37 / 42
第37話 誰にもあげない
しおりを挟む
紺の制服をしっかり着込んだ理央は闇夜に溶けそうで、なんだか危うい気がした。
僕のセーターの裾を掴んだまま、離そうとしない。
動揺する。
理央は僕を離さない。
その小さな手で、僕らは繋がっていた。
電話なんかより、しっかり。僕は宵闇の中、彼女の質感を確かに感じていた。
「ねぇ、理央。僕は君にキスしたこともあるけど、でも今は聡子と付き合ってるんだ。軽はずみなことはしたくないよ。誤解されたくないんだ」
まだ手は離れない。
彼女は細いため息をついた。
「聡子ちゃんが好きなの?」
「······うん、多分だけど。かなり惹かれてる」
「そうだよね、聡子ちゃんだもんね」
理央の手はそっと、彼女の膝の上に戻った。
なにか言いたげで、言葉は出てこない。
僕らは膠着状態だった。
僕と聡子の間にも、理央たちみたいな約束があれば、僕は飛んで帰るのに、と今更なことを思う。
僕はベンチに座ったままだ。いつだって自由に立ち上がることができるのに。
僕の電話はこれっぽっちも僕を呼び出してはくれそうになかった。そういう習慣がなかったんだから、期待しても仕方ない。
聡子が、クリームソーダをカラカラとかき回す音が懐かしくなる。
「ねぇ、キスしようよ」
え、と思った。冷や汗をかく。心臓が戸惑って大きな音を立てる。
「なんでそうなるの? 僕のしたことをまだ怒ってるから? それとも洋と上手くいってないの?」
理央はそのつぶらな瞳に、常夜灯の光を映して僕を見た。そうして僕の手を持ち上げると、その手の甲にやわらかい唇を押し付けた。
ダメだ。
避けられない。
この手を振り払うことができない。
ここより先に進んだら、すべてがダメになってしまう。僕らは同じ線上にいながら、まるでサーカスの綱渡りのようにいつも危険なバランスで成り立っていたんだ。
洋が、聡子が、目の裏にちらつく。
「奏くんがキスしてくれた時、わたし、奏くんの気持ちに素直に応えればよかった。ずっと後悔してたの······」
「理央、でもそれは」
「わかってる、皆を傷つけるってこと。でも時には他人を傷つけても手に入れたいものがあるんだよ」
情けないことに動けなかった。
理央の唇が僕の荒い手の甲に触れるまで、見ていることしかできなかった。
欲望、期待、衝動。それらのものが僕に満ちる。
彼女が唇をつけた左手の甲が熱い。火傷したみたいだ。
体中が心臓になったみたいに早鐘を打つ。
唇を奪いたい。貪るように、何も考えずに。
理央はつぶらな瞳に常夜灯を照らして、少し潤んだ目で僕を見つめている。
それは僕の知っている彼女ではなかった。
いつもの幼い笑顔で僕たちをホッとさせる彼女ではなかった。
そこにいるのは一人の女性だった。
「ね、いろんなこと、やり直そうよ。今ならまだ、奏くんも戻れるんじゃない?」
「······なにを? 僕は聡子を大切に思い始めてる。もう遅いよ。誰も傷つけたくないんだ」
「でもわたしのこと、好きだって言ったじゃない。無理にキスもしたじゃない。
ほんのこの間のことだよ? 心変わり、早くない? 思い出して、無理にキスするほど好きだった気持ち」
「ねぇ、落ち着いてよ。どうしたんだよ、いきなり。いつもの理央らしくないよ」
そこまで言うと理央は僕にぶつかるように抱きついてきた。反動でひっくり返らなくてよかった。
彼女が傷つかないよう、しっかり抱き留めた。
「――誰にもあげない」
ひっく、ひっく······と理央の泣き声は尾を引いて公園に響く。舗道を歩く足音もなく、どこまでも二人きりだった。
あんなに好きだった彼女が今、腕の中にいる。
ごく近いところで僕を求めている。
今の彼女は洋のものじゃない。ただの理央だ。
理央は白い手をそっと伸ばすと、僕の首筋に手をやった。ひんやりしている。外気で冷えたに違いない。こんなところにずっといるわけにいかない。
その冷たい腕は僕の首の後ろまで回され、彼女は腰を浮かせて、耳元に軽くキスした。少し震えていた。
動けなかった。抱き留めていることしか。あんなに好きだった女の子が腕の中にいるのに、僕を求めているのに、なんにも。
「洋くんが告白してくれた時、本当は奏くんじゃなくてすごくがっかりしたの。
でも洋くんは悪い人じゃないし、それに······やっぱりわたしには奏くんは手が届かないんだって。仕方ないんだって思って。高望みしたって仕方ないじゃない?
しかも友だちがわたしを好きだからって橋渡ししてくれる人になんの希望もないじゃない? だから諦めようと思ったの。そしたら奏くんの近くにもいられる。
洋くんはすごくやさしくて、わたしにとっても良くしてくれる。でもさ、洋くんはやっぱり奏くんじゃないんだよ。
聡子ちゃんと付き合うって聞いて、すごく悔しかったし、後悔した。後から出てきて持っていかれちゃう気がしたし、わたしは聡子ちゃんにはどうしても勝てないし」
抱きしめたままの姿勢で耳元に熱い吐息を感じる。そこから体中が熱を帯びて、おかしくなりそうだ。
前に好きだったとはいえ、洋の彼女だ。これ以上、一ミリも進んだらいけない。
なのに体はいつまでも言うことを聞かずにやわらかいその体を抱きしめていたいと、そう言った。
やわらかくて、石鹸の匂いのする、小さな彼女。力を入れたら壊れてしまいそうだ。
「聡子ちゃんがそんなに好き? やり直そうよ、毎日が変わったあの日から。わたしはそうしたいの。奏くんは、そうは思わない? わたしたち、両想いだってわかったんだもの、修正したい······」
白いペンキをぶちまけたら、ここ最近起こったすべてのことが変わるのかな?
掃除当番や、バスケットボール、あの子のために打ったスリーポイントシュートも。
全部なくなって、過去、理央が好きだった自分に戻るのか。悩ましい思いを抱えて、背を丸めて歩いていたあの頃に。
そろそろと理央は顔を上げると、首を少し傾けてそっと僕に近づいてきた。
立場は逆だけど、あの日の再現のように。
親友の恋人を盗ってしまおうかと思うほど好きだったのに、あの気持ちはどこに消えてしまったんだろう。
答えは本当はわかっていた。
この心の中に――。
「やめようよ。もう終わったんだよ」
僕は理央の両肩をそっと押した。ほんの少しの勇気が僕の心の奥の方から顔をのぞかせた。
理央は驚いた顔をしていた。信じられない、というように大きく目を見開いていた。
そして僕の手首を握ると、強引に自分のジャケットの内側に誘い込んだ。
セーターの内側になにがあるのか、知らないわけはなかった。そこにはささやかな膨らみがあるはずだ。
手を振り払おうとした。
こんなことをしていいはずがない。すべてが本当に崩れて、元通りにならなくなるから――。
僕のセーターの裾を掴んだまま、離そうとしない。
動揺する。
理央は僕を離さない。
その小さな手で、僕らは繋がっていた。
電話なんかより、しっかり。僕は宵闇の中、彼女の質感を確かに感じていた。
「ねぇ、理央。僕は君にキスしたこともあるけど、でも今は聡子と付き合ってるんだ。軽はずみなことはしたくないよ。誤解されたくないんだ」
まだ手は離れない。
彼女は細いため息をついた。
「聡子ちゃんが好きなの?」
「······うん、多分だけど。かなり惹かれてる」
「そうだよね、聡子ちゃんだもんね」
理央の手はそっと、彼女の膝の上に戻った。
なにか言いたげで、言葉は出てこない。
僕らは膠着状態だった。
僕と聡子の間にも、理央たちみたいな約束があれば、僕は飛んで帰るのに、と今更なことを思う。
僕はベンチに座ったままだ。いつだって自由に立ち上がることができるのに。
僕の電話はこれっぽっちも僕を呼び出してはくれそうになかった。そういう習慣がなかったんだから、期待しても仕方ない。
聡子が、クリームソーダをカラカラとかき回す音が懐かしくなる。
「ねぇ、キスしようよ」
え、と思った。冷や汗をかく。心臓が戸惑って大きな音を立てる。
「なんでそうなるの? 僕のしたことをまだ怒ってるから? それとも洋と上手くいってないの?」
理央はそのつぶらな瞳に、常夜灯の光を映して僕を見た。そうして僕の手を持ち上げると、その手の甲にやわらかい唇を押し付けた。
ダメだ。
避けられない。
この手を振り払うことができない。
ここより先に進んだら、すべてがダメになってしまう。僕らは同じ線上にいながら、まるでサーカスの綱渡りのようにいつも危険なバランスで成り立っていたんだ。
洋が、聡子が、目の裏にちらつく。
「奏くんがキスしてくれた時、わたし、奏くんの気持ちに素直に応えればよかった。ずっと後悔してたの······」
「理央、でもそれは」
「わかってる、皆を傷つけるってこと。でも時には他人を傷つけても手に入れたいものがあるんだよ」
情けないことに動けなかった。
理央の唇が僕の荒い手の甲に触れるまで、見ていることしかできなかった。
欲望、期待、衝動。それらのものが僕に満ちる。
彼女が唇をつけた左手の甲が熱い。火傷したみたいだ。
体中が心臓になったみたいに早鐘を打つ。
唇を奪いたい。貪るように、何も考えずに。
理央はつぶらな瞳に常夜灯を照らして、少し潤んだ目で僕を見つめている。
それは僕の知っている彼女ではなかった。
いつもの幼い笑顔で僕たちをホッとさせる彼女ではなかった。
そこにいるのは一人の女性だった。
「ね、いろんなこと、やり直そうよ。今ならまだ、奏くんも戻れるんじゃない?」
「······なにを? 僕は聡子を大切に思い始めてる。もう遅いよ。誰も傷つけたくないんだ」
「でもわたしのこと、好きだって言ったじゃない。無理にキスもしたじゃない。
ほんのこの間のことだよ? 心変わり、早くない? 思い出して、無理にキスするほど好きだった気持ち」
「ねぇ、落ち着いてよ。どうしたんだよ、いきなり。いつもの理央らしくないよ」
そこまで言うと理央は僕にぶつかるように抱きついてきた。反動でひっくり返らなくてよかった。
彼女が傷つかないよう、しっかり抱き留めた。
「――誰にもあげない」
ひっく、ひっく······と理央の泣き声は尾を引いて公園に響く。舗道を歩く足音もなく、どこまでも二人きりだった。
あんなに好きだった彼女が今、腕の中にいる。
ごく近いところで僕を求めている。
今の彼女は洋のものじゃない。ただの理央だ。
理央は白い手をそっと伸ばすと、僕の首筋に手をやった。ひんやりしている。外気で冷えたに違いない。こんなところにずっといるわけにいかない。
その冷たい腕は僕の首の後ろまで回され、彼女は腰を浮かせて、耳元に軽くキスした。少し震えていた。
動けなかった。抱き留めていることしか。あんなに好きだった女の子が腕の中にいるのに、僕を求めているのに、なんにも。
「洋くんが告白してくれた時、本当は奏くんじゃなくてすごくがっかりしたの。
でも洋くんは悪い人じゃないし、それに······やっぱりわたしには奏くんは手が届かないんだって。仕方ないんだって思って。高望みしたって仕方ないじゃない?
しかも友だちがわたしを好きだからって橋渡ししてくれる人になんの希望もないじゃない? だから諦めようと思ったの。そしたら奏くんの近くにもいられる。
洋くんはすごくやさしくて、わたしにとっても良くしてくれる。でもさ、洋くんはやっぱり奏くんじゃないんだよ。
聡子ちゃんと付き合うって聞いて、すごく悔しかったし、後悔した。後から出てきて持っていかれちゃう気がしたし、わたしは聡子ちゃんにはどうしても勝てないし」
抱きしめたままの姿勢で耳元に熱い吐息を感じる。そこから体中が熱を帯びて、おかしくなりそうだ。
前に好きだったとはいえ、洋の彼女だ。これ以上、一ミリも進んだらいけない。
なのに体はいつまでも言うことを聞かずにやわらかいその体を抱きしめていたいと、そう言った。
やわらかくて、石鹸の匂いのする、小さな彼女。力を入れたら壊れてしまいそうだ。
「聡子ちゃんがそんなに好き? やり直そうよ、毎日が変わったあの日から。わたしはそうしたいの。奏くんは、そうは思わない? わたしたち、両想いだってわかったんだもの、修正したい······」
白いペンキをぶちまけたら、ここ最近起こったすべてのことが変わるのかな?
掃除当番や、バスケットボール、あの子のために打ったスリーポイントシュートも。
全部なくなって、過去、理央が好きだった自分に戻るのか。悩ましい思いを抱えて、背を丸めて歩いていたあの頃に。
そろそろと理央は顔を上げると、首を少し傾けてそっと僕に近づいてきた。
立場は逆だけど、あの日の再現のように。
親友の恋人を盗ってしまおうかと思うほど好きだったのに、あの気持ちはどこに消えてしまったんだろう。
答えは本当はわかっていた。
この心の中に――。
「やめようよ。もう終わったんだよ」
僕は理央の両肩をそっと押した。ほんの少しの勇気が僕の心の奥の方から顔をのぞかせた。
理央は驚いた顔をしていた。信じられない、というように大きく目を見開いていた。
そして僕の手首を握ると、強引に自分のジャケットの内側に誘い込んだ。
セーターの内側になにがあるのか、知らないわけはなかった。そこにはささやかな膨らみがあるはずだ。
手を振り払おうとした。
こんなことをしていいはずがない。すべてが本当に崩れて、元通りにならなくなるから――。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
バスケ部の野村先輩
凪司工房
BL
バスケ部の特待生として入学した雪見岳斗。しかし故障もあり、なかなか実力も出せず、部でも浮いていた。そんな彼を何故か気にかけて、色々と世話をしてくれる憧れの先輩・野村。
これはそんな二人の不思議な関係を描いた青春小説。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
NBAを目指す日本人
らんしゅすてるべんしょん
青春
日本では、身長と身体能力による先天的な不利によりNBAの活躍は基本無理であろうと言われた世界へ、175センチしかないNBAでは圧倒的な低身長で活躍していく少年の物語りである。
《実在する人物の登場あり、架空の人物も存在する、性格などは本人とは少し違う可能性もあるため、イメージを崩されたくないかたはブラウザバックでお願いします》
※超不定期更新です。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる