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第6話 ブラックアウト

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 恭司は昨日と比べると比較的、ラフな格好で出かけて行った。ポロシャツにチノパン。なぜか似合わない。
 どうしてスーツで出かけないんだろう?
 そう思ってふっと思い付く。ああ。
「今日、デート? わたしのことは気にしなくていいよ。ひとりでいるのは慣れてるから。自立した子供になる修行して育ったから」
 鏡の前で念入りに髪を結んでいた恭司は「座って」と言った。わたしは飼い主に忠実なので、恭司の前に座る。
 彼は胡座で、結びかけた髪からはオリーブオイルの香りがした。オイルでしっとりした髪は肩の上でしっとり重く、揺れたりしなかった。

 正座をする。これから有り難いお言葉をいただくのかもしれない。効きすぎたエアコンが腕を撫でる。その冷たさに鳥肌が立つ。腕をさする。
「そういう気遣いは要らない。それより、なんでそんな『修行』が必要になったんだ?」
 意外な質問だった。
「なんでって。⋯⋯パパはいつも仕事で忙しかったし、ママはいつも家事と仕事で忙しそうだったからできるだけ面倒かけない子供になろうと。子供なりの配慮?」

 恭司は眉間に皺を寄せると、わたしの狭い額にデコピンをかました。いい音がした。
「痛いッ! あの⋯⋯マジで痛かったんですけど」
「子供が早く大人になる必要はない。それなら迷惑をかけない⋯⋯なんでもない」
 ポン、と頭に手が乗る。
「なんでもないよ。気にするな。それから今日は昨日と職場が違うんだ」
「え?」
「そういう職種なんだよ。いくつかの所を兼任してる」
「⋯⋯なるほど」
「今日は遅くならないと思う。だから門限は守れよ。昨日のご飯は美味かった。でも無理する必要はない。とりあえず心の静養が必要だ」

 恭司はスっと立ち上がると、服装とはまた似つかわしくないビジネスライクなカバンを持った。
 ハッとした顔をして、鏡に戻る。
 キュッと髪を結ぶ。目付きが、まるで弓を射る人のようだ。弓道と縁はないけど。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
「知らない人が来たらドアを開けるなよ」
 にやっと笑ってドアを出た。
 ⋯⋯子供扱いしやがって!!!
 そりゃあ、恭司から見たらバカな子供でしかないだろうけど。それでも。
 やめよう。置いてもらえるだけでありがたいんだから。

 キッチンにある物を把握する。
 一人暮らしの男の台所にしてはいろいろ揃ってる。
 鍋もサイズ違いであるし、フライパンもある。これならそこそこのものは作れそう。
 食器もそこそこ⋯⋯少なくとも二セットずつ、揃ってる。
『前の女』効果。
 うーん。
 わたしの男じゃないんだけど、あんな男に想われる女が気になる。
 しかもあんなプライベートなやり取りを、短時間で躊躇せず交わせるなんて。
 どっちかが、どっちかをまだすきに違いない。
 ⋯⋯わたしがいることが邪魔なんじゃないかな、とまた同じことを考える。
 そもそもわたしは居候で邪魔者だ。

 またしてもすることは特にないので、スーパーに行ってたらふく汗をかいて、アイスバーで熱を冷ます。
 昨日のペットボトルに引き続き、米二キロは重かった。ペットボトルは廃止だ。指が引きちぎれる。プラスチックの冷蔵庫用の一リットル水筒を二本と、水出し麦茶を買った。
 節約ではない。重さに負けたんだ。
 ······このままじゃ熱中症だ。
 どおりで買い物客も少ないはず。だって一日のうちで一番暑い時間だもん。

 アイスを食べてる間は思考が止まる。
 蓋をしていたものが一気に溢れだそうと、その薄い蓋を押し上げる。わたしはとりあえず心にあったものを手当り次第、その穴に入れた。穴の中はブラックホールで、容量というものがない。
 なにもないのと一緒。
 ⋯⋯今頃みんななにしてるかな? 満里奈はバイトかな。航太はわからん。ママはまだ仕事中。アキは――。
 アキはなにをしてるんだろう?
 どうしてまだわたしを捕まえに来ないんだろう?
 わたしのことなんか、もう心の隅っこで小さくなってるに違いない。だって、あんなに急に男らしくなって。
 わたしの知るアキは顔にいつも「どうしよう?」って書いてあった。
 寂しいよ。
 耳の奥に潮騒が響く。あの日のことを思い出す。二人きりで海に⋯⋯。

「お姉さん、具合悪いんじゃないの? 大丈夫?」
 心配そうな声が項垂れていたわたしの頭の上から降ってきた。ヤバい人だと思われてる。
 まずい、とガバッと身を起こすとフラッと頭が揺れた。
「あ」と思ったその先は闇で、しばしブラックアウト。

 ――次に目が覚めた時、天井にシミはなかった。
 それどころか真っ白い蛍光灯が昼間からピカピカ光り、エアコンの涼しい風が揺れる。
 気持ちいい。熱ピタが頭にベロっと貼られていた。すーすーする。
 あ?
 ここはどこ?
 頭をフル回転する。まずい、頭が割れそうだ。
 後ろから暴漢にでも殴られたかのようにズキズキする。
 体を起こそうとして、力が入らず失敗する。
 どこだ、ここは?

「お、大丈夫? 目は覚めた?」
 ⋯⋯現実に追いつけない。なんでここに。
「千遥、お前のうちってこの辺だっけ? 電車使ってるって言ってなかった?」
 この、わたしを『千遥』呼ばわりするのが航太だ。呼び捨てにしていいと許可した覚えもないのに。
「······親戚の家が近くて買い出しに来たの」
「ああ、お前の荷物、店の冷蔵庫に入ってるぞ。ていうかさ、あれ、重すぎるだろう? ひとりの時にあんなにたくさん買うなよ」
 アンタなんかに指図される理由はない、と即座に思う。けど助けてもらった手前、そうそう手酷い言葉も浴びせられない。わたしだって鬼じゃないんだ。

「店の前にいる子、危なくないかって話になったんだけど、まさかその子が倒れて、それが千遥だったとは。これはもう運命だね」
「······アンタその台詞、今まで何人の子に使った?」
「いや······そんなこと言わないだろう普通。ノリだよ、ノリ。千遥はそういうの苦手かもしれないけど」
 ズレてる。
 航太はわたしがコミュ障だとずっと勘違いしてる。
 確かにわたしは女の子たちとグループになって一緒に行動するタイプじゃないし、特にサークルではほぼ喋らない。なぜなら気配を消しているから。
 あのサークルを選んだわたしを消したい。
「もう上がるとこだからさ、送って行くよ。運命とは言わなくても縁があるんだよ、きっと。荷物は俺に任せろ」
 グッ、とか親指立ててまた店内に戻っていく。

 ······借りを作るのはイヤだなぁ。
 でもここでいつまでも頭がグルグルしてても困るし。
 そもそもあの部屋に航太を連れて行くのか。自分の部屋でもないのに。
 まぁ、恭司は親戚のお兄ちゃんということでよし。会うかどうかと言ったら、まず会うこともないだろうし。
 荷物持ちしてくれるなら、実際、助かるし。
 そういう物事の割り切り方を覚えなくちゃいけない。「すき」と「嫌い」だけで物事を決めない。
 それはわたしの苦手なことだった。
 すきなことは徹底してやったし、嫌いなことからは背を向けてきた。
 それでも今まで生きてこられたのはきっと、やさしい人たちが、本当は背中側から守ってくれていたから。
 そういう大事なことをすぐに忘れそうになる自分を反省する。

 もう子供じゃない。
 出来ることも増えた。
 怖がる必要はない。

 暑いなぁ、と言った航太はTシャツに丈の長いデニムで、そりゃ暑くて当たり前だろうと思う。
 うちの美丈夫だって、私服はカットオフしたデニムだったし、お前なんでTシャツの上に半袖のシャツとか羽織ってるんだ。
「······暑くないの、その格好」
「あー、ほら、スタイル? 自分なりの」
「なにそれ、ヘボ」
「ヘボ?」
「ヘボい。ポリシーがあるのは悪くないと思うけど、こんなに暑いのに······」
 そうだ、こんなに暑いのにフラフラ出歩いて倒れたのはどこの誰だ?
 逃げ水が揺らいで見える。下り坂の中腹に、ほんの少し窪みがあるから。オアシスはまだ見えない。大丈夫、正気だ。
「まぁとにかく、バイトに行く時くらいはもっと涼しい服装でいいんじゃない?」
 そうかもしれないなぁ、と航太は言葉をこぼした。

 ジャラジャラとキーホルダーの付いた鍵を取りだして、ドアを開ける。
 あ、と思って閉める。
 ······ここに入れていいものか。
 第一に他人の部屋だし、第二に家出してることがバレるかもしれない。
 でも恩人だし、このまま暑い中、帰したら、航太も倒れるかもしれない。
「えっと、わたしの部屋じゃないからちょっと古くて片付いてないかもしれないけど」
 航太はにっこり笑って「わかった」と言った。

「おじゃましまーす」と上がってきた時は一瞬、イラッとしたけど、律儀にコンクリート敷きの玄関で靴を揃えてる背中を見た時、なにも言わないことにした。
「へぇ、ここに泊まってるの?」
「ちょっとだけだよ、ちょっと」
「ふーん、古いアパートだな。どうして泊まってるの?」
「えーとほら、仕事が忙しいって言うから、家事手伝いに来てるの」
 それは大変だねぇ、という言葉は誰にかけられたものなのかわからなかった。

「まぁとりあえず、お前は座ってろよ。大体わかったから。倒れたんだぞ、経口補水液飲め」
 え、と手が伸びそうになったけど、自分のバカさ加減が招いたことだし、お言葉に甘えて座らせてもらう。
 航太は自分の買ったフルーツティーなるお洒落なものを取り出して、一息に半分ほど飲み干した。
「はー、お前の荷物マジでヤバいって。持って帰れると本当に思ったの?」
「いや、それはね、その」
 サッと立ち上がるとエコバッグの中に詰め込まれたものを適当にしまってくれる。
 どんだけ食うつもりだよー、と袋の中の鶏肉を見て声を上げる。「······棒棒鶏」と言うと「暑いからいいよな」と航太も調子を揃えた。

 驚いたことに「ちょっと借りる」と言って買ってきたプラスチック水筒を洗うと、キレイに水気を拭いて水出し麦茶を二本作り、冷蔵庫に入れた。
「これで夕飯の時に飲めるだろう?」
「ありがとう」
「え、いいんだよ、これくらい。うちは自営で飲食店やってるからこういうのはしょっちゅうで」
「そうなの?」
「······まぁ、だから本当は店を継ぐのがいいんだろうけど。親もチェーン店でも有名店でもない継ぐ必要はないからすきなことをしろって」
 どこかで聞いたような話だ。
 親ってみんなそんなもんなんだろうか?
 わたしには普通の親はわからない。

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