インディアン・サマー

月波結

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第29話 遠いところへ

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 早くハルに会わなくちゃ、と思っているうちに勤労感謝の日がやって来た。
 言い訳を並べなくてもハルに会える。この日に僕を産んでくれた母さんに感謝だ。
 僕が「エビフライが食べたい」と言ったので、母さんはエビフライとカニクリームコロッケを作ることにした。
 僕がいつも手伝わされるのはエビの下処理。脚をもいで、殻を剥がす。頭を外して、背わたを取る。背わた取りはめんどくさいがもう慣れた。それから体に切れ目を入れてやって、まな板の上で一匹ずつ真っ直ぐに伸ばしてやる。そうすると揚げてもくるんと丸まらない。
 普通、よその男子がこんなことをやるのか僕は知らない。たぶん、やらない。
 でもエビフライが好きなので、仕方なくやらせていただく。
 母さんは隣でクリームコロッケの中身を苦戦して作っている。を作るんだと意気込んでいた。クリームコロッケを美味しく作るのは、洋食でもなかなか難しいらしい。詳しくはわからないけど。
 あのネチョネチョしたものがトロッとしたコロッケにちゃんとなるのか、不思議に思う。
 でもあまり見ていると手伝わされるので、口を挟まない。

 ドアチャイムが明るく響いてハルの到来を告げる。
「アンタが出なさいよ。母さん、手がこんなだもん」と料理中の真っ白な手を見せられて慌ててドアを開けに行く。
 この先にハルが待ってる。
「お誕生日おめでとう、アキ。これ、サクラさんから頼まれた買い物」
 重そうなエコバッグを渡されてギョッとする。
「母さん!」
 思わず大きな声が出た。母さんと来たら、なぁにぃ、なんて暢気な答えをする。ハルにこんなに重いものを持ってこさせる母さんのその神経が信じられない。
「重かったでしょう? ごめんね」
「これくらい大丈夫だよ」
 ずっしり重いエコバッグには大きなペットボトルが二本、入っていた。僕が自転車でちょっと行けば済むことなのに、まったく。
「おじゃましまーす」
 スエードの茶色いブーツの端にはファーが付いていて、暖かそうだ。玄関を上がるとハルはマフラーを外し始めた。
「なに?」
「いや、なにも」
「脱ぐの見たいの?」
「そんなこと言ってないよ」
「コート脱ぐとこみたいだなんて、どんなフェチよ」
 手伝うよ、と大きな声でハルは言って、僕にコートを預けた。その後ろ姿を見ると、今日も青いリボンが着いていた。ひらり、揺れる。

 三人のパーティーはなかなかいい感じに和やかだった。
 まるで三人家族になったみたいに僕たちは笑った。
 三人を混ぜて大鍋でドロドロに煮込んだら、美味しいシチューができるに違いない。
 ハルはやっぱり母さんと気が合って、食後のトランプはただのババ抜きなのに大盛り上がりで、みんな腹を抱えて声の大きさも気にせず笑った。
 煩わしいことはなにひとつなく、ただただ楽しかった。

「そうだ、ハル、ちょっといい?」
 ハルは疑問符のついた顔で僕を見た。
 僕は人差し指で二階を示した。
 ハルを送っていくために今日はノンアルコールのはずの母さんが「部屋に連れ込むの? 十四になったばっかりのくせにやらしい」と僕たちを冷やかした。
 確かに十三は流石に小学校の延長みたいな数字で、十四になると、おかしな話だけど、ようやく立派な思春期の一員になった気がした。
 階段を前後して上る途中、ハルが突然振り向いた。不思議に思いながら振り返り「なに?」と言おうとしたその瞬間、上の段にいたハルは僕のおでこにキスをした。
 ――キスだ。
 この前、予告のようなものはあったけど、そんなことが本当に存在するとは。
 またしても鼓動が激しい。
 足元から恥ずかしさがこみ上げてきて、どうしたらいいのかわからない。
 ハルは僕の乱れた前髪を直した。その時にハルが前髪を上にあげたからだ。
「⋯⋯ありがとう」
 この言葉が合っている自信はなかった。でも彼女は自慢げに微笑んで「誕生日だからね」と告げた。
 僕は更に自分の前髪に手をやった。そこにあのマショマロのような感触が残っている気がした。
「リップつけてるけど、ガサガサだった?」
 首を横に振る。
「良かった。毎日気をつけてたんだ」
 そう言う瞳がやさしくて、このままなし崩し的に溶けてしまいそうになる。
 行こう、とハルはまた階段を上り始めた。僕はまだポーっとしたまま、リボンを見ていた。

「部屋に誘われるなんて思わなかったなぁ」
 許可を取ることもなく、彼女は当たり前のようにベッドに腰を下ろした。ニットのワンピースにカーディガンを羽織った彼女は、いつもより大人に見えた。
 さっきまで気が付かなかったけど、体の線が生々しい。巨乳だとか微乳だとかそんなことはどうでも良くて、そこに僕にはないものがあることは確かだった。
 見ちゃいけないと思いつつ、目が行ってしまう。女の子には胸がある。避けられない。
「どうしたの?」
 声をかけられてハッとする。
 机の一番上の引き出しに入れておいた封筒を取り出す。はい、と両手でハルに渡す。
「なにこれ?」
「この間のファミレスの」
 ああ、とつまらなさそうに呟いて、ハルは封筒の中身を検分した。僕が入れておいたレシートの裏には、五千円からハルが食べた分の引き算をした式と数字が書かれていた。
 ハルは面白くなさそうに、封筒ごと僕に渡してきた。
「困るよ。こういうのは個別じゃないと」
「うるさいな、年上だから奢ってもいいじゃん」 
「全然良くないよ、ちゃんと持って帰ってよ」 
「誕プレよ、誕プレ」
 誕プレはもうもらっていた。ハルの使っているパスケースと同じもので色違いだった。
 頑なに封筒を拒むハルにちょっとムッとする。
「年上ぶらないでよ」
 瞬間、ハルはパッと目を見開き、封筒を持ったままの僕の手を強く引いた。封筒は破け、硬貨はあちこちに散らばる音を立てる。
 僕はバランスを失って――。
「他人行儀にしないでよ。寂しいよ」
 今度は倒れたりしなかった。爪先に力を入れて、踏みとどまった。
 代わりにハルの隣に腰を下ろして、ハルの話を聞くことにした。そう、約束通りに。

 本心を言うと、どうしたらいいのか全然わからなかった。なにしろ十四歳デビューの日だ。
 でも考えがまとまらないうちに、この前のようにハルがもたれてきた。ゆっくり、肩に手を回してみる。壊さないように。
 ハルがなにかしらの感情を抑えているのは確かだった。『秘密』がある。それがいろんなことに弊害を与えている。
 毎日リップを塗っていると言っていた唇は乾燥して見えた。食事をして、リップが落ちたのかもしれない。
 本当は僕より小さいハルはいつも虚勢を張っているだけで、ここにいるハルが実物大だった。
「アキ、あったかい」
 エアコンは消えていた。
 どちらかと言うと日が沈んで、夜が空気を凍らせようと企んでいる時間だ。
 体温だけが、お互いを温めていた。

 ――あのさ。

 小さな声で語り出すハルの姿に、幼い頃、ちょっと迷子になるとすぐに泣いた姿が重なった。
 今は僕の手を引いてくれるけど、あの頃、僕はハルがひとりでどこかに行かないように、いつでも手を引いていたんだ。
「あのさ。パパとママ、ダメなの」
 言われたことが抽象的すぎてよくわからない。なるべく話を聞いてあげたいと思っていたけど、考えていた以上に状況は深刻そうだった。
「パパ、仕事が長続きしなくて転職を繰り返してたの。それでもママが支えてきてたの。デザイナーなんて、思い通りにいかないことばかりだともっと自分にとって都合のいい会社に移りたくなるものなんだって、ママは言ってて」
 ハルのパパはデザイン会社に勤めていた。詳しいことは知らないけど、元々は写真専攻で、いつか撮りたいものを撮るようになりたいというのが口癖だった。
 会った回数はそれほど多くない。仕事が忙しいんだと聞いていた。
 でも幼かった僕に、一眼レフのカメラの使い方を教えてくれたのはハルのパパだ。真面目で、理想を求める人特有の、少し鋭い目をしていた。でも他人に厳しいひとではなかったと思う。
 どちらかと言うと寡黙で、ナーバスなところを持つセンシティブな人に見えた。

「パパはもう我慢ができないって言うの。小さな会社の広告を作ったり、そういう小さい仕事の中にも自分の意見は入らない。思うようなものは作らせてもらえないって」
 大人の話だった。
 仕事というのは、僕から見たら漠然としているけど、自分の思い通りになることは少ないんだろう。
 父さんは普通にサラリーマンで中間管理職になってからは帰る時間もままならない。ましてや経理の仕事なんて自分の思い通りになるものなんてひとつもないだろう。
 そこが、普通の会社員と美術家の違いなのかもしれないけど。
「それで、パパは友だちと起業するって言い出したみたいなの。でも少ないお金をみんなで持ち寄った会社でなにができるの、ってママが」
 スミレちゃんが声を上げるなんて。
 いつもの様子からは想像できない。
 僕の前ではいつだって冷静で理知的なのに。昔から、小さい頃からずっとそうだ。
 時としてはみ出しそうになる母さんを収めてくれるのはスミレちゃんの役目だった。
「わたしだって我慢できないって。ママはそう言ったんだよ」

 僕に言えることはなかった。
 無責任なことは言えなかった。
 これは大人の話で、僕たちは震えて見ているしかない子供たちだから。事の成り行きを見守ることしかできない。
 でも、それは酷く辛いことに違いない。
 ハルの気持ちが体温と共に少しずつ流れ込む。僕までアンバランスな気持ちになる。大海原で揺れる船を思う。今のハルの心は、大いに揺れている。
 肩に回していた手をハルの小さな頭に。間違えちゃいけない。ゆっくり、少しでも間違いがあったらいけない。
 空いている方の手で、ハルの小さな手を包み込む。強く握るわけじゃない。
 目の前に、あのレンゲ畑を思い出す。あの頃の、ハルをすきだった気持ちを思い出す。
 そして僕は彼女に告げた。
「ハル、どんなことがあっても僕はそばにいるよ。頼りないかもしれないけど、僕はハルを愛してるよ」
 刹那、沈黙がよぎった。
 その後、ハルは嗚咽を漏らした。大人の女の人のように、声に出したりせず、僕の手を強く握って。
 ハルは頼もしいお姉さん分ではなかった。
 普通の、脆いところのある女の子だった。
 今はもうあのレンゲ畑から遠いところに来てしまって、僕たちはほんの中学生なのに気が付いたらずいぶん離れたところを歩いていた。
 同じように転がって育てられた僕たちは、今はまったく別々の人間に育っていた。
 ずっとそれに気付かなかったのか、それとも気付かないふりをしていたのか、それを考えながら震える小さな体を支えていた――。
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