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第32話 大人になれない
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大して身のある話をしたわけでもなく、駅前で僕たちは別れた。
危ないから送っていくと言ったのに、こういうのは親にバレないことが醍醐味だと彼女は言う。
「まるでロミオとジュリエットみたいだね」とハルは鼻の頭を赤くしてうれしそうに言った。それはロマンティックかもしれないけど、悲恋の話じゃないかと思うと、笑えなかった。
道行く人の絶えない駅前で、僕たちは見つめ合って両手を握って見つめ合う。これが年相応だ。手袋越しに体温は伝わらないけど、気持ちは繋がる。
ハルはなかなか手を離そうとせず「じゃあね」と歩き出した時には涙声だったように思えた。
「ハル!」と呼ぶと戻ってきて、身長差がまた広がったのか、ハルのおでこは僕の肩のところにぶつかった。身動きができない。
「ワガママばっかり言ってごめんね。でも、嫌いにならないで。わたしにはアキしかいないから」
それを言うと今度は振り返りも、手を振ることもせずに両手をコートのポケットに入れて歩いていった。
背中が小さくなるまで僕はそこに立って、彼女を見送った。
そのことがあってからグッとハルからの連絡は減って、予備校からの帰り道、電車の中の暇潰し程度にしかメッセージは届かなくなった。
心配する気持ちと、たぶん大丈夫なんだという気持ちが天秤に乗って、ゆらゆら揺れていた。
その天秤がピタリと止まる気配はなかった。
ハルの僕を呼ぶその声が、本当は少し怖かった。
どこにでも走って駆けつけられるほど、僕は大人の男じゃないことを自分でよく知っていたからだ。
そんなある日、母さんが深刻そうな顔をして、僕を呼んだ。二人分のコーヒーが用意されたテーブルに着いた。
母さんは疲れた顔をしていた。
なにか母さんに起こったのかと心配になる。
「ハルのことなんだけど」
僕は頷くこともせずに話の続きを待った。なにを言われるのか、見当もつかなかった。
「最近ほとんど家にいないって」
気まずい空気がよぎる。
母さんは僕の目をしっかり見て話した。
「なにか知らない?」
「⋯⋯この前の夜、出かけた時、ハルとファミレスで会った」
「ほかには?」
僕は首を振った。
僕といない時のハルをよく知らない。
そのことを深く考えたことはなかった。
僕たちは会えば気持ちが通じるような関係だったので、それ以外のことは知る必要はなかった。
「そう⋯⋯困ったわね。もうすぐ受験もあるのに」
思い悩む母さんはいつもと同じ人に見えなかった。年相応の人生経験を積んだ大人の顔をしていた。
それを見たら僕は黙っていられなくなり、思い切って口を開いた。
「スミレちゃんとオジサンは⋯⋯その、上手くいってないの?」
「ハルがそう言ったの?」
「⋯⋯そんなようなことを」
そう、と母さんは片肘をテーブルに乗せて頬杖をついた。
「ほかにはなにも聞いてない?」
「よくわからないけど、オジサンの仕事の話を聞いた。そのせいで二人の仲が悪くなったって」
ふう、と今度は相槌ではなくため息が漏れた。
「あんたたちが心配することじゃないのよ。これは大人の話だから、大人同士で話し合って解決するんだからね」
テーブルの向こうから白く細い腕が伸びてきて、その手は僕の頭を撫でた。子供の頃を思い出す。
この手に守られていれば安心だった頃のことを。
やがて十二月がやって来て、街路樹は丸裸になり、寒さは足元を上るようになって、ハルからの連絡は次第に疎らになった。
僕からメッセージを送ることもあったけど、簡単にやり取りをしてすぐに話は途切れた。
「逢いたい」という言葉を聞くこともなくなり、僕の世界からハルはどんどん遠のいていった。
「陽晶くん」
次の時間のテキストを用意して、考え事をしていたところに声をかけられた。
顔を上げると弥生さんだった。
剥き出しになった首筋が、やっぱり寒々しい。悲しい気持ちになる。彼女は三つ編みの時と変わらないと何度も言ったけれど、僕にはそう思えなかった。
「学校で話しかけたらダメかなって思ったんだけど、顔を見て話したくなって」
彼女は真っ直ぐな目で僕を見た。穏やかで落ち着いた声に安心する。
泣かせてしまった時のことを思い出して、申し訳なさが今になってまた込み上げる。
「あっちで話そうか」
弥生さんはベランダの方を向いた。
空気を吸うと肺が凍りそうな冷たさだった。
弥生さんは無意識に両手をさすっていた。指先が、ほんのり赤い。寒いのを我慢してるんだろう。
空は温度に反比例して、抜けるような青空だった。
「ごめんね、こんな寒いところで。だけど心配で」
「心配?」
「うん。気のせいなのかもしれないけど、陽晶くん、最近、元気ないから」
「ああ、うん。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
弥生さんはなにかを言いかけて、躊躇った。
そうして意を決したように口を開いた。
「すきな人のことで、なにかあったのかなって」
そうであって、そうじゃない気がした。
ハルをすきな気持ちは変わらないけど、どうしたらハルを受け止められるのかまったくわからなくなっていた。
考えてみれば、いつも求めてくるのはハルで、それがするりと腕の中から抜け出すように遠のいていったことに僕は上手く適応できずにいた。
ハルだけが世界だと思っていた。
けど今、彼女は遠い。取り戻そうにも手が届きそうにない。
僕は傍観者になっていた。
「情けないんだけど、彼女のためになにもできなくて」
「⋯⋯その子の悩みごと?」
「そう。僕にはどうにもしてあげられないんだ」
たぶん、という言葉は飲み込んでしまった。
要するに僕は勇気がなくて、一歩踏み込めずにいた。
「話は聞いてあげたの?」
「うん。でもどうしてあげたらいいのか、まったくわからない」
情けない姿だな、と思う。
弥生さんも見ていてガッカリするだろう。あまりの情けなさに。
彼女は俯いて、しばらく黙っていた。
授業が始まりそうな気配がする。みんなが席に着こうとイスを引く音がする。
「聞いてもわからないかもしれない。でも、同じ女の子の気持ちなら、もしかしたら陽晶くんよりわかることもあると思う。そんなに悩んでたら陽晶くんにも良くないよ。わたしで良ければいつでも聞くよ」
じゃあね、と慌てて弥生さんは席に戻って行った。
僕も立ち上がって、ノロノロと席に戻る。
女の子は大人だな、とまた思う。
だってそうだろう? 他人の心配をすることができるんだから。
ハルと弥生さんは言わばライバルなのに、弥生さんはハルのことで相談に乗ってもいいと言った。そこに損得感情は見られなかったし、彼女はそういう人ではないと、最近はよくわかってきた。
僕と話してたことを指摘されたのかもしれない。同じグループの子になにか言われて、弥生さんは否定するように手を振っていた。
「そんなんじゃないって」――そう言う声が、すぐそばで聞こえた気がした。
勉強に集中できない。
ここのところ、ずっとそうだ。
数式が並ぶテキストを見ていると、すべて同じ文字で構成されているような奇妙な感覚に陥る。
そうなると、どの問題も意味をなくして、テキストのページに貼り付いているなにかでしかならなくなる。
テキストと、ノートも閉じる。意味が無い。
ほんの、きっかけさえあれば勇気が出せるのに。
僕は結局、逃げている。
僕には抱えきれない問題を持つハルから。
ハルの役に立つことができると思っていたなんて、なんて思い上がりだったんだろう?
久しぶりにまとまった雨が降っている。屋根を雨が叩く。ハルは傘を持っているんだろうか?
オレンジ色の、ハルの傘が揺れている。街明かりの届かない狭間でも、その傘はぼんやり発光する。
ハルと繋いだ手のその大きさを思い出す。今日も帰っていないんだろうか? あの、スミレちゃんの手で手入れされた清潔な家に。
どこに行っているんだろう?
――訊けばいいのに。
僕の中の僕が囁く。わかってるけど、簡単にできない。
自分がどれくらい子供なのか、嫌という程思い知らされる。
危ないから送っていくと言ったのに、こういうのは親にバレないことが醍醐味だと彼女は言う。
「まるでロミオとジュリエットみたいだね」とハルは鼻の頭を赤くしてうれしそうに言った。それはロマンティックかもしれないけど、悲恋の話じゃないかと思うと、笑えなかった。
道行く人の絶えない駅前で、僕たちは見つめ合って両手を握って見つめ合う。これが年相応だ。手袋越しに体温は伝わらないけど、気持ちは繋がる。
ハルはなかなか手を離そうとせず「じゃあね」と歩き出した時には涙声だったように思えた。
「ハル!」と呼ぶと戻ってきて、身長差がまた広がったのか、ハルのおでこは僕の肩のところにぶつかった。身動きができない。
「ワガママばっかり言ってごめんね。でも、嫌いにならないで。わたしにはアキしかいないから」
それを言うと今度は振り返りも、手を振ることもせずに両手をコートのポケットに入れて歩いていった。
背中が小さくなるまで僕はそこに立って、彼女を見送った。
そのことがあってからグッとハルからの連絡は減って、予備校からの帰り道、電車の中の暇潰し程度にしかメッセージは届かなくなった。
心配する気持ちと、たぶん大丈夫なんだという気持ちが天秤に乗って、ゆらゆら揺れていた。
その天秤がピタリと止まる気配はなかった。
ハルの僕を呼ぶその声が、本当は少し怖かった。
どこにでも走って駆けつけられるほど、僕は大人の男じゃないことを自分でよく知っていたからだ。
そんなある日、母さんが深刻そうな顔をして、僕を呼んだ。二人分のコーヒーが用意されたテーブルに着いた。
母さんは疲れた顔をしていた。
なにか母さんに起こったのかと心配になる。
「ハルのことなんだけど」
僕は頷くこともせずに話の続きを待った。なにを言われるのか、見当もつかなかった。
「最近ほとんど家にいないって」
気まずい空気がよぎる。
母さんは僕の目をしっかり見て話した。
「なにか知らない?」
「⋯⋯この前の夜、出かけた時、ハルとファミレスで会った」
「ほかには?」
僕は首を振った。
僕といない時のハルをよく知らない。
そのことを深く考えたことはなかった。
僕たちは会えば気持ちが通じるような関係だったので、それ以外のことは知る必要はなかった。
「そう⋯⋯困ったわね。もうすぐ受験もあるのに」
思い悩む母さんはいつもと同じ人に見えなかった。年相応の人生経験を積んだ大人の顔をしていた。
それを見たら僕は黙っていられなくなり、思い切って口を開いた。
「スミレちゃんとオジサンは⋯⋯その、上手くいってないの?」
「ハルがそう言ったの?」
「⋯⋯そんなようなことを」
そう、と母さんは片肘をテーブルに乗せて頬杖をついた。
「ほかにはなにも聞いてない?」
「よくわからないけど、オジサンの仕事の話を聞いた。そのせいで二人の仲が悪くなったって」
ふう、と今度は相槌ではなくため息が漏れた。
「あんたたちが心配することじゃないのよ。これは大人の話だから、大人同士で話し合って解決するんだからね」
テーブルの向こうから白く細い腕が伸びてきて、その手は僕の頭を撫でた。子供の頃を思い出す。
この手に守られていれば安心だった頃のことを。
やがて十二月がやって来て、街路樹は丸裸になり、寒さは足元を上るようになって、ハルからの連絡は次第に疎らになった。
僕からメッセージを送ることもあったけど、簡単にやり取りをしてすぐに話は途切れた。
「逢いたい」という言葉を聞くこともなくなり、僕の世界からハルはどんどん遠のいていった。
「陽晶くん」
次の時間のテキストを用意して、考え事をしていたところに声をかけられた。
顔を上げると弥生さんだった。
剥き出しになった首筋が、やっぱり寒々しい。悲しい気持ちになる。彼女は三つ編みの時と変わらないと何度も言ったけれど、僕にはそう思えなかった。
「学校で話しかけたらダメかなって思ったんだけど、顔を見て話したくなって」
彼女は真っ直ぐな目で僕を見た。穏やかで落ち着いた声に安心する。
泣かせてしまった時のことを思い出して、申し訳なさが今になってまた込み上げる。
「あっちで話そうか」
弥生さんはベランダの方を向いた。
空気を吸うと肺が凍りそうな冷たさだった。
弥生さんは無意識に両手をさすっていた。指先が、ほんのり赤い。寒いのを我慢してるんだろう。
空は温度に反比例して、抜けるような青空だった。
「ごめんね、こんな寒いところで。だけど心配で」
「心配?」
「うん。気のせいなのかもしれないけど、陽晶くん、最近、元気ないから」
「ああ、うん。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
弥生さんはなにかを言いかけて、躊躇った。
そうして意を決したように口を開いた。
「すきな人のことで、なにかあったのかなって」
そうであって、そうじゃない気がした。
ハルをすきな気持ちは変わらないけど、どうしたらハルを受け止められるのかまったくわからなくなっていた。
考えてみれば、いつも求めてくるのはハルで、それがするりと腕の中から抜け出すように遠のいていったことに僕は上手く適応できずにいた。
ハルだけが世界だと思っていた。
けど今、彼女は遠い。取り戻そうにも手が届きそうにない。
僕は傍観者になっていた。
「情けないんだけど、彼女のためになにもできなくて」
「⋯⋯その子の悩みごと?」
「そう。僕にはどうにもしてあげられないんだ」
たぶん、という言葉は飲み込んでしまった。
要するに僕は勇気がなくて、一歩踏み込めずにいた。
「話は聞いてあげたの?」
「うん。でもどうしてあげたらいいのか、まったくわからない」
情けない姿だな、と思う。
弥生さんも見ていてガッカリするだろう。あまりの情けなさに。
彼女は俯いて、しばらく黙っていた。
授業が始まりそうな気配がする。みんなが席に着こうとイスを引く音がする。
「聞いてもわからないかもしれない。でも、同じ女の子の気持ちなら、もしかしたら陽晶くんよりわかることもあると思う。そんなに悩んでたら陽晶くんにも良くないよ。わたしで良ければいつでも聞くよ」
じゃあね、と慌てて弥生さんは席に戻って行った。
僕も立ち上がって、ノロノロと席に戻る。
女の子は大人だな、とまた思う。
だってそうだろう? 他人の心配をすることができるんだから。
ハルと弥生さんは言わばライバルなのに、弥生さんはハルのことで相談に乗ってもいいと言った。そこに損得感情は見られなかったし、彼女はそういう人ではないと、最近はよくわかってきた。
僕と話してたことを指摘されたのかもしれない。同じグループの子になにか言われて、弥生さんは否定するように手を振っていた。
「そんなんじゃないって」――そう言う声が、すぐそばで聞こえた気がした。
勉強に集中できない。
ここのところ、ずっとそうだ。
数式が並ぶテキストを見ていると、すべて同じ文字で構成されているような奇妙な感覚に陥る。
そうなると、どの問題も意味をなくして、テキストのページに貼り付いているなにかでしかならなくなる。
テキストと、ノートも閉じる。意味が無い。
ほんの、きっかけさえあれば勇気が出せるのに。
僕は結局、逃げている。
僕には抱えきれない問題を持つハルから。
ハルの役に立つことができると思っていたなんて、なんて思い上がりだったんだろう?
久しぶりにまとまった雨が降っている。屋根を雨が叩く。ハルは傘を持っているんだろうか?
オレンジ色の、ハルの傘が揺れている。街明かりの届かない狭間でも、その傘はぼんやり発光する。
ハルと繋いだ手のその大きさを思い出す。今日も帰っていないんだろうか? あの、スミレちゃんの手で手入れされた清潔な家に。
どこに行っているんだろう?
――訊けばいいのに。
僕の中の僕が囁く。わかってるけど、簡単にできない。
自分がどれくらい子供なのか、嫌という程思い知らされる。
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