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第1章 由芽の17日
11日前 由芽
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昨日の夜、要は本当に帰ってこなかった。
わたしはトーストを一枚と、コーヒーを飲んで学校に行った。
深夜勤務のバイトだったんだろう、なんて都合のいいことは考えなかった。彼女がテレビドラマのように「帰らないで」と言ったのかもしれないし、要が「今夜は帰らないよ」って言ったのかもしれない。それでは昼メロの不倫ものだな、と思って、それでもちっとも面白くなかった。
中肉中背で、特に背が高いわけでも筋肉質なわけでもなく、大学の成績も優秀とは言い難い要に大島さんが本気で惚れたのだとしたら、それは尊敬に値する。要のいいところを見つけられるなんて、わたしだけかと思っていた。わたしの要は温もりや、やさしさ、ふとした笑顔なんかからできている。それを大島さんが見つけたなら、要を任せるのも本望かもしれない。
心の奥底が、足が痺れたときのようにじーんとする。そのまた奥底に小さな切なさがあって、わたしを泣かせようとする。
要と知り合ったきっかけは「哲学一」という素っ気ない名前の講義だった。
その講義は無機質な名前とは裏腹に、担当教授の話術や取り上げるテーマがとても面白く、学生に人気だった。あまりの人気に受講は抽選で決められ、わたしは当たったけれど秋穂ちゃんは落ちた。ひとりで行動するのが苦手なわたしは受講を止めようと思っていたのだけど、せっかく当たったのだからと秋穂ちゃんに背中を押されて一人で受講することにした。
聞いていた通り、講義の内容はとても面白く、最前列に近い、それでも中央を外した左端の方にいつも席を取っていた。
七月もそろそろ終わりという頃、「哲学一」も次の時間にレポートを提出すれば終了となった。その日はじりじりと焼けつくような暑さだったと記憶している。構内のアスファルトの舗道にも陽炎が見えそうだった。
知らない男の子が猛烈な暑さにダウンしそうな顔をしてすごい勢いで走ってきて、
「あの!」
と声をかけてきた。なんだろう、と振り返りながら、ハンカチでも落としたかしら、とぼんやり思った。どうやらわたしも暑さにまいっていたらしい。
「あの、全然、オレのこと知らないと思うんですけど……」
「はい、そうですね……」
「そうですよね、『哲学一』で一緒だったんですけど」
「はい……」
彼はわずかに落ち込んで見えた。彼の手に持つイオン飲料が温まってしまわないかと心配になった。
「あの……よかったら、オレとつき合いませんか? いや、つき合ってください、の方が丁寧なのかな?」
なんだか調子の狂う人だなぁとそのときは思って、頭を下げた。うなじに太陽の日差しがじりじり当たった。
「汐見由芽です、初めまして。……ごめんなさい、あなたのこと、まだよく知らないので……お友だちからでもいいですか?」
人見知りなわたしにしてはかなり積極的な答えだった。この後秋穂ちゃんを相当驚かせたくらい。
「森下要です。お友だちからでも願ったり叶ったりです。よろしくお願いします」
彼が差し出した手を、わたしはすんなりと握った。彼は深々と頭を下げていた。……不思議なことに、この人にとっては「わたし」が重要事項らしい。わたしなんか、どこにでもいる普通の女の子なのに……。
図書館前で秋穂ちゃんと待ち合わせていると、原田くんが通りかかった。この間のことがあるので、なんだか照れ臭かった。
「この間はどうもありがとう。あの、スフレ奢ってもらっちゃって」
「スフレなんていいんだよ」
原田くんはにこやかに笑った。初夏の日差しと共にいるような人だな、と思った。
「それより……言いにくいんだけど、要、帰って来た? 今日、学校に来てないみたいなんだけど」
「大島さんも一緒なんじゃない?」
「そうみたいだね……」
初夏の明るい日差しは、すぐに厚い雲に覆われてしまった。わたしはどうも人を悲しくさせてしまうらしい。悲しいことを考えるとこの頃は涙がすぐにこぼれてしまう。原田くんを驚かせないように、空を見上げる。もうすぐ冬になる冷たい空気に、鼻の奥がツンとなる。
「えーと、今日のお昼、一緒にしない?」
「ごめんなさい、今、ここで友だちと待ち合わせてるの」
「そっか。じゃあまた今度。連絡先、交換してもいい? 何かあったらいつでも呼んで?」
勢いに押されてスマホを出す。原田くんは、確かにいい人だ。
「えー? それでいいじゃん。原田くんに乗り換えなよ。ほら、『十七日』の後でもいいじゃん? わたしならそうするなぁ」
「そっかなぁ?」
「そうだよ、誰だって自分を大切にしてくれる人の方がいいでしょ?」
秋穂ちゃんの言うことは、正しく聞こえた。何しろ要は帰ってこない。帰ってこないということは、そういうことだ。
「ただいま。……まだ起きてたんだ?」
終電間際に要は帰って来た。まだ起きていたわたしの顔を見て、目を逸らせた。いつもだったら、
「連絡くらいしてよね、心配するじゃん!」
と言うところだけど、そんな権利はわたしにはもうないと思うので、何も言えない。
「……おかえり」
「シャワー、浴びてもいい?」
「どうぞ」
ギクシャクした空気が部屋に充満して息苦しい。横を通る要から、またふわっと、この間のように知らない香りがする。
いっそ息を止めてしまえばこの苦しさから逃れらるかもと思うけれど、学校の潜水の試験はいつでも十メートル未満なので、やめておくことにする。
要がシャワーを浴びる音が部屋に響く。なんで機嫌が悪いのか、わからない。機嫌が悪くなっていいのはたぶん、わたしの方なのに。取り繕ってもくれないので、わたしもどう接していいのか戸惑う。
「要、ご飯、食べたの?」
お風呂場にいる要に呼びかける。
「ん、ちょっとだけ。何かある?」
「おにぎり作ろうか?」
深い沈黙が訪れる。
いつもなら、この時間はおにぎりかお茶漬けでОKなのに、大島さんといることでそんなことまで変わってしまったのか?
浴室と脱衣所の間の曇りガラスに、彼のシルエットが映る。シャワーを弱めに出したまま、動きはない。おにぎりもお茶漬けも作れるくらいのご飯はあるはずだし、実はわたしもご飯を食べていなかった。ひとりで食べる食事を作る気力は、もうなかった。
「由芽、そういう、細かいこと、もう気にしなくていいよ」
「え、やだなぁ、元々こんなんだし」
「オレのことなんか考えなくていいよ。夕飯を何人前作るのか、とか、ご飯は何合炊くのか、とか、ミカンの買い置きはどれくらいするのか、とかさぁ、そういうこと全部。オレは頭数に入れなくていいから」
わたしは小さく深呼吸した。そして、いつもはしないけれど浴室のドアの前に立ち「開けてもいい?」と聞いた。返事はなかったので、バスタオルを持って浴室に入った。
「大好きだから繋ぎ止めておきたいと思うけど。わたしがどんなにがんばって料理とかしたって、要の心は戻ってこないんでしょう? それはわかってるから安心していいよ。一言いってくれれば今だって、大島さんのところに行ってもかまわないんだよ。昨日も今日も連泊してきても、要の自由なんだよ。『泊まる』って言ってくれれば、ふたりの邪魔はしないから。例え『十七日』前でも、要はもう大島さんのことでいっぱいでしょう? 『十七日』の約束のことなんて忘れて、要こそわたしなんか気にしなくてもいいのに」
何を思ったのか、自分でもわからないくらい物分かりのいい優等生然とした言葉だった。
そんなものちっとも役に立たないし、わたしは本当は要に「バカ、バカ、バカー!」と非力なパンチを食らわせたかったのに。大島さんなんか大嫌いなのに。
要はバスタオルを受け取って、下を向いて体を拭き始めた。
シャワーから出た要と、焼きおにぎりを食べた。醤油がちょっと焦げて、なかなかいい出来だった。ふたりで黙々と食べていて、要は「美味しい」とは一言も言ってくれなかった。
ベッドに入ると、わたしたちはとうとう背中を向けあって寝た。もう、ふたりで抱き合って眠ることもないし、一緒に寝ることになんの意味もなくなったんだろう。
背中さえ触れ合うことがないように、気を遣って身を縮める。その現状に悲しくなったわたしは要がぐっすり眠った後、こっそり布団を抜け出してこたつで寝ることにした。
明日の朝はきっと、のどが痛くなったりするよなぁと思う。
要の規則正しい寝息を聞きながら、声を殺して泣いた。今までのどんなケンカの後にもこんなことはなかった。口も利かないまま、背中を向けて寝たことなんてなかった。
こんな悲しい状況の中で何もない顔をして寝るなんてできない。カーテンの隙間から見える煌々と輝く月が、街並みを白く照らしていた。
わたしはトーストを一枚と、コーヒーを飲んで学校に行った。
深夜勤務のバイトだったんだろう、なんて都合のいいことは考えなかった。彼女がテレビドラマのように「帰らないで」と言ったのかもしれないし、要が「今夜は帰らないよ」って言ったのかもしれない。それでは昼メロの不倫ものだな、と思って、それでもちっとも面白くなかった。
中肉中背で、特に背が高いわけでも筋肉質なわけでもなく、大学の成績も優秀とは言い難い要に大島さんが本気で惚れたのだとしたら、それは尊敬に値する。要のいいところを見つけられるなんて、わたしだけかと思っていた。わたしの要は温もりや、やさしさ、ふとした笑顔なんかからできている。それを大島さんが見つけたなら、要を任せるのも本望かもしれない。
心の奥底が、足が痺れたときのようにじーんとする。そのまた奥底に小さな切なさがあって、わたしを泣かせようとする。
要と知り合ったきっかけは「哲学一」という素っ気ない名前の講義だった。
その講義は無機質な名前とは裏腹に、担当教授の話術や取り上げるテーマがとても面白く、学生に人気だった。あまりの人気に受講は抽選で決められ、わたしは当たったけれど秋穂ちゃんは落ちた。ひとりで行動するのが苦手なわたしは受講を止めようと思っていたのだけど、せっかく当たったのだからと秋穂ちゃんに背中を押されて一人で受講することにした。
聞いていた通り、講義の内容はとても面白く、最前列に近い、それでも中央を外した左端の方にいつも席を取っていた。
七月もそろそろ終わりという頃、「哲学一」も次の時間にレポートを提出すれば終了となった。その日はじりじりと焼けつくような暑さだったと記憶している。構内のアスファルトの舗道にも陽炎が見えそうだった。
知らない男の子が猛烈な暑さにダウンしそうな顔をしてすごい勢いで走ってきて、
「あの!」
と声をかけてきた。なんだろう、と振り返りながら、ハンカチでも落としたかしら、とぼんやり思った。どうやらわたしも暑さにまいっていたらしい。
「あの、全然、オレのこと知らないと思うんですけど……」
「はい、そうですね……」
「そうですよね、『哲学一』で一緒だったんですけど」
「はい……」
彼はわずかに落ち込んで見えた。彼の手に持つイオン飲料が温まってしまわないかと心配になった。
「あの……よかったら、オレとつき合いませんか? いや、つき合ってください、の方が丁寧なのかな?」
なんだか調子の狂う人だなぁとそのときは思って、頭を下げた。うなじに太陽の日差しがじりじり当たった。
「汐見由芽です、初めまして。……ごめんなさい、あなたのこと、まだよく知らないので……お友だちからでもいいですか?」
人見知りなわたしにしてはかなり積極的な答えだった。この後秋穂ちゃんを相当驚かせたくらい。
「森下要です。お友だちからでも願ったり叶ったりです。よろしくお願いします」
彼が差し出した手を、わたしはすんなりと握った。彼は深々と頭を下げていた。……不思議なことに、この人にとっては「わたし」が重要事項らしい。わたしなんか、どこにでもいる普通の女の子なのに……。
図書館前で秋穂ちゃんと待ち合わせていると、原田くんが通りかかった。この間のことがあるので、なんだか照れ臭かった。
「この間はどうもありがとう。あの、スフレ奢ってもらっちゃって」
「スフレなんていいんだよ」
原田くんはにこやかに笑った。初夏の日差しと共にいるような人だな、と思った。
「それより……言いにくいんだけど、要、帰って来た? 今日、学校に来てないみたいなんだけど」
「大島さんも一緒なんじゃない?」
「そうみたいだね……」
初夏の明るい日差しは、すぐに厚い雲に覆われてしまった。わたしはどうも人を悲しくさせてしまうらしい。悲しいことを考えるとこの頃は涙がすぐにこぼれてしまう。原田くんを驚かせないように、空を見上げる。もうすぐ冬になる冷たい空気に、鼻の奥がツンとなる。
「えーと、今日のお昼、一緒にしない?」
「ごめんなさい、今、ここで友だちと待ち合わせてるの」
「そっか。じゃあまた今度。連絡先、交換してもいい? 何かあったらいつでも呼んで?」
勢いに押されてスマホを出す。原田くんは、確かにいい人だ。
「えー? それでいいじゃん。原田くんに乗り換えなよ。ほら、『十七日』の後でもいいじゃん? わたしならそうするなぁ」
「そっかなぁ?」
「そうだよ、誰だって自分を大切にしてくれる人の方がいいでしょ?」
秋穂ちゃんの言うことは、正しく聞こえた。何しろ要は帰ってこない。帰ってこないということは、そういうことだ。
「ただいま。……まだ起きてたんだ?」
終電間際に要は帰って来た。まだ起きていたわたしの顔を見て、目を逸らせた。いつもだったら、
「連絡くらいしてよね、心配するじゃん!」
と言うところだけど、そんな権利はわたしにはもうないと思うので、何も言えない。
「……おかえり」
「シャワー、浴びてもいい?」
「どうぞ」
ギクシャクした空気が部屋に充満して息苦しい。横を通る要から、またふわっと、この間のように知らない香りがする。
いっそ息を止めてしまえばこの苦しさから逃れらるかもと思うけれど、学校の潜水の試験はいつでも十メートル未満なので、やめておくことにする。
要がシャワーを浴びる音が部屋に響く。なんで機嫌が悪いのか、わからない。機嫌が悪くなっていいのはたぶん、わたしの方なのに。取り繕ってもくれないので、わたしもどう接していいのか戸惑う。
「要、ご飯、食べたの?」
お風呂場にいる要に呼びかける。
「ん、ちょっとだけ。何かある?」
「おにぎり作ろうか?」
深い沈黙が訪れる。
いつもなら、この時間はおにぎりかお茶漬けでОKなのに、大島さんといることでそんなことまで変わってしまったのか?
浴室と脱衣所の間の曇りガラスに、彼のシルエットが映る。シャワーを弱めに出したまま、動きはない。おにぎりもお茶漬けも作れるくらいのご飯はあるはずだし、実はわたしもご飯を食べていなかった。ひとりで食べる食事を作る気力は、もうなかった。
「由芽、そういう、細かいこと、もう気にしなくていいよ」
「え、やだなぁ、元々こんなんだし」
「オレのことなんか考えなくていいよ。夕飯を何人前作るのか、とか、ご飯は何合炊くのか、とか、ミカンの買い置きはどれくらいするのか、とかさぁ、そういうこと全部。オレは頭数に入れなくていいから」
わたしは小さく深呼吸した。そして、いつもはしないけれど浴室のドアの前に立ち「開けてもいい?」と聞いた。返事はなかったので、バスタオルを持って浴室に入った。
「大好きだから繋ぎ止めておきたいと思うけど。わたしがどんなにがんばって料理とかしたって、要の心は戻ってこないんでしょう? それはわかってるから安心していいよ。一言いってくれれば今だって、大島さんのところに行ってもかまわないんだよ。昨日も今日も連泊してきても、要の自由なんだよ。『泊まる』って言ってくれれば、ふたりの邪魔はしないから。例え『十七日』前でも、要はもう大島さんのことでいっぱいでしょう? 『十七日』の約束のことなんて忘れて、要こそわたしなんか気にしなくてもいいのに」
何を思ったのか、自分でもわからないくらい物分かりのいい優等生然とした言葉だった。
そんなものちっとも役に立たないし、わたしは本当は要に「バカ、バカ、バカー!」と非力なパンチを食らわせたかったのに。大島さんなんか大嫌いなのに。
要はバスタオルを受け取って、下を向いて体を拭き始めた。
シャワーから出た要と、焼きおにぎりを食べた。醤油がちょっと焦げて、なかなかいい出来だった。ふたりで黙々と食べていて、要は「美味しい」とは一言も言ってくれなかった。
ベッドに入ると、わたしたちはとうとう背中を向けあって寝た。もう、ふたりで抱き合って眠ることもないし、一緒に寝ることになんの意味もなくなったんだろう。
背中さえ触れ合うことがないように、気を遣って身を縮める。その現状に悲しくなったわたしは要がぐっすり眠った後、こっそり布団を抜け出してこたつで寝ることにした。
明日の朝はきっと、のどが痛くなったりするよなぁと思う。
要の規則正しい寝息を聞きながら、声を殺して泣いた。今までのどんなケンカの後にもこんなことはなかった。口も利かないまま、背中を向けて寝たことなんてなかった。
こんな悲しい状況の中で何もない顔をして寝るなんてできない。カーテンの隙間から見える煌々と輝く月が、街並みを白く照らしていた。
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