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第31話 フィクション

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 朝の空気はしんとして、透明なアクリルの中に埋められたようなそんな幻覚を覚える。
 玄関を出るには勇気がいる。
「いってきます」と言うと母さんは「カイロ持ったの?」と聞いてくる。日常。
 スミレちゃんからのプレゼントはダークグリーンの布に銀杏の葉の刺繍が刺されたクッションだった。あの家にあるクッションとは違う素材で、もう少しやわらかくて暖かい布地だった。フランネルじゃない、と母さんが言う。⋯⋯ハルと同じ匂いがした。
 母さんからもらったのは電気ブランケットで、母さんが言うには発売したばかりのもので、USBで充電できて軽くて温かいらしい。受験生なら勉強の時に風邪をひいてはいけないと、新しもののすきな母さんがどこかで見つけてきた。
 二人が選んできたものの違いが、僕が持つそれぞれとの距離を表しているように思えた。
 どんなに頼ってもスミレちゃんはお母さんではなくて、僕の母さんはやっぱりこの人なんだと思う。
 母さんは確かに変わったところもあるけど、暖かいことに変わりはない。唯一無二の存在だ。
 たった二キロに満たない距離を、雨が降る度に送り迎えしてくれるのは母さんくらいだ。母さんの愛情は、僕を雨から守ってくれる。

 空気が乾いている。
 当分、雨は降らないだろう。
 青い空がそれを教えてくれる。

 学校に着くと下駄箱の上履きの上に、白い封筒のようなものが置かれていた。パッと見た感じでは、宛名も差出人も書かれていなかった。
 誰にも見つからないように、カバンの中に慌てて入れた。
 佐野が後ろから被さるように肩に手を回してくる。相変わらずパーソナルスペースについて考えたことがないらしい。ドンという衝撃に転びそうになる。
「見た。ラブレターって古風じゃん。誰からだった?」
「知らないよ」
「いいよなぁ、モテるやつは。俺も頭が良かったら少しはモテたかなぁ」
 嫌味なのかよくわからないのが、厄介なところだ。表裏はない、いいやつだけど。
「そう言えば、誕生日おめでとう」
「なんで覚えてるの? 気持ち悪いよ」
「だってさ、一、一、二、三で勤労感謝の日だろう? 結構ウケるし忘れられない」
 そう笑う友人の誕生日を僕は思い出せなかった。たぶん夏頃だ。夏休みだから誰にもプレゼントもらえない、と大きな声で話してた気がする。
 悪いヤツじゃない。
 どちらかと言えばいい友だちだ。

 教室に着いてこっそり封筒を開いてみると、そこには青い袋に納められた学業成就のお守りが入っていた。
 心当たりはそこにしかなかったので、僕はその髪の短い女の子を探した。教壇を囲んで、友だちと楽しそうに話している。
 さっきまで冷たい空気に晒されていたせいか、頬が赤い。林檎のようだ。
 ふと目が合う。
 僕は声に出さず「ありがとう」と言った。
 彼女の驚きは顔に表れた。赤い頬が、いっそう赤く染った。彼女は下を向いてしまった。
 ハル以外の女の子にプレゼントをもらうのは初めてだ。
 女友だち、という位置づけなんだけど、なんだかこそばゆかった。そういう距離感ではないような気がして、僕も赤くなる。
 少しずつ、距離が近くなっている気がする。
 ハルに比べたらまだまだ遠いし、二人はたぶん、同じ直線上にいないんだろう。
 けど弥生さんは気が付くとそっとそばにいる、そういう存在になっていた。

 ――逢いたいな。
 ハルからのメッセージが来たのは僕がオジサンからもらった写真集を一頁ずつ眺めていた時で、写真の中の砂に埋もれた寺院に風が吹いたような、錯覚をおぼえる。その砂粒は僕の目の中に入って前が見えなくなる。
 弥生さんにメッセージを入れて、今日はここまでという旨のメッセージを送る。
 弥生さんは僕が勉強をしていると思っていたようで『陽晶くん、がんばってね』と、笑顔マークの絵文字を使って返事をくれた。
 付き合ってるわけでは相変わらずないけど、僕たちは僕たちにとって居心地のいい距離感を手に入れた。学校では話さない。プライベートでならすきな話をすきなだけできる。
 僕と弥生さんの共通の話題は学校のことが中心。たわいもないその日の出来事を話すことが多い。
 会話は緩やかで、僕はそのスピードに少しずつ馴染んでいった。
 
 スマホを手に、ベッドに腰掛ける。
 ミシッとベッドが僕の重さに反論して、それを無視してスマホの指紋認証をする。親指で軽く触れると、ディスプレイが生き返った。
『勉強の邪魔だった?』
『ううん。ハルこそ受験まで時間が無いじゃん』
『あー、アキにまでそんなこと言われたくないなぁ』 
 要するに、勉強はしたくない状況なわけだ。
 飽きたのか、もしくは。
『ねぇ、今度数学の二年生のとこ、教えてよ』
『いいけど、ハル、できるでしょう、ひとりでも』
 既読がついたのに、なかなか返事が来ない。
 そんなに怒らせることを言ったかな、と考える。
 根深く怒るようなタイプではないはずなので、気になる。
 返事は来ない。
 スミレちゃんにでも呼ばれたとか?
『今、この前のファミレスに向かってる。来なくてもいいよ』
 は? そんなのアリかよ。僕は写真集を机の上に広げたまま、急いで服を着替える。
 寒くない格好なんて存在しない。しっかりマフラーを巻く。
 母さんに引き止められる。予想の範囲内。友だちに貸したノートをどうしても返してもらわなくちゃいけないと、大嘘をつく。
 母さんはやっぱり心配して「やっぱりオシャレなマフラーもいいけど、ネックウォーマー買おうね」と僕の上着のポケットにカイロを入れた。
 駅から電車で行こうか迷う。夏ならいいけど、今は真冬だ。空気は乾いて凍っている。
 考えた末に電車に乗る。二駅だ。改札を抜ける。

 店に着くとハルはなんでもない顔をしてひとりで魚介のトマトソースパスタを食べていた。カップにはココア。いつも通りだ。
 駅からすぐだったので、ここまで走ってきた。
 仕方がない、約束だ。いつでも会いに来る約束。
「なかなかいいタイム」
「電車で来たから」
 ハルの表情がピタリと止まり、次の瞬間、笑い出した。一体、なにがそんなにおかしいのかさっぱりわからない。
「そっか、電車かぁ。寒いもんね、当然そうだよね」
「電車はダメだった?」
「ダメじゃないけどさ、ほら、乙女の妄想としては、すきな人が自分のために自転車を走らせるってロマンティックじゃない?」
「申し訳ないけど凍ったらここにたどり着けないよ」
 ハルは笑って、注文用のタブレットを取ってくれた。受け取って画面をスライドする。なにか軽いものを。
 母さんには「ちょっと出てくる」と言ってきた以上、夕飯は家で食べないわけにいかない。第一、ひとりで食べられるような人じゃないし。
 迷った末にフレンチトーストを頼む。ご飯とおやつの真ん中。まぁなんとかなるだろう。
 ドリンクにはココア。甘い香りが広がる。冷えた体に染み込む温かさ。

「逢いたいなって言ったのに、受験勉強の話なんかするんだもん」
 そこに問題があったのか、と知ると、ぐわーっと疲労感を感じた。こっちは全力で来たのに、そんな理由ですぐに会いに来いと言われても、息が切れる。
「なにか問題があったのかと思うじゃん」
「別に。寂しかっただけ。まぁ、いつもだけど、そんなに毎回呼び出したら悪いし」
「スミレちゃんにはなんて言ってきたの?」
「お友だちとご飯の約束しちゃったって言ったら、気をつけて行きなさいってお金くれたの。好きな物、たくさん食べていいよ」
 うちはそんなわけにはいかないから、とボソボソ言うと、アキも大変だよねと返ってきた。
 スミレちゃんが暗くなってからハルを外に出したのは意外だった。暗くなってひとりになるのを心配して、ずっと帰りの早いパートをしてきたのに、そんなに簡単に変わるものかな、と思った。

「ママ、疲れてるから。なんでもいいんだよ」
 僕の心を読んだのか、ハルはそう言って、フォークに器用にパスタを巻いた。
 今日は髪にリボンはない。普通のセーターにデニムで、特にオシャレをしてきたという感じもなかった。急いで家を出たのかもしれない。
 ハルが言うほど、すんなりと出かけられたわけじゃなかったのかも、と思う。
 運ばれてきたフレンチトーストはこの上なく甘く、ココアとは到底合わない代物だった。
「やっちゃったねー」
 笑うハルを残して、アイスティーを取りに行く。ハルはいつまでも意地悪く笑っている。なにを考えているのか、イマイチ読めない。
 ドリンクバーから見る十五のハルの背中はやっぱり小さくて、ひとりにしておくには心細い。ハルを守る壁になるのは僕しかいない。
 意地っ張りのハルはなかなか誰かに頼ったりしないからだ。

 アイスティーのグラスを持って座ろうとすると、ハルが「ほんとはね」と語り出した。
 向かいの席に再び座って、話を聞く姿勢になる。
「今日はパパが早く帰ってくることになってるの。でもまた絶対暗くなるもん。あの部屋の空気を吸ったら息苦しくなる。ママだってわかってて、わたしを外に出したんだよ――」
 ハルは少し寂しそうに笑った。
 父さんがいて、母さんがいる。そういう状況で息が詰まることは僕には一度もなかった。でもハルはその、一度も僕が経験したことのない環境に置かれているのかと思うと、正直、同情はできても想像ができなかった。
 共感して話を聞いてあげられたらいいのに、本当の意味での共感は難しかった。
 僕にとって『家庭不和』というのはフィクションの世界だったからだ。


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