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第25話 恋の見本品
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ドッドッドッドッ、と留まることを知らず、血液は激しく流れていく。簡単に止まりそうもない。
でもまだ僕は十四に満たないし、不適切な行動は避けなければという思いで頭の中はいっぱいだった。
――ハグだ。
それは挨拶みたいなもので、決して重みはない。少なくとも今の僕たちにとって。
僕は崩れ落ちた姿勢を調整して、ベッドに横たわるハルから目を逸らしてその体に腕を回した。この行為に深い意味はない。気持ちと気持ちが触れ合うのと一緒だ。
······スウェットは残念だと少しでも思ったのは誰だ。女の子の体は噂通りくにゃくにゃだ。
そのうちハルの手が僕の首に回されて、限りなく僕たちは重なり合う。
これはどういうことだろう? 僕は完全に処理落ちだ。ブラックアウトしてしまわないのが不思議なほどだった。
僕の耳元にハルの吐息がかかる。
僕の唇はハルの首筋までもう少し。
······これはなんかのゲームで、制限時間までこの姿勢を保つというルールがあるのかもしれない。
いや、ないかもしれない。
そもそも男女がハグしたまま離れないなんて、王様ゲームでもなければ、滅多なことであることじゃない。
僕の耳を捉えて離さないその声が聞こえた。
「アキ好き。いつも同じ気持ちだよね? でも、ちゃんとたまには言葉にしてよ」
「僕は――」
僕は?
ハルが好きだと右往左往していた僕は、求められているのにどうしようか、そればかり考えている。
「僕は――」
「この前の女の子の方が気になるようになった?」
ううん、という意思表示程度に首を振る。
「じゃあほかになんの理由があって、アキは言ってくれないの?」
ハルが喋る度に、耳が反応する。
僕はだから。
「僕の好きな人はハルだから。······これは変わらないよ」
そう言うとハルは首に回した手にギュッと力を込めた。密着も密着だ。頬と頬が重なる。
「よかったぁ。これで今日からよく眠れる······ 」
ハルは遠慮のない大きな欠伸をひとつした。唇が耳に触れるんじゃないかとドキドキしないわけがない。
「大好きだよ。ほかの男の子よりずっと。ほかの子じゃ代わりにならないの。それだけ覚えてて」
堪らなくなって僕はハルの手短なところにあった頬に逃げるような速さでキスをした。掠った、とも言う。
あまり一般的な場所ではなかったかもしれないけど、その時ハルの腕にギュッと更に力が入った。
僕の送った信号を受信したことが伝わる。
「······キス、する?」
えええ、と流れの速さについていけなくて、無理やり上体を剥がして起き上がった。
するのが普通なのか?
しないと出来が悪い?
後でそのことで悶々と悩むかもしれない。
物事には流れがある。川の水のように。今がその一連の流れに当たるのかもしれない。
まだ枕に頭を落としたままのハルは、スローモーションのように起き上がって、僕の頬にそっと手を添えた。
洗ったばかりでもない頬に、小さな手が。
どうしよう。
でもたぶん一瞬のことだし、遊びの一環かもしれないし。みんな、してるのかもしれない。
目が、唇から離れない。あれが今から――。
「アキ! そろそろ帰らないとまたサクラが迎えに来ちゃうわよ」
ガバッと僕とハルは猛スピードで離れた。
目が合ってしまって、気まずい。ハルが先に目を逸らす。
僕は「はーい」とふにゃふにゃな返事をして、とりあえず立ち上がろうと予備動作に入った。
「······アキ、強引にごめん。でも言ったことは本当だし、一生一緒にいてほしい。お願いだから、わたしも候補のひとりに入れて」
「ハルはなにもわかってない。僕の気持ち、わからないの?」
高揚したまま、よくわからないことを口走り、バタンと普段なら決して立てない音でハルの部屋の扉を閉めた。
階段を下りる間も、不必要に心臓は早鐘を打ち、僕は怒っていた。なにも、できない自分に。
これはなんだ? 足りないのは『覚悟』ってやつか?
してもいないキスの余韻を拭い去るように、唇を手の甲で強く擦る。もちろんなにも取れない。なにもつかなかったんだ。
「スミレちゃん、ありがとう。帰るよ」
「外、寒いから気を付けるのよ。信号はよく見て、車に気を付けてね」
わかったよ、と靴を履き始めた。
ハルがそのうち下りてきて、スミレちゃんがいたのでなにをするでもなく僕を見守り、少し寂しそうな顔で「またね」と小さく言った。
風を切る。
首筋と耳がちぎれそうに冷える。
僕は逃げるように自転車を漕いだ。わからない。わかってる。
自分がわからない。ハルが僕を求めているのはわかっている。⋯⋯なんだ?
望んでたことなのに、思ってたより高揚感がない。
ハルに触れたことは魔法のようではあったけど、彼女の言葉のひとつひとつが、僕の心にスっと入って来ない。
どこにも嘘をついている様子はなかったのになぁ。どうしてだろう?
どうしても、ハルの本当の気持ちが見えてこない。変な話だけど。
今日交わした言葉は、まるで演劇の台本のようだった。
――予定調和。
ドラマティックではあったけど、でも、なんだか。
こういうことに慣れないからピンと来ないのかもしれない。
あの女の子のことを思い出す。あの子は体から絞り出すように僕を「すき」だと言った。
それはハルの言った「すき」とはちょっと違う気がした。
どちらが正解で、どちらが間違いかはわからないんだけど。
「すき」という言葉にもいろんな意味がある。
ハルの「すき」はどういう意味なんだろう?
なにかから自分を守るため、のような、なんだか不自然な告白だった。第一、押し倒したりする必要なんかなかったんだ。体に触れなくたって、僕はハルがすきなんだから――。
家に帰ると母さんと父さんはすっかり酔っていて、キッチンには食べた後の食器が重ねられていた。
ふたりは一緒に「おかえり」と言ってくれたけど、まだ飲み足りないようで細いガラスのグラスには仄かなグリーンの液体が入っていた。母さんは僕の帰宅より、父さんに夢中だった。
変な介入がないことはうれしい。
今日は話せないことがたくさんあったし。
荷物を片して着替えると、なにも言わずに食器に手を付ける。二人が仲良くしている姿を見るのは久しぶりだ。
女子高生のように笑う母さんは、父さんに頼りっきりで、毎日の帰りが遅い父さんは母さんをいつまでも新鮮な気持ちで見られるようだった。
「あら、食器は洗うからいいのよ。お風呂でも入りなさいよ。寒かったでしょう?」
「うん、じゃあこれだけ洗って入るよ」
返事が妙に硬くなってしまったことに気付かれなかったようだ。なにがそんなに楽しいのか、二人は文字通り、談笑していた。
上手くいっている恋人たちはあんな感じなんだろうか?
自分とハルのことを考える。
僕たちの稚拙な気持ちを。
この気持ちが本当に『恋』なのか、誰か手の上に『恋』を持って来て見本にみせてほしい。そしたら僕も納得がいくはずだ。
洗い物の泡は、洗剤を出しすぎたのか簡単に流れない。プツプツと細かい泡が弾けるように散り散りになって、いずれ溶けて消えていく。スポンジを握りしめる。無数の泡はまるで尽きることなく生まれてくるように見えた。
でもまだ僕は十四に満たないし、不適切な行動は避けなければという思いで頭の中はいっぱいだった。
――ハグだ。
それは挨拶みたいなもので、決して重みはない。少なくとも今の僕たちにとって。
僕は崩れ落ちた姿勢を調整して、ベッドに横たわるハルから目を逸らしてその体に腕を回した。この行為に深い意味はない。気持ちと気持ちが触れ合うのと一緒だ。
······スウェットは残念だと少しでも思ったのは誰だ。女の子の体は噂通りくにゃくにゃだ。
そのうちハルの手が僕の首に回されて、限りなく僕たちは重なり合う。
これはどういうことだろう? 僕は完全に処理落ちだ。ブラックアウトしてしまわないのが不思議なほどだった。
僕の耳元にハルの吐息がかかる。
僕の唇はハルの首筋までもう少し。
······これはなんかのゲームで、制限時間までこの姿勢を保つというルールがあるのかもしれない。
いや、ないかもしれない。
そもそも男女がハグしたまま離れないなんて、王様ゲームでもなければ、滅多なことであることじゃない。
僕の耳を捉えて離さないその声が聞こえた。
「アキ好き。いつも同じ気持ちだよね? でも、ちゃんとたまには言葉にしてよ」
「僕は――」
僕は?
ハルが好きだと右往左往していた僕は、求められているのにどうしようか、そればかり考えている。
「僕は――」
「この前の女の子の方が気になるようになった?」
ううん、という意思表示程度に首を振る。
「じゃあほかになんの理由があって、アキは言ってくれないの?」
ハルが喋る度に、耳が反応する。
僕はだから。
「僕の好きな人はハルだから。······これは変わらないよ」
そう言うとハルは首に回した手にギュッと力を込めた。密着も密着だ。頬と頬が重なる。
「よかったぁ。これで今日からよく眠れる······ 」
ハルは遠慮のない大きな欠伸をひとつした。唇が耳に触れるんじゃないかとドキドキしないわけがない。
「大好きだよ。ほかの男の子よりずっと。ほかの子じゃ代わりにならないの。それだけ覚えてて」
堪らなくなって僕はハルの手短なところにあった頬に逃げるような速さでキスをした。掠った、とも言う。
あまり一般的な場所ではなかったかもしれないけど、その時ハルの腕にギュッと更に力が入った。
僕の送った信号を受信したことが伝わる。
「······キス、する?」
えええ、と流れの速さについていけなくて、無理やり上体を剥がして起き上がった。
するのが普通なのか?
しないと出来が悪い?
後でそのことで悶々と悩むかもしれない。
物事には流れがある。川の水のように。今がその一連の流れに当たるのかもしれない。
まだ枕に頭を落としたままのハルは、スローモーションのように起き上がって、僕の頬にそっと手を添えた。
洗ったばかりでもない頬に、小さな手が。
どうしよう。
でもたぶん一瞬のことだし、遊びの一環かもしれないし。みんな、してるのかもしれない。
目が、唇から離れない。あれが今から――。
「アキ! そろそろ帰らないとまたサクラが迎えに来ちゃうわよ」
ガバッと僕とハルは猛スピードで離れた。
目が合ってしまって、気まずい。ハルが先に目を逸らす。
僕は「はーい」とふにゃふにゃな返事をして、とりあえず立ち上がろうと予備動作に入った。
「······アキ、強引にごめん。でも言ったことは本当だし、一生一緒にいてほしい。お願いだから、わたしも候補のひとりに入れて」
「ハルはなにもわかってない。僕の気持ち、わからないの?」
高揚したまま、よくわからないことを口走り、バタンと普段なら決して立てない音でハルの部屋の扉を閉めた。
階段を下りる間も、不必要に心臓は早鐘を打ち、僕は怒っていた。なにも、できない自分に。
これはなんだ? 足りないのは『覚悟』ってやつか?
してもいないキスの余韻を拭い去るように、唇を手の甲で強く擦る。もちろんなにも取れない。なにもつかなかったんだ。
「スミレちゃん、ありがとう。帰るよ」
「外、寒いから気を付けるのよ。信号はよく見て、車に気を付けてね」
わかったよ、と靴を履き始めた。
ハルがそのうち下りてきて、スミレちゃんがいたのでなにをするでもなく僕を見守り、少し寂しそうな顔で「またね」と小さく言った。
風を切る。
首筋と耳がちぎれそうに冷える。
僕は逃げるように自転車を漕いだ。わからない。わかってる。
自分がわからない。ハルが僕を求めているのはわかっている。⋯⋯なんだ?
望んでたことなのに、思ってたより高揚感がない。
ハルに触れたことは魔法のようではあったけど、彼女の言葉のひとつひとつが、僕の心にスっと入って来ない。
どこにも嘘をついている様子はなかったのになぁ。どうしてだろう?
どうしても、ハルの本当の気持ちが見えてこない。変な話だけど。
今日交わした言葉は、まるで演劇の台本のようだった。
――予定調和。
ドラマティックではあったけど、でも、なんだか。
こういうことに慣れないからピンと来ないのかもしれない。
あの女の子のことを思い出す。あの子は体から絞り出すように僕を「すき」だと言った。
それはハルの言った「すき」とはちょっと違う気がした。
どちらが正解で、どちらが間違いかはわからないんだけど。
「すき」という言葉にもいろんな意味がある。
ハルの「すき」はどういう意味なんだろう?
なにかから自分を守るため、のような、なんだか不自然な告白だった。第一、押し倒したりする必要なんかなかったんだ。体に触れなくたって、僕はハルがすきなんだから――。
家に帰ると母さんと父さんはすっかり酔っていて、キッチンには食べた後の食器が重ねられていた。
ふたりは一緒に「おかえり」と言ってくれたけど、まだ飲み足りないようで細いガラスのグラスには仄かなグリーンの液体が入っていた。母さんは僕の帰宅より、父さんに夢中だった。
変な介入がないことはうれしい。
今日は話せないことがたくさんあったし。
荷物を片して着替えると、なにも言わずに食器に手を付ける。二人が仲良くしている姿を見るのは久しぶりだ。
女子高生のように笑う母さんは、父さんに頼りっきりで、毎日の帰りが遅い父さんは母さんをいつまでも新鮮な気持ちで見られるようだった。
「あら、食器は洗うからいいのよ。お風呂でも入りなさいよ。寒かったでしょう?」
「うん、じゃあこれだけ洗って入るよ」
返事が妙に硬くなってしまったことに気付かれなかったようだ。なにがそんなに楽しいのか、二人は文字通り、談笑していた。
上手くいっている恋人たちはあんな感じなんだろうか?
自分とハルのことを考える。
僕たちの稚拙な気持ちを。
この気持ちが本当に『恋』なのか、誰か手の上に『恋』を持って来て見本にみせてほしい。そしたら僕も納得がいくはずだ。
洗い物の泡は、洗剤を出しすぎたのか簡単に流れない。プツプツと細かい泡が弾けるように散り散りになって、いずれ溶けて消えていく。スポンジを握りしめる。無数の泡はまるで尽きることなく生まれてくるように見えた。
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