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ぼんやりと音楽室から水のきらめきを見下ろしているのが日課になった。
午前中の暇な時間、『エリーゼのために』を練習した。時には湖西が教えてくれる時もあって、こんな時なのにピアノの腕が上達していく。
出だしの有名なパートは卒業して、いまはその後のパート。指使いがだんだん難しく、重要になってくる。伸びやかに弾きたいのにまだ指がついてこない。
ついてこないから、練習する。
いつだってわたしのピアノはそうだった。
佳祐も時々、湖西に付き合ってもらってバスケットをしているようだ。わたしはその時間、音楽室にこもっていて見に行ったことはないけど、綾乃に言わせると佳祐の動きは中学の時と鈍ってないということだ。
湖西もずっと『運動不足』だと言っていたので少しはストレス発散になっているのか、笑顔が次第に前向きになってきた。
水は風に流されるように、今日は強く波立っている。珍しいことだった。チャプンと音を立てていそうな水面をただ眺めていた。
と――。
「お願い、一緒に来て!」
わたしは必死に四階からの階段を駆け下りて体育館に飛び込んだ。
肺がひりつくように熱く、息はぜいぜいと止まることがない。久しぶりにたくさん走ったせいで膝が震える。
体育館にいた三人はわたしが入った時のまま、凍りついたようにこっちを見ていた。
どうしたの、という綾乃の声が消えかける前に佳祐が「行こう」と言ってわたしを立たせた。
「音楽室?」
「音楽室の窓。駅から光が……」
湖西と佳祐はバスケットでパスが回ってきた時のように確かな足取りで階段に向かった。
わたしと綾乃だけが、その場に取り残された。
綾乃はわたしの隣にしゃがんで、舞台の方を見ていた。わたしにはまだ床以外のところを見るほどの余裕はなかった。
「無理にしゃべらなくていいよ。しゃべれるようになったら返事してね。――なにを見つけたの?」
落ち着いてきた呼吸に合わせて息を柔らかく吸い込む。
「音楽室の窓から、駅が、見えるでしょう?」
「名璃子がいつも見てるやつね」
綾乃はなにも知らないというような顔をして、わたしが毎日なにをしているのか、知っていたのか。
「駅から、見えたの。光が、灯台みたいに等間隔に点滅するのを。あれは、モールス信号だと思う」
「ツー・トントン・ツー?」
「そう」
綾乃は膝を抱えて下を向いたまま、大きくため息をついた。そのため息の意味はわたしにはわかりかねた。
「『助けて』。救難信号だね。助けなんて来ないじゃん」
「でも……!」
「来ないじゃん。おかしくない? わたしたち四人が都合よく生き残って、都合よく生きていける学校にいるなんて。駅にいる人たちがどうかは知らないけど、こんなのおかしいよ。誰がわたしたちをここに閉じ込めたの? 絶対、誰かがやったんだよ。救難信号? もしかしたら、ううん、たぶんわたしたちの知り合いがそこにいるんじゃないかな? なにかの策略かもしれない。きっとそうだと思う。名璃子はわたしの頭がおかしいと思う? 怖いよ、毎日怖い……」
崩れ落ちるように泣く綾乃を抱きとめた。彼女はいままで我慢してた分も含めて叫ぶように泣いた。自由気ままに振舞っているように見えて、いろんなことを深く考えてたんだ。
綾乃の叫びが収まる頃、男子は戻ってきた。佳祐は興奮した目をしていた。
「確かに駅で誰かが信号を送ってる。鏡、ある?」
「あるけどどうするの?」
「こっちも信号を送るんだよ。図書室に行けば詳しい信号がわかるかもしれないけど、向こうがわからないと意味ないから同じく返そうと思う」
「窪田くん、もう少し考えてからにしよう。せめてみんなの意見を聞いてから。……渡辺さんが落ち着いてから……」
ああ、と佳祐は綾乃を見た。
綾乃はその瞬間に佳祐の胸に飛び込んだ。佳祐が小さくて軽い彼女の体を受け止める。
「信号を送ってどうするの? 佳祐はそのひとたちに会いに行くの? わたしは嫌だよ。きっといいことなんてない。四人でいたらどうしていけないの? もし本当に向こうも困ってるなら向こうのひとが会いに来るよ。危ないことしないで」
綾乃の必死の説得に、佳祐もたじろいだ。狂気じみた声が広い体育館に反射して響き渡った。
そこで湖西がずいと前に出た。
「四人で助けを待とう。いい加減、政府も動いてくれてるはずだ。まだ水も食料もあるし、渡辺さんも不安にならなくて済むし」
「ちょっと待って。助けを呼んでるひとに手を差し伸べないの? ここには物資がある。もし本当に救助が来るならここでみんなで待てばいいじゃない」
「……青山さんはどんなひとが来ても平気なの? 向こうにどんなひとがいるのか、行ってみるまでわからないんだよ」
最初、意味がわからなかった。
例えどんなひとであれ、助かる権利があると思ったから。
……もしここに来たら嫌なひと? わたしが会いたくないひと?
会いたくないひとなんて……。
身震いがした。
「名璃子、顔色悪い」
綾乃を抱きとめた佳祐から声がかかった。
「湖西、もうやめろよ。とりあえず落ち着こう。みんなの意見を聞かないのはオレの悪い癖だ」
体育館の壁にもたれて四人で並んで座った。
綾乃のしゃくり上げる声がまだ空っぽの空間に響いた。
近くにあったボールを佳祐が向こう側に投げた。ボールは次第に音を小さくして遠くに弾んでいった。
「無反応がいいってこと?」
「わたしはそうは思わない……。確かにどんなひとがいるのかわからないけど、それでも、助からなくていいひとはいないと思う」
「正義感が強いんだね」
湖西がそう言って、佳祐が「やめろよ」と牽制した。
「正義感なんてすごいものじゃないよ。自分が後悔するのが嫌なだけ。助ければよかったって悔いを残したくない」
やさしそうに見える湖西の目の奥に「本当にそれでいいの?」と問われている気がした。
でも、大丈夫。
わたしの会いたくないひとが駅に都合よくいるとは思えなかった。だから、きっと大丈夫。
「綾乃は?」
「綾乃は絶対反対。知らないひとなんか会いたくない。まして会いたくないひとがいるかもしれないのに助けるとか考えられない。それよりは助けてくれるひとに来てほしい。助けを呼ぼうよ」
みんなが口をつぐんだ。
それを考えたことはなかった。
洪水に見舞われた土地では、救助を求めるために屋上にSOSのサインを描いたりしていた。のろしを上げたっていい。そんなこといままで考えたりしなかった。
「そうだね、そうしようよ。それが僕達の身の丈に合ってると思う。もしも救助のヘリが来た時、上空からよくわかるようにするんだ。屋上に机でも並べようか?」
「いいと思う」
綾乃の顔がパッと明るくなった。
「……わかった、わかった。とりあえずその身の丈に合うこととやらをやってみよう。昼、食べてからでいいよな?」
皮肉たっぷりの言葉にそれぞれがうなずいた。
空き時間、また音楽室に行きたいような、行くのが怖いような気がした。光で合図するひとの気持ちを考えることがやめられない。
心からそれを追い出すのは難しかった。
午前中の暇な時間、『エリーゼのために』を練習した。時には湖西が教えてくれる時もあって、こんな時なのにピアノの腕が上達していく。
出だしの有名なパートは卒業して、いまはその後のパート。指使いがだんだん難しく、重要になってくる。伸びやかに弾きたいのにまだ指がついてこない。
ついてこないから、練習する。
いつだってわたしのピアノはそうだった。
佳祐も時々、湖西に付き合ってもらってバスケットをしているようだ。わたしはその時間、音楽室にこもっていて見に行ったことはないけど、綾乃に言わせると佳祐の動きは中学の時と鈍ってないということだ。
湖西もずっと『運動不足』だと言っていたので少しはストレス発散になっているのか、笑顔が次第に前向きになってきた。
水は風に流されるように、今日は強く波立っている。珍しいことだった。チャプンと音を立てていそうな水面をただ眺めていた。
と――。
「お願い、一緒に来て!」
わたしは必死に四階からの階段を駆け下りて体育館に飛び込んだ。
肺がひりつくように熱く、息はぜいぜいと止まることがない。久しぶりにたくさん走ったせいで膝が震える。
体育館にいた三人はわたしが入った時のまま、凍りついたようにこっちを見ていた。
どうしたの、という綾乃の声が消えかける前に佳祐が「行こう」と言ってわたしを立たせた。
「音楽室?」
「音楽室の窓。駅から光が……」
湖西と佳祐はバスケットでパスが回ってきた時のように確かな足取りで階段に向かった。
わたしと綾乃だけが、その場に取り残された。
綾乃はわたしの隣にしゃがんで、舞台の方を見ていた。わたしにはまだ床以外のところを見るほどの余裕はなかった。
「無理にしゃべらなくていいよ。しゃべれるようになったら返事してね。――なにを見つけたの?」
落ち着いてきた呼吸に合わせて息を柔らかく吸い込む。
「音楽室の窓から、駅が、見えるでしょう?」
「名璃子がいつも見てるやつね」
綾乃はなにも知らないというような顔をして、わたしが毎日なにをしているのか、知っていたのか。
「駅から、見えたの。光が、灯台みたいに等間隔に点滅するのを。あれは、モールス信号だと思う」
「ツー・トントン・ツー?」
「そう」
綾乃は膝を抱えて下を向いたまま、大きくため息をついた。そのため息の意味はわたしにはわかりかねた。
「『助けて』。救難信号だね。助けなんて来ないじゃん」
「でも……!」
「来ないじゃん。おかしくない? わたしたち四人が都合よく生き残って、都合よく生きていける学校にいるなんて。駅にいる人たちがどうかは知らないけど、こんなのおかしいよ。誰がわたしたちをここに閉じ込めたの? 絶対、誰かがやったんだよ。救難信号? もしかしたら、ううん、たぶんわたしたちの知り合いがそこにいるんじゃないかな? なにかの策略かもしれない。きっとそうだと思う。名璃子はわたしの頭がおかしいと思う? 怖いよ、毎日怖い……」
崩れ落ちるように泣く綾乃を抱きとめた。彼女はいままで我慢してた分も含めて叫ぶように泣いた。自由気ままに振舞っているように見えて、いろんなことを深く考えてたんだ。
綾乃の叫びが収まる頃、男子は戻ってきた。佳祐は興奮した目をしていた。
「確かに駅で誰かが信号を送ってる。鏡、ある?」
「あるけどどうするの?」
「こっちも信号を送るんだよ。図書室に行けば詳しい信号がわかるかもしれないけど、向こうがわからないと意味ないから同じく返そうと思う」
「窪田くん、もう少し考えてからにしよう。せめてみんなの意見を聞いてから。……渡辺さんが落ち着いてから……」
ああ、と佳祐は綾乃を見た。
綾乃はその瞬間に佳祐の胸に飛び込んだ。佳祐が小さくて軽い彼女の体を受け止める。
「信号を送ってどうするの? 佳祐はそのひとたちに会いに行くの? わたしは嫌だよ。きっといいことなんてない。四人でいたらどうしていけないの? もし本当に向こうも困ってるなら向こうのひとが会いに来るよ。危ないことしないで」
綾乃の必死の説得に、佳祐もたじろいだ。狂気じみた声が広い体育館に反射して響き渡った。
そこで湖西がずいと前に出た。
「四人で助けを待とう。いい加減、政府も動いてくれてるはずだ。まだ水も食料もあるし、渡辺さんも不安にならなくて済むし」
「ちょっと待って。助けを呼んでるひとに手を差し伸べないの? ここには物資がある。もし本当に救助が来るならここでみんなで待てばいいじゃない」
「……青山さんはどんなひとが来ても平気なの? 向こうにどんなひとがいるのか、行ってみるまでわからないんだよ」
最初、意味がわからなかった。
例えどんなひとであれ、助かる権利があると思ったから。
……もしここに来たら嫌なひと? わたしが会いたくないひと?
会いたくないひとなんて……。
身震いがした。
「名璃子、顔色悪い」
綾乃を抱きとめた佳祐から声がかかった。
「湖西、もうやめろよ。とりあえず落ち着こう。みんなの意見を聞かないのはオレの悪い癖だ」
体育館の壁にもたれて四人で並んで座った。
綾乃のしゃくり上げる声がまだ空っぽの空間に響いた。
近くにあったボールを佳祐が向こう側に投げた。ボールは次第に音を小さくして遠くに弾んでいった。
「無反応がいいってこと?」
「わたしはそうは思わない……。確かにどんなひとがいるのかわからないけど、それでも、助からなくていいひとはいないと思う」
「正義感が強いんだね」
湖西がそう言って、佳祐が「やめろよ」と牽制した。
「正義感なんてすごいものじゃないよ。自分が後悔するのが嫌なだけ。助ければよかったって悔いを残したくない」
やさしそうに見える湖西の目の奥に「本当にそれでいいの?」と問われている気がした。
でも、大丈夫。
わたしの会いたくないひとが駅に都合よくいるとは思えなかった。だから、きっと大丈夫。
「綾乃は?」
「綾乃は絶対反対。知らないひとなんか会いたくない。まして会いたくないひとがいるかもしれないのに助けるとか考えられない。それよりは助けてくれるひとに来てほしい。助けを呼ぼうよ」
みんなが口をつぐんだ。
それを考えたことはなかった。
洪水に見舞われた土地では、救助を求めるために屋上にSOSのサインを描いたりしていた。のろしを上げたっていい。そんなこといままで考えたりしなかった。
「そうだね、そうしようよ。それが僕達の身の丈に合ってると思う。もしも救助のヘリが来た時、上空からよくわかるようにするんだ。屋上に机でも並べようか?」
「いいと思う」
綾乃の顔がパッと明るくなった。
「……わかった、わかった。とりあえずその身の丈に合うこととやらをやってみよう。昼、食べてからでいいよな?」
皮肉たっぷりの言葉にそれぞれがうなずいた。
空き時間、また音楽室に行きたいような、行くのが怖いような気がした。光で合図するひとの気持ちを考えることがやめられない。
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