インディアン・サマー

月波結

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第28話 トーク画面の上の方

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 五千円札を置いていったのは、あれはハル流の嫌がらせだ。どうしたってお釣りを返すために会わなければいけなくなる。
 そんなことをしなくてもどうせ会うのに。口実が必要な僕たちではない。

 僕はココアを飲み干したカップを脇によけて、カプチーノを持ってきた。
 ガトーショコラを食べるには、ココアは甘すぎた。口直しにカプチーノを飲む。
 本当はココアよりコーヒーが好きな僕。
 ハルのことを欺いていることになるんだろうか?
 ずっと一緒にココアを飲み続けることが、ハルの望みなんだろうか?
 僕はいつココアを卒業したんだろう。気が付くと、母さんとコーヒーを飲んでいた。それは自然な流れだった。
 ぶっ飛ばされるのかもしれない。

 五千円札は使わないまま精算をして、またひとり、自転車を走らせる。
 ハルの気持ちが掴めなくなっている。どんどん遠ざかっている気がする。
 約束?
 そんなものが僕たちの間に必要だっただろうか? いつだって離れずにいたのに。
 母さんとスミレちゃんが仲違いでもしない限り、僕たちが離れることはないし、僕はいつでもハルが好きだった。
 ハル以上の女の子はいなかった。
 浮つくとか、浮つかないとかそういう問題じゃなく、僕の心の玉座にはいつでもハルがいた。金色に輝く王冠を頭に乗せて。
 特別じゃないとしたら、これはなんだと言うんだろう?

 秋が散っていく。
 銀杏並木の足元には小鳥の形をした黄色い枯葉がぼんやり発光するように積もっている。
 じっと、いずれ腐っていくのを待ちながら。

 翌朝は僕から声をかけた。
 もちろん少しの勇気が必要だった。
 でも、髪をバッサリ切った彼女の気持ちを知りたかった。なぜだかわからないけど。
 義務感や責任感のせいかもしれない。
「おはよう。⋯⋯その、首元寒くない?」
「おはよう。三つ編みの時と変わらないよ、やだなぁ」
 菊池さんは襟元にピンク地のマフラーを巻いて、無邪気に笑った。
 言われてみればそうだ。髪を結んだ女の子の首元は、みんな無防備だ。――ハルの赤いマフラーを思い出す。暖かそうなマフラーの下に、傷つきやすい部分が隠されている。きっと、それが女の子なんだ。
「本当のこと言うと」
「うん」
「小石川くんから声をかけてもらえてうれしい。もう嫌われちゃったかと思ってたから」
「あ⋯⋯嫌ってなんてないよ。僕も女の子に慣れてないから、やさしくできなくてごめん」
 菊池さんは黙ってしまった。
 僕の軽はずみな態度が気に入らなかったのかもしれない。
 二人並んで歩いてること自体、迷惑かもしれない。つまり、慣れないことをしてしくじったんだ。
「あのね、⋯⋯これから友だちでもいいですか?」
 彼女は俯いてしまって、その顔は全然見えない。けどその気持ちはなぜか以前とは違って、とてもよく伝わってきた。
「うん、とりあえず友だちなら」
「よかった」
 彼女はこれまででいちばん極上の笑顔を見せた。
 そうして僕と目が合うと、ハッとして、また目を伏せてしまう。女の子の表情はころころ変わる。
 目の前で徐々に色を変える木の葉のように、僕の心は少しだけ彼女寄りになった。近づいてみると、知ろうとしてみると、女の子は女の子で、特に怖いところなんてなかった。

 そのせいで大いに反省することになる。
 隣りでなにも言わずに歩く色白のショートカットの女の子に、なにをどう償ったらいいのかわからない。
 とにかく今まで、突っぱねることしかしてこなかったし、彼女の声を聞くつもりなんて一度もなかったから。
「あのね、悪いんだけど先に教室、行くね。ほら、またなにか言われちゃうから。例えばちえみちゃんとか」
 ああ、そうだ。当事者同士はともかく、外野が黙ってるわけがない。
 教室に行くのが少し憂鬱になる。
「大丈夫、上手くかわすから。小石川くんのところまで話が飛ばないようにするよ」
「⋯⋯名前で呼んでもいいよ」
「ほんとに?」
「嫌じゃなければ」
「じゃあ⋯⋯陽晶くん?」
「アキでもいいよ。家族の中では僕はアキなんだ」
 彼女は少し思案顔になった。
 僕は彼女の次の言葉を待った。
「じゃあ、よかったら陽晶くんて呼ばせて? 特別感あるから。わたしの名前は知らないかもしれないけど『弥生』なの。もしよかったら⋯⋯」
 弥生は三月、つまり春だ。
 なんだか取り返しのつかないことをしたような気がする。
「いきなりは恥ずかしいから、ちょっと変かもしれないけど段階を踏んでいい?」
「もちろん。友だちになれただけで特別だもの」

 これが厄介事を起こす引き金になるとは、この時、思わずにいた。

 彼女は控え目に、一日に一度くらいの割合で僕を「陽晶くん」と呼んだ。
 耳がこそばゆかった。
 僕を名前でそう呼ぶのは父さんくらいで、みんなは「小石川」とか「アキ」と呼んだから。 
 耳の奥にするりと滑り込む彼女の、その囁きのような声は僕には新鮮でしかなかった。
 僕はそのお返しのように「弥生さん」と呼んだ。
 はじめ、弥生さんはこの上なくお腹を抱えて笑ったけれど、涙目になりながら「すごくうれしい」と言った。彼女もまた『弥生さん』と呼ばれることが珍しかったようだ。
 僕たちは名前を呼び合う度に、少しずつ、心の距離が縮まるのを、たぶんお互いに感じていた。
 そして学校にいない時でさえ、メッセージの交換をするようになるのにそれほど時間はかからなかった。
 僕のスマホのトーク画面の上部には、いつも『弥生さん』がいるようになった。
 なにか重要な話題があったわけじゃなかったけど、毎日同じ教室にいる分、話題はいくらでもあった。
 特に数学の問題の解き方なんかは、スクショして送ってあげることが多かった。
 彼女はお返しに、と丹念にまとめた国語のノートのスクショを送ってくれた。彼女もまた国語が得意な女の子だった。

 僕たちのことは次第に少しずつクラスで知られるようになり、守口ちえみは「名前で呼び合うなんて、いやらしい」とわざと教室中に聞こえる声で言った。
 みんなが僕と弥生さんをチラチラ交代して見た。
 背中にみんなの目が張り付いてしまったような、そんな気分だった。
 でもこれは自分で蒔いた種だし、その芽はいつか顔を出すものだ。なにも言わず、甘んじてその視線を受けた。
『みんなにからかわれて嫌な思いしてない?』 
 弥生さんからある日メッセージが届いた。『既読』という文字が画面に瞬間的についた。
 僕はなんて答えたらいいか、迷った。
 嫌な思い、と言えばそうかもしれないけど、弥生さんをまた傷つけるのは違う気がした。
 彼女は今じゃ特別な友だちのひとりで、無闇にまた泣かせるようなことはしたくなかった。
『大丈夫だよ。弥生さんこそ、僕なんかと並べられて困ってない?』
 弥生さんの返事も、心なしかいつもより時間がかかった。
 やっぱり言葉選びに慎重になってるのかもしれない。
 思えば、名前で呼び合う前の彼女は、僕との接し方に慣れず、あんな形でしか関われなかったのかもしれない。

『もう忘れたかな? わたしはいつだって並べられてたいんだよ』

 なーんて気持ち悪いか、と付け足されたそのメッセージになんとも言えない気持ちになった。
 僕が軽率なのかもしれないと、その時、初めて思った。
 ハルからは最近、連絡が途絶えがちで、受験勉強が忙しいんだろうとあまり気に留めずにいた。そしてその間、弥生さんとのやり取りを毎日の日課のようにしていたんだ。
 あの時握った、赤い手袋の小ささを思い出す。傷つきやすさを覆い隠すようにはめられた、真っ赤な手袋。
 スミレちゃんからのプレゼントなのか、ハルの趣味なのかはわからないけど。
 とにかく早くハルに会って、間違いを正さなければという気持ちが心を占めた。

『ごめん。まだ友だちで』

 今度は間を置かず、スタンプが送られてきた。
 人気のキャラクターのスタンプ。ヒロインの小さい女の子が手で大きくOKサインを出している。
 そこにやさしさを感じてしまうのはおかしいだろうか?
 愚かな僕は、お返しに同じキャラクターの違うポーズのスタンプを送った。
『ごめん』――それしか言えない。



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