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第19話 ハリウッド映画のような

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 緩やかな坂道をゆっくり下る。
 滑り台があれば乗りたいくらい暑かったけど、わたしは別の意味で熱かった。
 手を繋いで歩くのは久しぶりで、アキは自然に指を絡めてきた。

 こういうのはすごくいい。
 二人の気持ちの速度が合ってる気がする。
 自然、歩幅も合う。平行な関係。
「だいすきだよ、アキ」
 わたしは声に出して言った。そしてその後、赤くなった。
 もっとも日焼けして赤いのか、照れてるのか、区別がつかないと思うけど。
「僕もハルがすきだよ。生まれてからずっと、死ぬまでハルだけでいい」
 じゃあ先に死んじゃったら申し訳なくない?
 繋いだ手をブラブラさせながらそう思う。
「······長生きできるよう、がんばるよ」
「そうだね、そうしてよ」
 アキはここに来てから一番リラックスした顔で笑った。
 そこに笑いジワはなかった。なんと言っても十七、セブンティーンだ。
 代わりに、目尻が下がる。
 長いまつ毛が屋根を下ろすみたいに影を落とす。
 キレイ。
 蛹から蝶とは言うけれど、標本箱にしまってしまいたいくらいの美しさだ。

 歩いてる間にまた百貨店に来てしまい、この間のミニタオルに、別にそれほど欲しいわけじゃないのに目が行ってしまう。
 また売り場の担当の女性が、なにも言わずににっこり微笑む。
 意味もなくわたしも微笑み返す。
 あの人がわたしを覚えてるわけではなかろうに。
「いらっしゃいませ」
 目の前を通ってエスカレーターに進むと、彼女は口を開いてそう言った。初めて声を聞いた。

 エスカレーターはまたX字に、わたしたちを行ったり来たり翻弄する。いつまでもいつまでも上り続けるような錯覚に陥る。
 終わりはちゃんとあることを、この前、恭司と確かめたのに。

 喉乾いちゃったなぁ、とため息をつくと、参考書コーナーを隅からずっと一冊ずつ見ていたアキが「ごめん」と言った。
 バツの悪そうな顔をした。
 そんなつもりで言ったわけじゃなかったので、否定する。せっかく来たんだから思う存分見てよ、と。
 アキは困った顔をして、書棚をチラッと見た。
 わたしたちが住んでいた街ではとても手に入らなかった参考書だ。
 今でこそネットで簡単にワンクリックで買えるけど、中を見られるのは特別だ。
 時間をかけてゆっくり見てほしい。
 なにしろアキは数学が特に得意で、成績が抜群にいい。
 わたしの大学とアキの志望校は近いだけで同じではない。
 レベルがまるで違うから。雲泥の差だ。
 もっといい大学に行けばいいのに、と実のところ思わないでもない。
 今まで離れててもなんとかなってたんだから、これからだってあと数年くらい······なんて言える立場じゃない。
 宙ぶらりんなわたしは、なにも言えない。

 レストラン街は高いので、地下のフードコートに下りる。
 フードコートも普通のお値段――例えばヨーグルトシェイクを買ったところみたいなところに比べたらワンランク高い。
 でも、出せないほどではない。百貨店値段だ。
 メロンソーダか飲みたい気分だったので、メロンのフレッシュジュースを迷わず買う。フレッシュジュースは財布が痛がるほど高かった。
 それからこの前、満里奈が話してたパンケーキのお店があったので、そこで一番ベーシックなものを頼む。飾り気なく、シロップとホイップだけの、ホットケーキみたいなの。
 アキはパストラミとチーズのサンドイッチとかなんだか立派なパンとコーラを買ってきた。
 二人とも、お腹が空いていた。
 お昼だった。
 あと、三時間。

 もっと、とアキは小さく呟いた。
「もっと近ければいいのに。せめて二時間なら、毎週でも逢いにくるのに」
「ごめん」
「ハルのせいじゃないよ。そういう風に思わせたのが僕なら、こちらこそごめん。あー、いつでも迎えに来られる距離にいたいだけなんだ。『すぐ行くよ』って身軽に迎えに行きたい。――ハル、しばらくうちに来ない? スミレちゃんも母さんもわかってくれるよ」
 じっと黙る。
 さっきまであんなにいい雰囲気だったのに。
 現実は卑劣だ。
 わたしをどこまでも突き落とす。
「行けないよ」
「え?」
「そっちの家にはパパが住んでるし、もしかしたら再婚相手ももう住んでるかもしれないし。ましてサクラさんのところには、申し訳ないけどお世話になれない。サクラさんはだいすきだけど、それとは違うの。わたし、もっと自分と向き合いたい」
 心の中で電車の発車ベルが鳴った気がした。
 アキがまた遠のいてく······。
「スミレちゃんも心配してるよ」
「そうだね」
 それ以上はもう、会話にならなかった。

 それからまた書籍売り場に戻ると、アキは申し訳ないから、と繰り返した。
 わたしは「受かってくれないと困る」と言った。
 アキは高校生らしい顔をして、俯きがちに「ありがとう」と言った。
 わたしには参考書は必要ないので、また迷路を旅する。
 二回目なので、なんとなくわかってきた。
 今月のベストセラーの棚の脇に、なぜか神話の棚がある。
 北欧神話どころではなく、インドや日本も含めて様々な神話についての本が置かれている。
 ケルト神話って聞いたことがあるな、と思って手に取ってみる。北欧神話と被るところが多いらしい。神話というのはつまり宗教的なもので、征服の歴史なんだと教わったことを思い出し、なんだかちょっと怖くなり、そっと棚に戻す。

『心理学』の棚の前に来る。
 思ってた通り、ユングとかフロイトとか、名前だけは知ってるお隣さんみたいな人の名前がちらほら見える。
 恭司はユング派、フロイト派、どっちなんだろう?
 聞いたところでどっちもよくわからないけど。
 恭司の気配を感じる。
 このままここで読んでるふりをしてうずくまってようか?
 そしたら、この意味のない時間もやり過ごせるかもしれない。だって今日もブックカフェは満席だったし、足も疲れてしまった。
 百貨店なんて、毎日来るもんじゃないな、と知る。
 値札を見てるだけでぐったりするし。
 不意に、嫌なことを思い出して立ち上がる。
 やっぱりここはダメだ。
 見えなくなるまで佐伯さんを見送る恭司を思い出してしまう。あの、普段は決して見せない情けない後ろ姿を。

「ハル?」
 ひょいと棚の奥から顔を出したのはアキだった。
 買ったらしい参考書と思われる包みを胸に抱えていた。
 ああいうちょっと心細そうな顔を見ると、中学の頃を思い出す。
 どうやらわたしが着信に気が付かなくて、アキは隅から隅までわたしを探して歩いたらしい。
 アキが言うには、わたしはフラッとどこかに飛んでいっちゃうような人らしいので。
 見つかった時は本当にホッとしたと言った。

 わたしたちは他人の邪魔を気にせず、指を絡めて歩いた。
 なにしろ時間がないんだ。
 ほかの人たちからは見てもわからないだろうけど。
 背中を押すように、時が一刻一刻と迫ってくる。
 この手を繋いでいられるのはもう少し。
 アキの彼女で胸を張っていられるのももう少し。
 明日からわたしはまた、『彼女』という不確かな地位についてそれをどう受け止めたらいいのかわからなくなる。
 だって、確認したくても、隣にいないから。
 アキは口にするけれど、ずっと同じように想ってもらえる自信はない。
 人は変わるし、気持ちも変わる。
『恋』も『愛』も不確かで不安定だ。
 いつでも消えそうで、いつでも揺れている。

「どうしたの?」
「······寂しい。もっとそばにいてほしい」
 アキのシャツの裾をギュッと握る。心細さがMAXになる。
「今さらなにを言ってるの?」
 アキはやさしく微笑んだ。
 まるでローマ時代の天使の彫像のように、しあわせを象徴するような微笑み。
「そんなかわいいことを言うと」
 アキはわたしの手を引いて、エレベーターホールへ向かった。
 エレベーターは呼んでもなかなか来ないので人気《ひとけ》がない。
 その、人影のないエレベーターホールの百貨店らしい大きな柱の影で、わたしたちはキスをした。
 本当に誰にも見られなかったかは定かではない。
 でもその間、誰かがエレベーターに乗りには来なかったし、下りる人もいなかった。
 わたしの背中は、もしかしたら大理石かもしれない立派な柱に密着していた。固くてひんやりした。
 背中はくっついても柱とキスはしなかった。
 キスをしたのはわたしたちだ。
 それは――それはそれは熱いキスで、いわゆるハリウッド映画のそういうシーンでは、親がいきなりチャンネルを変えるような、そんなキスだった。
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