足取りはいつも以上に確かで、なにひとつ迷いがないように見えた。わたしたちはその背中を見ながら、後に続いた。
坂下への道の途中、綾乃が飛び降りたかもしれないところにさしかかると歩けなくなってしまって、パパが、わたしの肩を抱いた。
悲しみの底で、わたしの心はそれに震えた。パパはなにも言わなかったし、わたしの顔を覗き込んだりもしなかった。
ただ、坂を下りる間、肩を押してくれた。
「いいか、佳祐。冷静になれ。名璃子ちゃんがお前にはいるんだからな。わかるな?」
佳祐は力強く頷いた。
それを見て拓己さんは残りの坂道を一気に駆け下りた。
振り向いた湖西に掴みかかろうと腕を伸ばした。すると湖西はそれを避けて、バランスを崩した拓己さんを突き倒した――!
それは、長い長いストップモーションアニメのようだった。
拓己さんは、思い切り突かれて後ろに倒れ込んだ。
湖西は自分のしたことに驚いた顔をして拓己さんを引き起こそうと手を差し伸べた。
慌てていた拓己さんもその手にすがろうとした。
ふたりの手は、いまにも繋がりそうになり……拓己さんは足元からズブズブと水の中にまるで引きずられていくように消えた。そう、水の中へ。
「タク兄! タク兄待って! そんなつもりじゃなかったんだ! 置いていかないで」
拓己さんの姿は見えなかった。ただ水面が水しぶきを上げて波だった。
「タク兄! ……ごめん、ごめん、タク兄」
目の前で起こったことが信じられずにいた。――本当に魔法があるの?
だとしたらわたしたちはこの先、どうしたら。
「湖西くん、君はいま、なにをしたんだ?」
佳祐が湖西に殴りかかろうとするのを手で止めて、パパが一歩前に出た。
その時わたしの耳元で「佳祐くんを信じるんだよ」と囁いた。
「大丈夫だよ、私はもう若くないから君を殴ったりしない。叱るつもりもない。だから、いまあったことを話してくれないかな? とても不思議な現象だった。そして君はそれを予測していただろう?」
水に入ってずぶ濡れになった湖西は俯きながらこちら側へ歩いてきた。
佳祐は見るまでもなく怒っていた。
でもパパは水から上がった湖西の肩に手をかけて「さあ帰ろう」と促した。
綾乃のスニーカーが置き去りにされていた。
佳祐は屈んでそれを拾った。
胸が軋んだ。
いまの彼の悲しみはわたしに向けられてはいないんだ、という当たり前のことが頭をよぎって「最低だ、わたし」と思った。
その段に上ると、たった一段なのに世界が異様に低く見えた。不意に恐ろしくなる。
先生たちはわたしたちに号令をかける。
足の指を台のへりにしっかりかけろ、と教わった。
――はい、一、二
ピーっという笛の音に合わせて飛び込み台を思い切り蹴る。飛んでいる、というよりは落ちていく感覚。
ああどうか、指先からキレイに水に入れますように。
バシャーン、という水音で目が覚めた。
「佳祐、ここにいるのか?」
目が覚めたのと同時に拓己さんが部屋に飛び込んできた。気がつくとわたしは佳祐の腕の中で寝ていたようで、慌てて起き上がる。
佳祐もゆっくり顔を上げた。
「綾乃――!」
あちこちで綾乃を呼ぶ声が響く。
下駄箱に綾乃の靴はなかった。
手分けをして彼女を探す。
嫌な霧が、どんよりと坂下に溜まっていた。坂を下ればくだるほど濃くなっていく。なにも見えなくなる。
「綾乃、どこ?」
わたしは自分がここをひとりで下りた日のことを思い出していた。もしかすると彼女も坂下の波打ち際でひとりで佇んでいるのかもしれない。自然に歩幅は大きくなり、不安は膨らんでいく。
「――綾乃!」
綾乃のスニーカーがまるであの日のように坂下にキレイに並べられていて、それでも彼女の姿は見当たらなかった。
代わりに、そこには湖西が立っていた。
「湖西くん……綾乃は見つかった?」
湖西は一点を指さした。坂に沿って誰かが登っていった足跡がある。まだ新しい。
「あそこに登ったんじゃないかな? 草むらの草があそこから先は倒れていないから」
ギョッとする。
このひとはなにを言ってるんだろう?
「あそこまで行けば障害物もなく飛び込むことができるでしょう?」
「ひどい! 綾乃はそんなことしない!」
「僕はなにもしてないよ。僕がしたのは渡辺さんに毎日、ピアノを聴かせただけ。彼女がすきだったのは『乙女の祈り』。あとは君に聴かせるためのドビュッシーの練習に付き合ってくれたよ。それから渡辺さんは頼んでもいないのに、君たち三人の思い出話をしてくれたんだ。僕にはそういうのは無かったからうらやましかったよ、友だちとの思い出ってやつ」
「こんなところで綾乃が死んだみたいに言わないでよ! わたしがここで死ねなかったのを見たでしょう? 綾乃だって、綾乃だってどこかほかのところに」
「名璃子ちゃんは昨日、僕がタク兄と話してたの聞いてたでしょう? もしも誰かがここに飛び込んだら――」
右手のひらが、じんと痺れた。
気がつくとわたしは湖西の頬を叩いていた。
訳のわからない痛みや苦しみや悲しさが渦巻いて、許せそうになかった。
湖西は殴られた左頬を触っていた。わたしの中のひとりのわたしは「ひどいことをした」と思っていた。けれどもうひとりのわたしは平気な顔をして頬を撫でている彼に対する怒りで満たされていた。
それはなだめることのできる性質《たち》のものではなくて、わたしは水辺に立つ湖西のところへどんどんにじり寄った。
彼が不思議そうに顔を上げた瞬間、全体重をかけて彼を水の中に突き倒した――。
「卑怯者! なにもかも自分のせいじゃないフリして。なんで誰かに同情したりしないの? ひとの気持ちを考えないの? ほら、自分を見てみたらいいじゃない。水に落ちたって誰も沈まないし、溶けない。証明できたじゃない。綾乃はきっと生きてる!」
湖西は驚いたのかわたしの名を呼ぶこともなかった。
わたしはここの水が怖かった。得体の知れない水。
坂を上って水が生き物のように背中から襲いかかる気がして、振り向かずに走った。息が切れても走った。
「拓己さん……拓己さん……」
学校の前でみんなからの連絡を待っていた拓己さんの姿が目に入ると、足は勝手にもう走ることをやめた。
「名璃子ちゃん、どうした? ゆっくり息を吸って、吐いて――話すのは落ち着いてからでいいよ」
なにから話したらいいのかわからない。
なにが本当なのかわからない。
全部嘘だと思いたい。
「坂の下で」
しどろもどろに、話は行ったり来たりしながらあったことを伝えた。
拓己さんは根気よく最後まで聞いてくれて、みんなを待とう、と言った。
手分けをしていたパパと佳祐が戻ってきて、手短に要点を拓己さんが話すと、佳祐が走り出そうとした。それを拓己さんが制する。
「待て、あいつとはもう一度ゆっくり話さなくちゃいけない。俺に行かせてくれ。俺はあいつの従兄弟だから」
拓己さんの足取りはいつも以上に確かで、なにひとつ迷いがないように見えた。わたしたちはその背中を見ながら、後に続いた。
坂下への道の途中、綾乃が飛び降りたかもしれないところにさしかかると歩けなくなってしまって、パパが、わたしの肩を抱いた。
悲しみの底で、わたしの心はそれに震えた。パパはなにも言わなかったし、わたしの顔を覗き込んだりもしなかった。
ただ、坂を下りる間、肩を押してくれた。
「いいか、佳祐。冷静になれ。名璃子ちゃんがお前にはいるんだからな。わかるな?」
佳祐は力強く頷いた。
それを見て拓己さんは残りの坂道を一気に駆け下りた。
振り向いた湖西に掴みかかろうと腕を伸ばした。すると湖西はそれを避けて、バランスを崩した拓己さんを突き倒した――!
それは、長い長いストップモーションアニメのようだった。
拓己さんは、思い切り突かれて後ろに倒れ込んだ。
湖西は自分のしたことに驚いた顔をして拓己さんを引き起こそうと手を差し伸べた。
慌てていた拓己さんもその手にすがろうとした。
ふたりの手は、いまにも繋がりそうになり……拓己さんは足元からズブズブと水の中にまるで引きずられていくように消えた。そう、水の中へ。
「タク兄! タク兄待って! そんなつもりじゃなかったんだ! 置いていかないで」
拓己さんの姿は見えなかった。ただ水面が水しぶきを上げて波だった。
「タク兄! ……ごめん、ごめん、タク兄」
目の前で起こったことが信じられずにいた。――本当に魔法があるの?
だとしたらわたしたちはこの先、どうしたら。
「湖西くん、君はいま、なにをしたんだ?」
佳祐が湖西に殴りかかろうとするのを手で止めて、パパが一歩前に出た。
その時わたしの耳元で「佳祐くんを信じるんだよ」と囁いた。
「大丈夫だよ、私はもう若くないから君を殴ったりしない。叱るつもりもない。だから、いまあったことを話してくれないかな? とても不思議な現象だった。そして君はそれを予測していただろう?」
水に入ってずぶ濡れになった湖西は俯きながらこちら側へ歩いてきた。
佳祐は見るまでもなく怒っていた。
でもパパは水から上がった湖西の肩に手をかけて「さあ帰ろう」と促した。
綾乃のスニーカーが置き去りにされていた。
佳祐は屈んでそれを拾った。
胸が軋んだ。
いまの彼の悲しみはわたしに向けられてはいないんだ、という当たり前のことが頭をよぎって「最低だ、わたし」と思った。
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