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第27話 想いは募るばかり
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ハルと僕は手を繋いだまま、黙って道行く人たちの中を歩いた。上に着ていたマウンテンパーカーのポケットに入ったカイロが熱を発していた。
ハルは終始黙ったままだったけど、僕は手を繋いだまま、その赤い手袋に引かれて行った。
スクランブル交差点は足早に家路につく人たちで満たされていた。みんな一様に同じ目をしている。
「角のファミレスでいいよね? もう無理。歩くのヤダ」
「あ、ごめん、気が利かなくて」
ふっと、その瞬間、花が咲いたようにハルは微笑んだ。
「わたしがワガママ言ったんじゃん? 第一、わたしたちの間でそういう遠慮は存在しないよ」
「うん⋯⋯ありがとう」
ハルはいつもよりずっと大人びて見えた。
それがひとつ年上のせいなのか、それともあの結んだ髪を挟むように揺れるリボンのせいなのか、どちらにしても僕の目はハルに奪われていた。
ファミレスのタッチパネルを置くと、ハルは両手を組んで頬杖をつき、「で?」と言った。
「え?」
「なにかあったんでしょう? こんな風に呼び出したりしないじゃん。――当ててみせようか? 女の子のことでしょ?」
「あ」
「あーねー」
あーねー、そーねー、確かにねー、とちっとも面白くなさそうにハルは言った。少し目が意地悪だった。
ロールスクリーンが下ろされた窓の下から冷えた空気が雪崩のように足元に降りて、ゾクッとする。
ハルを見ると、さっきと同じ姿勢のまま、なぜかロールスクリーンをじっと見ていた。窓の外が見えるわけでもないのに。
はぁ、とそしてため息を漏らす。どうしようもない、という顔だった。どうしようもないのはたぶん、僕のことだろう。
「で?」
「あー、前に話した女の子なんだけど」
「また告ってきたの!? 根性あるなぁ」
「違う、違う。それならなんとかなったんだけど。⋯⋯あのさ、女の子にとって髪の毛って大事なんでしょう?」
ハルは自分の結んだ髪を触った。
リボンが揺れる。照明のせいでいつもより髪が茶色がかって見える。目を惹かれる。
「これのこと?」
うん、と頷く。俯いてなにも言えない。
僕のせいで髪を切ったなんて、考えてみたら自惚れてるようだ。
「うーん。まぁ、そうだね。髪が跳ねてる日は学校に行きたくなくなるし」
「そうなの?」
「自意識過剰だとは思うけど、やっぱり嫌だよ。水で濡らしたりドライヤー使ったりするけどそれでも直らない時とか。遅刻しそうになるし」
僕の髪も寝起きはよく跳ねている。直さないで出ようとすると、母さんに止められる。
鏡の前に立たされて、水で濡らしたり、ドライヤーかけたり、整髪剤出てきたり······遅刻するから、と連呼してそれが届くまでやめてくれない。
要するに、僕の髪の乱れは母さんの髪の乱れに相当するんだろう。
まぁ、どこかの段階で直るんだけど。
「わたしの髪、硬くて言うこと聞かないから」
「そうなの?」
ハルは僕の目をじっと見た。じぃっと。
「触ったことないの!? わたしの髪はママやサクラさんみたいにやわらかめじゃないの。パパに似たんだよ、きっと」
ドリンク取ってくる、とハルは僕から興味を失ったような顔をして立ち上がった。
後ろ姿を見ている。
別にコンプレックスを持つほど、硬そうには見えない。僕からしたら、やっぱり女の子の髪だ。
触ったことがないかと訊かれれば、これだけ長い間一緒にいて触ってない方がおかしい。ハルの髪は直毛で、ストレートパーマをかけているスミレちゃんとは確かにちょっと重さが違う。
でも僕はハルの髪が好きだ。
真っ直ぐで、潔い。
ハルそのもののようだ。
僕の気持ちを知ってか知らずか「どうぞ」と自分の席にカップを置いて、ハルは座った。
甘いココアの匂いがした。
僕もカップを持ってドリンクバーを物色する。
温まるもの――カプチーノ。母さんと来ると、二人でそれを飲む。テーブルに運ぶのは僕の役目だ。
ボタンを押そうとしてふと指を止める。
そうじゃない、一緒に来てるのはハルなんだから。抽出中の表示が消えるのを待つ。
席に戻るとハルはココアを楽しんでいた。チラッと僕を見ると「アキってココア好きだよね? 男の子なのに珍しくない?」とからかってきた。
なるほど、ハルはまだその仕組みに気付いてないわけだ。
「寒い日は特にココアに限るよね。いきなり浮気しないでよ? ある日突然、アキがエスプレッソとか持ってきたら」
「そしたら?」
「ぶっ飛ばす」
それはないだろう、と笑いを堪える。
さすがにエスプレッソを飲むほどじゃないけど、カプチーノもぶっ飛ばされそうだなと心の中で笑う。まだまだココアを飲み続けることになりそうだ。
「で、髪の毛がどうしたの?」
「あー」
僕は頭を抱えて俯いた。
なんて言ったらいいんだろう? そのまま言えばいいのに、言葉を選ぶ。
誰のためだろう? 自分のためか、傷つけてしまった彼女のためか。
「――それで責任取ってその子と付き合うの?」
僕は事細かに、ゆっくり話した。隠すよりその方が簡単だと思ったからだ。
「付き合わないよ。え、これがエンドマークじゃないの?」
ハルはココアをまた一口飲んだ。
味わうようではなく、こくんと。
「なんで終わるの? 好きって気持ちはそんなに簡単じゃない。やめようと思ってもなかなか消えてくれないよ」
「でも、心の整理がついたとか、リセットとか」
「『想いは募るばかり』だよ」
はぁっと、肩肘をついた姿勢で彼女は大袈裟にため息をついた。頼んだ食べかけのパンケーキの上のアイスクリームは、半分以上、溶けて流れていた。
「ねぇ、思い出してみて」
「うん」
「わたしもアキが好きなの。その子より好きになってもらうにはどうしたらいい?」
僕の頭は本当に爆発した。
今回は未遂では済まなかった。
正直なところ、ちょっと待って、と言いかけた。
「この前言ったじゃない。聞いてなかったの? それとも冗談だと思ってたの? アキだって······その、わたしのこと······」
ハルの瞳は心なしか潤んで見えた。頬は暖房のせいか、赤く、唇がツヤっぽい。
一気にハルが女なんだという事実がなだれ込んできた。
僕は俯いた。叱られた子供のように。
「あの······ハルが好きだよ。代わりになる子はいない」
肘をついた姿勢から、ゆっくりと顔が上がり、ハルは真正面から僕を見た。潤んだ瞳の中には僕がいた。僕以外、前にいないんだから確かだ。
「浮気ってさ、別にほかの子と付き合うことじゃないと思うんだ。『浮ついた気持ち』のことじゃない? アキは今、ふわふわしてない?」
「してない。だから好きな子がいるって言ったって。それはさ、ハルの、ことだし······」
もう、と少し怒ったような口調でハルはこぼした。なんだか一大事らしい。
ハルを好きだという気持ちだけでは納得してくれないのなら、どうしたらいいんだろう?
僕はまだビギナーで、きちんと予習さえしていなかった。
ひとつ年上のハルの一挙手一投足を見て、それについて行くことしかできなかった。
「浮つかないで。わたしのことだけ考えてよ。その子が髪を切ったのは、個人的な事情だよ。それにその子にはアキの代わりに幼なじみがいるんでしょう? わたしだけを見てよ」
無理だよ。それは難しいと思った。
膝の上で手をグッと握る。難しい局面に冷や汗をかきそうだ。
あのショートカット。思い切りきった清々しい襟足を思い出す。これは忘れたらいけないことだと、僕は思っていた。
教室で彼女を見る度に、きっと僕の心は痛む。
例え彼女が僕を心から追い出しても。
「悪いことをしたと思ってるんだよ。言葉だけじゃなくて、本当に」
はぁっ、と大きなため息がまたやって来た。
ハルはまた頬杖をついて、僕を斜めに見ている。
分析している。僕の心の中を。
財布を出すと、ハルはそこからお札を一枚、ピッと出してテーブルに置いた。それはよく見ると五千円札で、僕たち二人が食べた金額にしても多すぎた。
僕は慌てて声をかけた。
ハルはスッと立ち上がると「じゃあね」と振り返りもせずに通路を歩いて行く。紺のダッフルコートを器用に着ながら。
僕はすぐに追いかけようと立ち上がって、つい目の前のものに目が行ってしまった。
食べ残しのパンケーキ。赤いイチゴ。ドロドロに溶けたアイスクリーム。
それを平らげようとは思わなかったけど、そのままにしておくのはあんまりだと思えた。⋯⋯なんだか今日の冴えない僕みたいだ。アイスクリームの水分を吸ったパンケーキは、とても美味しそうには見えなかった。
ハルは終始黙ったままだったけど、僕は手を繋いだまま、その赤い手袋に引かれて行った。
スクランブル交差点は足早に家路につく人たちで満たされていた。みんな一様に同じ目をしている。
「角のファミレスでいいよね? もう無理。歩くのヤダ」
「あ、ごめん、気が利かなくて」
ふっと、その瞬間、花が咲いたようにハルは微笑んだ。
「わたしがワガママ言ったんじゃん? 第一、わたしたちの間でそういう遠慮は存在しないよ」
「うん⋯⋯ありがとう」
ハルはいつもよりずっと大人びて見えた。
それがひとつ年上のせいなのか、それともあの結んだ髪を挟むように揺れるリボンのせいなのか、どちらにしても僕の目はハルに奪われていた。
ファミレスのタッチパネルを置くと、ハルは両手を組んで頬杖をつき、「で?」と言った。
「え?」
「なにかあったんでしょう? こんな風に呼び出したりしないじゃん。――当ててみせようか? 女の子のことでしょ?」
「あ」
「あーねー」
あーねー、そーねー、確かにねー、とちっとも面白くなさそうにハルは言った。少し目が意地悪だった。
ロールスクリーンが下ろされた窓の下から冷えた空気が雪崩のように足元に降りて、ゾクッとする。
ハルを見ると、さっきと同じ姿勢のまま、なぜかロールスクリーンをじっと見ていた。窓の外が見えるわけでもないのに。
はぁ、とそしてため息を漏らす。どうしようもない、という顔だった。どうしようもないのはたぶん、僕のことだろう。
「で?」
「あー、前に話した女の子なんだけど」
「また告ってきたの!? 根性あるなぁ」
「違う、違う。それならなんとかなったんだけど。⋯⋯あのさ、女の子にとって髪の毛って大事なんでしょう?」
ハルは自分の結んだ髪を触った。
リボンが揺れる。照明のせいでいつもより髪が茶色がかって見える。目を惹かれる。
「これのこと?」
うん、と頷く。俯いてなにも言えない。
僕のせいで髪を切ったなんて、考えてみたら自惚れてるようだ。
「うーん。まぁ、そうだね。髪が跳ねてる日は学校に行きたくなくなるし」
「そうなの?」
「自意識過剰だとは思うけど、やっぱり嫌だよ。水で濡らしたりドライヤー使ったりするけどそれでも直らない時とか。遅刻しそうになるし」
僕の髪も寝起きはよく跳ねている。直さないで出ようとすると、母さんに止められる。
鏡の前に立たされて、水で濡らしたり、ドライヤーかけたり、整髪剤出てきたり······遅刻するから、と連呼してそれが届くまでやめてくれない。
要するに、僕の髪の乱れは母さんの髪の乱れに相当するんだろう。
まぁ、どこかの段階で直るんだけど。
「わたしの髪、硬くて言うこと聞かないから」
「そうなの?」
ハルは僕の目をじっと見た。じぃっと。
「触ったことないの!? わたしの髪はママやサクラさんみたいにやわらかめじゃないの。パパに似たんだよ、きっと」
ドリンク取ってくる、とハルは僕から興味を失ったような顔をして立ち上がった。
後ろ姿を見ている。
別にコンプレックスを持つほど、硬そうには見えない。僕からしたら、やっぱり女の子の髪だ。
触ったことがないかと訊かれれば、これだけ長い間一緒にいて触ってない方がおかしい。ハルの髪は直毛で、ストレートパーマをかけているスミレちゃんとは確かにちょっと重さが違う。
でも僕はハルの髪が好きだ。
真っ直ぐで、潔い。
ハルそのもののようだ。
僕の気持ちを知ってか知らずか「どうぞ」と自分の席にカップを置いて、ハルは座った。
甘いココアの匂いがした。
僕もカップを持ってドリンクバーを物色する。
温まるもの――カプチーノ。母さんと来ると、二人でそれを飲む。テーブルに運ぶのは僕の役目だ。
ボタンを押そうとしてふと指を止める。
そうじゃない、一緒に来てるのはハルなんだから。抽出中の表示が消えるのを待つ。
席に戻るとハルはココアを楽しんでいた。チラッと僕を見ると「アキってココア好きだよね? 男の子なのに珍しくない?」とからかってきた。
なるほど、ハルはまだその仕組みに気付いてないわけだ。
「寒い日は特にココアに限るよね。いきなり浮気しないでよ? ある日突然、アキがエスプレッソとか持ってきたら」
「そしたら?」
「ぶっ飛ばす」
それはないだろう、と笑いを堪える。
さすがにエスプレッソを飲むほどじゃないけど、カプチーノもぶっ飛ばされそうだなと心の中で笑う。まだまだココアを飲み続けることになりそうだ。
「で、髪の毛がどうしたの?」
「あー」
僕は頭を抱えて俯いた。
なんて言ったらいいんだろう? そのまま言えばいいのに、言葉を選ぶ。
誰のためだろう? 自分のためか、傷つけてしまった彼女のためか。
「――それで責任取ってその子と付き合うの?」
僕は事細かに、ゆっくり話した。隠すよりその方が簡単だと思ったからだ。
「付き合わないよ。え、これがエンドマークじゃないの?」
ハルはココアをまた一口飲んだ。
味わうようではなく、こくんと。
「なんで終わるの? 好きって気持ちはそんなに簡単じゃない。やめようと思ってもなかなか消えてくれないよ」
「でも、心の整理がついたとか、リセットとか」
「『想いは募るばかり』だよ」
はぁっと、肩肘をついた姿勢で彼女は大袈裟にため息をついた。頼んだ食べかけのパンケーキの上のアイスクリームは、半分以上、溶けて流れていた。
「ねぇ、思い出してみて」
「うん」
「わたしもアキが好きなの。その子より好きになってもらうにはどうしたらいい?」
僕の頭は本当に爆発した。
今回は未遂では済まなかった。
正直なところ、ちょっと待って、と言いかけた。
「この前言ったじゃない。聞いてなかったの? それとも冗談だと思ってたの? アキだって······その、わたしのこと······」
ハルの瞳は心なしか潤んで見えた。頬は暖房のせいか、赤く、唇がツヤっぽい。
一気にハルが女なんだという事実がなだれ込んできた。
僕は俯いた。叱られた子供のように。
「あの······ハルが好きだよ。代わりになる子はいない」
肘をついた姿勢から、ゆっくりと顔が上がり、ハルは真正面から僕を見た。潤んだ瞳の中には僕がいた。僕以外、前にいないんだから確かだ。
「浮気ってさ、別にほかの子と付き合うことじゃないと思うんだ。『浮ついた気持ち』のことじゃない? アキは今、ふわふわしてない?」
「してない。だから好きな子がいるって言ったって。それはさ、ハルの、ことだし······」
もう、と少し怒ったような口調でハルはこぼした。なんだか一大事らしい。
ハルを好きだという気持ちだけでは納得してくれないのなら、どうしたらいいんだろう?
僕はまだビギナーで、きちんと予習さえしていなかった。
ひとつ年上のハルの一挙手一投足を見て、それについて行くことしかできなかった。
「浮つかないで。わたしのことだけ考えてよ。その子が髪を切ったのは、個人的な事情だよ。それにその子にはアキの代わりに幼なじみがいるんでしょう? わたしだけを見てよ」
無理だよ。それは難しいと思った。
膝の上で手をグッと握る。難しい局面に冷や汗をかきそうだ。
あのショートカット。思い切りきった清々しい襟足を思い出す。これは忘れたらいけないことだと、僕は思っていた。
教室で彼女を見る度に、きっと僕の心は痛む。
例え彼女が僕を心から追い出しても。
「悪いことをしたと思ってるんだよ。言葉だけじゃなくて、本当に」
はぁっ、と大きなため息がまたやって来た。
ハルはまた頬杖をついて、僕を斜めに見ている。
分析している。僕の心の中を。
財布を出すと、ハルはそこからお札を一枚、ピッと出してテーブルに置いた。それはよく見ると五千円札で、僕たち二人が食べた金額にしても多すぎた。
僕は慌てて声をかけた。
ハルはスッと立ち上がると「じゃあね」と振り返りもせずに通路を歩いて行く。紺のダッフルコートを器用に着ながら。
僕はすぐに追いかけようと立ち上がって、つい目の前のものに目が行ってしまった。
食べ残しのパンケーキ。赤いイチゴ。ドロドロに溶けたアイスクリーム。
それを平らげようとは思わなかったけど、そのままにしておくのはあんまりだと思えた。⋯⋯なんだか今日の冴えない僕みたいだ。アイスクリームの水分を吸ったパンケーキは、とても美味しそうには見えなかった。
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