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第8話 信号は「止まれ」と告げる
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次に目が覚めたのは真夜中だった。
悪い夢を見ていた。
どこまでもどこまでも真っ暗な海辺を走り続けなければならない。足元を掬うように波が押し寄せる。
アキがいるはずなのに、どこを見回しても誰もいない。
聴こえるのは海の轟音。
いつでも容易く波に捕まってしまいそうだ。
「アキ?」
小さく声をかける。
なんで近くにいないんだろう?
わたしたち、手を繋いで電車でずーっと下って、今まで行ったことのないところに行ったのに。
「アキ!」
呼べば来るはずの彼の姿が見えない。いや、見えた。砂の向こうにゆらっと。
背の高い、凛とした姿でふっと振り返る。
「アキ!」
アキに声は届かないのか、こっちをチラッと見たのに目が合わない。
あれはあの日のアキじゃない。
今のアキだ。
今のアキならもう、わたしを迎えに来てくれないかもしれない。
あの頃した約束は、みんな無効なのかもしれない。
怖くてやたらに声がかけられない。
逢いたいのに、逢えない。二人を隔てる物質的な距離が、心も引き剥がす――。
プンと匂うのはお揚げのいい匂い。
ああ、ビックリした。あの日が戻ってきたのかと思った。あれはもう何年も前の出来事で、過去の遺物だ。
頭の片隅がズキズキする。
そう言えば倒れたっけ······。
それで、あんな夢。
体調が悪いから、あんな夢を見るんだ。
そう、あれは夢で、わたしはあの海に戻ることはない。
怖い思いをすることはもうない。
立ち上がってなにか飲もうと、恭司を踏まないよう、そっと足を運ぶ。
「キャッ!」
ガシッといつかのように足首を掴まれた。足首ってそんなに簡単に掴めるもんかなぁと考える。
そういう修行、ある?
「ハル······どうした?」
「あのね、喉乾いたかもって」
ああ、と恭司は右手で目を覆うようにして意識を呼び起こそうとしてる。眠りから無理に起こしたくない。
「いいの、寝てて。麦茶飲んで寝るから」
「ああ、麦茶、ありがとう。男一人だとそういうことが疎かになるから助かるよ。米も。安西くんが言ってたよ。すごい重かったって。悪いことした。レシート出せよ」
「置いてもらってるからいいの。お礼がしたいじゃない」
「そんなことは考えなくていい。俺がお前を拾ったんだぞ? 帰るまでは保護者だ」
そうだ、安西にも言ってた。
確かに今の保護者は恭司だ。
「答えたくないならいいんだけど、恭司っていくつなの?」
足首を掴まれたまま、倒れないようにゆっくり座る。
目の開かない恭司の寝顔はなかなかかわいい。みんな寝る時は人生経験なんてものは脱ぎ捨てて、無邪気になるのかもしれない。子供みたいに健やかな寝顔。
「俺か。お前は十九だろう?」
「なんで知ってんの?」
「安西くんがハルの大学の話を少ししてくれたんだよ。俺は比べ物にならないオジサンだ。今年二十八になる。九違うな」
九。
なるほどそれは歳が離れてる。
納得の裏でちょっとガッカリ。恭司から見たら、本当にわたしは子供だ。
知らないうちに足首から離れた手が頭の上に置かれる。恭司はわたしがこうされるのをすきだと知ってるのかもしれない。
弱点を知られてる。
「子供はもう寝なさい。イオン飲料も買っておいたからすきな方を······」
そっと離れて冷蔵庫に向かう。
あ、飲むゼリーまである。
おいなりさんの匂いにお腹が空いた気がして、ゼリーに手を伸ばす。
冷蔵庫の照明がわたしを照らす。
寂しさは絶え間なく押し寄せて、どうして自分がここに来たのかじっくり考える時が来たことを知る。
結局、パパとママは別居することで最悪の事態を回避するために、お互いに考える時間を持つことにした。
でもそれは、あまり上手い方法ではなかった。
パパはデザイン事務所を辞めて、友人と新しい会社を立ち上げたい、というのが事の発端だった。
二人が離れていた時間はパパにとっていい方に傾いた。
パパは友人と独立して新しい会社を作った。そしてその会社は上手く軌道に乗った。
パパは仕事でもプライベートでもすきな写真を撮るようになり、なんとか言う賞を獲った。
「眠れないのか?」
「······」
ベッドで体育座りして唇を噛む。
信号が青から点滅する。渡ってはいけない。
「あの、少し聞いてほしいんだけど」
わたしは洗いざらい、今回の家出の発端を話した。
別居。
パパの会社独立。
それから――。ダメだ、涙しか出てこない。
「それでもわたし、パパが帰ってくるのを待ったの。またあの家で、三人で暮らすんだって。その為の別居だって言ったもん。
······でもね、先週末、パパと久しぶりに会ったんだけど。パパ、ママと別れてほかの女の人と結婚するんだって」
ズッと鼻をすする。
ベッドまで箱ティッシュが届く。
恥ずかしげもなく大きな音を立てて鼻をかむ。
「悲しかったのか?」
「······わかんない。悲しかったし、寂しかった。離れてた時間が恨めしかったし、ママのことも恨んだ。ママは先に知ってて、黙ってたんだと思うと許せなくて」
「道に立ってオヤジ待ちして、いいオジサンなんかいなかっただろう?」
「······どうかな? もっと待ってたらいたかもしれない。責めないで置いてくれてありがとう。気持ちに整理がついたらちゃんと出て行くから」
「難しい話だな。お前もお前の中でがんばってるんだ。自分をたまには褒めてやりなさい。よくやってるよ······」
明日も仕事に違いない恭司は寝てしまった。
こんな夜中に、こんな不幸話を長々とされて気の毒な人だ。わたしなんか、簡単に拾うから。
寂しさは速度を増していく。
恭司は起こしちゃいけない。
わたしは暗闇の中で自分のリュックをゴソゴソ探ると、長い間、口封じしていたスマホの電源をとうとう入れた。
起動まで時間がかかる――。
通信会社、機種のロゴ。バックライトが暗闇に眩しい。とにかく時間をかけて待つ。
スマホはわたしが待たせていた時間に不満を持っていたようで、なかなか起動してくれなかった。
見慣れた画面が表示されて、通知がおかしなことになってる。
どこから手をつけていいのかわからない。
とりあえず着信通知は後回し。
誰からかは想像がつくし、ややこしそうだ。
メッセージ、結局そこから入るんだよね、と緑色のアイコンをタップする。
――ああ、通知の件数。その数にうっとなる。
一番上にあったのは、意外なことに満里奈だった。
満里奈かぁ。
日中、暇そうな気がする。
とりあえずメッセージ開く。
『元気? 安西に聞いたけどあんたなにやってんの? 拗らせてんの? 話くらいは聞いてあげるから連絡しなさいよ』
満里奈らしい、元気なメッセージだった。
「お、おう」という気分になる。
拗らせてるかと訊かれたら、ずいぶん拗らせている。
確かに子供っぽいし、こんな時にアキのことをこんな場所で待ってるのも異常だ。
昔だったらなにも考えず「逢いに来て」って言えたのに。
それは物理的に近かったからじゃなくて、心の問題のような気がする。
わたしはいつからか、自分がアキにとって相応しくないような、そんな気になっていた。どんどん歳と共に美青年になっていくアキに、引いていた。
背はどんどん高くなり、わたしのママと、一卵性双生児のアキのママのサクラさんみたいにスッと通った鼻筋と鋭角な顎のライン、二人に似て色白で、くせっ毛の髪は指でもしゃもしゃにしちゃいたいくらいキュートだ。
この、離れてからの数年の間にわたしはアキにコンプレックスを感じていた。
アキに相応しいのはほかの女の子じゃないかと。
そしてアキだって、ある日突然、ほかの女の子を連れて来るかもしれないと。パパみたいに。
信号は通る車もいないのに点滅する。
黄色がチカチカ光って赤になる。
ストップのサインだ。
悪い夢を見ていた。
どこまでもどこまでも真っ暗な海辺を走り続けなければならない。足元を掬うように波が押し寄せる。
アキがいるはずなのに、どこを見回しても誰もいない。
聴こえるのは海の轟音。
いつでも容易く波に捕まってしまいそうだ。
「アキ?」
小さく声をかける。
なんで近くにいないんだろう?
わたしたち、手を繋いで電車でずーっと下って、今まで行ったことのないところに行ったのに。
「アキ!」
呼べば来るはずの彼の姿が見えない。いや、見えた。砂の向こうにゆらっと。
背の高い、凛とした姿でふっと振り返る。
「アキ!」
アキに声は届かないのか、こっちをチラッと見たのに目が合わない。
あれはあの日のアキじゃない。
今のアキだ。
今のアキならもう、わたしを迎えに来てくれないかもしれない。
あの頃した約束は、みんな無効なのかもしれない。
怖くてやたらに声がかけられない。
逢いたいのに、逢えない。二人を隔てる物質的な距離が、心も引き剥がす――。
プンと匂うのはお揚げのいい匂い。
ああ、ビックリした。あの日が戻ってきたのかと思った。あれはもう何年も前の出来事で、過去の遺物だ。
頭の片隅がズキズキする。
そう言えば倒れたっけ······。
それで、あんな夢。
体調が悪いから、あんな夢を見るんだ。
そう、あれは夢で、わたしはあの海に戻ることはない。
怖い思いをすることはもうない。
立ち上がってなにか飲もうと、恭司を踏まないよう、そっと足を運ぶ。
「キャッ!」
ガシッといつかのように足首を掴まれた。足首ってそんなに簡単に掴めるもんかなぁと考える。
そういう修行、ある?
「ハル······どうした?」
「あのね、喉乾いたかもって」
ああ、と恭司は右手で目を覆うようにして意識を呼び起こそうとしてる。眠りから無理に起こしたくない。
「いいの、寝てて。麦茶飲んで寝るから」
「ああ、麦茶、ありがとう。男一人だとそういうことが疎かになるから助かるよ。米も。安西くんが言ってたよ。すごい重かったって。悪いことした。レシート出せよ」
「置いてもらってるからいいの。お礼がしたいじゃない」
「そんなことは考えなくていい。俺がお前を拾ったんだぞ? 帰るまでは保護者だ」
そうだ、安西にも言ってた。
確かに今の保護者は恭司だ。
「答えたくないならいいんだけど、恭司っていくつなの?」
足首を掴まれたまま、倒れないようにゆっくり座る。
目の開かない恭司の寝顔はなかなかかわいい。みんな寝る時は人生経験なんてものは脱ぎ捨てて、無邪気になるのかもしれない。子供みたいに健やかな寝顔。
「俺か。お前は十九だろう?」
「なんで知ってんの?」
「安西くんがハルの大学の話を少ししてくれたんだよ。俺は比べ物にならないオジサンだ。今年二十八になる。九違うな」
九。
なるほどそれは歳が離れてる。
納得の裏でちょっとガッカリ。恭司から見たら、本当にわたしは子供だ。
知らないうちに足首から離れた手が頭の上に置かれる。恭司はわたしがこうされるのをすきだと知ってるのかもしれない。
弱点を知られてる。
「子供はもう寝なさい。イオン飲料も買っておいたからすきな方を······」
そっと離れて冷蔵庫に向かう。
あ、飲むゼリーまである。
おいなりさんの匂いにお腹が空いた気がして、ゼリーに手を伸ばす。
冷蔵庫の照明がわたしを照らす。
寂しさは絶え間なく押し寄せて、どうして自分がここに来たのかじっくり考える時が来たことを知る。
結局、パパとママは別居することで最悪の事態を回避するために、お互いに考える時間を持つことにした。
でもそれは、あまり上手い方法ではなかった。
パパはデザイン事務所を辞めて、友人と新しい会社を立ち上げたい、というのが事の発端だった。
二人が離れていた時間はパパにとっていい方に傾いた。
パパは友人と独立して新しい会社を作った。そしてその会社は上手く軌道に乗った。
パパは仕事でもプライベートでもすきな写真を撮るようになり、なんとか言う賞を獲った。
「眠れないのか?」
「······」
ベッドで体育座りして唇を噛む。
信号が青から点滅する。渡ってはいけない。
「あの、少し聞いてほしいんだけど」
わたしは洗いざらい、今回の家出の発端を話した。
別居。
パパの会社独立。
それから――。ダメだ、涙しか出てこない。
「それでもわたし、パパが帰ってくるのを待ったの。またあの家で、三人で暮らすんだって。その為の別居だって言ったもん。
······でもね、先週末、パパと久しぶりに会ったんだけど。パパ、ママと別れてほかの女の人と結婚するんだって」
ズッと鼻をすする。
ベッドまで箱ティッシュが届く。
恥ずかしげもなく大きな音を立てて鼻をかむ。
「悲しかったのか?」
「······わかんない。悲しかったし、寂しかった。離れてた時間が恨めしかったし、ママのことも恨んだ。ママは先に知ってて、黙ってたんだと思うと許せなくて」
「道に立ってオヤジ待ちして、いいオジサンなんかいなかっただろう?」
「······どうかな? もっと待ってたらいたかもしれない。責めないで置いてくれてありがとう。気持ちに整理がついたらちゃんと出て行くから」
「難しい話だな。お前もお前の中でがんばってるんだ。自分をたまには褒めてやりなさい。よくやってるよ······」
明日も仕事に違いない恭司は寝てしまった。
こんな夜中に、こんな不幸話を長々とされて気の毒な人だ。わたしなんか、簡単に拾うから。
寂しさは速度を増していく。
恭司は起こしちゃいけない。
わたしは暗闇の中で自分のリュックをゴソゴソ探ると、長い間、口封じしていたスマホの電源をとうとう入れた。
起動まで時間がかかる――。
通信会社、機種のロゴ。バックライトが暗闇に眩しい。とにかく時間をかけて待つ。
スマホはわたしが待たせていた時間に不満を持っていたようで、なかなか起動してくれなかった。
見慣れた画面が表示されて、通知がおかしなことになってる。
どこから手をつけていいのかわからない。
とりあえず着信通知は後回し。
誰からかは想像がつくし、ややこしそうだ。
メッセージ、結局そこから入るんだよね、と緑色のアイコンをタップする。
――ああ、通知の件数。その数にうっとなる。
一番上にあったのは、意外なことに満里奈だった。
満里奈かぁ。
日中、暇そうな気がする。
とりあえずメッセージ開く。
『元気? 安西に聞いたけどあんたなにやってんの? 拗らせてんの? 話くらいは聞いてあげるから連絡しなさいよ』
満里奈らしい、元気なメッセージだった。
「お、おう」という気分になる。
拗らせてるかと訊かれたら、ずいぶん拗らせている。
確かに子供っぽいし、こんな時にアキのことをこんな場所で待ってるのも異常だ。
昔だったらなにも考えず「逢いに来て」って言えたのに。
それは物理的に近かったからじゃなくて、心の問題のような気がする。
わたしはいつからか、自分がアキにとって相応しくないような、そんな気になっていた。どんどん歳と共に美青年になっていくアキに、引いていた。
背はどんどん高くなり、わたしのママと、一卵性双生児のアキのママのサクラさんみたいにスッと通った鼻筋と鋭角な顎のライン、二人に似て色白で、くせっ毛の髪は指でもしゃもしゃにしちゃいたいくらいキュートだ。
この、離れてからの数年の間にわたしはアキにコンプレックスを感じていた。
アキに相応しいのはほかの女の子じゃないかと。
そしてアキだって、ある日突然、ほかの女の子を連れて来るかもしれないと。パパみたいに。
信号は通る車もいないのに点滅する。
黄色がチカチカ光って赤になる。
ストップのサインだ。
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