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第24話 ハグ
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「うん、うん、そうなの。たまたまね。ハルがどうしてもって言うから。うちも克己《かつみ》さんは遅くなるからいつも夕飯は二人きりだし、たまには賑やかだとうれしいんだけど」
スミレちゃんは母さんに電話している。
ハルが僕を夕飯に誘ってくれたからだ。
でもそんなことを言っても、母さんは首を縦に振らないだろう。今度は母さんが寂しくなるし。
そもそも母さんにとって僕は、寂しさの防波堤なんだ。
「え? 珍しいじゃない。貴之《たかゆき》さん、帰ってるの? やだ、親子団欒じゃない。⋯⋯ああ、確かにそういうのもいいよね。うん、うん、任せておいて。遅くなりすぎないうちに帰すから、気にしないで楽しんでね」
それじゃね、と付け加えて電話を切った。
ふぅ、と一息ついて、腰を下ろすとお茶を一口飲んだ。
ハルは期待に満ちた目でスミレちゃんを見た。
話の流れ的に、どうやらハルの勝ちのようだ。詳細はまったくわからないけど。
ハルは口を開かないスミレちゃんに痺れを切らして自分から口を開いた。
「ねぇねぇ、サクラさん、どうだった? アキ、ご飯食べて行ける?」
「あのね、アキ。今日はお父さん、早く帰ってこられたんだって」
「珍しい」
「そう、珍しいのよ。それでアキを夕食に誘っていいかって訊いたんだけどね、たまには夫婦水入らずもいいかな、だって」
やったー、とハルはずいぶん大袈裟に喜んだ。
僕は思っていたのと違い、ぽかんとしてしまった。僕だけが家族から弾かれたような気になった。
なんだかそれは寂しかった。
「確かに子供ができるとなかなかねぇ。まぁ、言ってくれればわたしはいつでもアキを預かるけど。アキは子供の頃から大人しくて手のかからない子だったし」
「どうせわたしがお転婆だっていいたいんでしょ? アキ、遠慮しなくていいんだよ。どうせいつもうちは母子家庭みたいなものだから」
こらっ、とスミレちゃんはハルを窘《たしな》めた。ハルは悪びれる様子もなく、だってほんとのことだもーん、と言った。
それから空になったココアのカップを持ってシンクに向かうと、カップをさっさと洗って冷蔵庫のドアを開ける。コロッケでしょ、とスミレちゃんに確認して、冷蔵庫からキャベツを取り出すと細く千切りにし始めた。
僕は空になったカップを気がつけば握りしめていた。
「ハル、料理するんだ?」
「だって二人きりだし。アキはしないの?」
「帰るとほとんどできてるし」
「ああ、サクラさんは専業主婦だもんね。お料理上手だし。愛情だね」
考えてみたことがなかった。僕が夕食の支度を手伝うこと。母さんはそんなことより勉強したらって言いそうだけど、きっと喜ぶに違いない。
僕だってカレーくらいは作れるはずだ。
いつも甘えてばかりだったんだな、と少し恥ずかしく思う。そして今頃、母さんは父さんに甘えられているといいなと思う。
母さんは父さんにきっと今でも恋してる。
父さんの話をする時の声のトーンが違う。
父さんが今日みたいに早い日は、連絡が入るとそわそわして落ち着かなくなる。
⋯⋯大人も恋をするんだな、と不思議な気持ちになる。母さんは今頃、きっと女子高生のような顔をしてるんだ。
思わずハルをじっと見る。
「なに? 圧がすごいんだけど。大丈夫だよ、ちゃんとできるよ。ねぇ、ママ?」
ふふふっと笑って「どうかなぁ」とスミレちゃんは曖昧な返事をした。ハルは「意地悪」と言いながら、コロッケを揚げていた。
なんだ、思ってたより二人の仲はいいんだな、と確認する。それなら寂しいなんてことはないし、僕の出る幕はなさそうだ。あれは、ほんの一刹那の寂しさだったのかもしれない。
「手伝いましょうか?」と言うと、お皿を出してほしいと頼まれて、いつもやってもらってばかりだったことに思い至った。
母さんが時々「女の子もいいわよね」とハルを見ていた気持ちが少しわかり、申し訳ない気持ちになる。
「うちで使ってるソース、特別なの。ちょっと高いんだけどわざわざ取り寄せてるんだ。美味しいんだよ」
ハルが無邪気にそう言った。
仲のいい二人の動きを見ていると、心が温まる。心配は安心に変わる。
コロッケは不思議なほど、うちのとまるで同じ味だった。
じゃがいもに挽肉が入って、ほんのりバター風味で。そしてシナモンが入っている。
「そんなに似てるかしら?」
スミレちゃんは素っ頓狂な声を上げた。
ハルは笑った。
「じゃあわたしたちの食べてるものって、結構みんな味付けが似てるかもね、どんな料理でも。離れて暮らしてるのに不思議だね」
全く持ってその通りだ。
こんなところで二人が一卵性双生児だということを思い知るなんて。やっぱりDNAが同じなんだ。すごく不思議だった。
食卓は食事を終えるとすぐに片付いて、ハルは「少し時間あるよね」と言った。スミレちゃんは「しょうがないわね」と要するに肯定した。
僕はハルの部屋に連行された。
「あー、お腹いっぱい」
ハルはそう言うと、ベッドにバタンと飛び込んだ。見事なフォームだ。
それから僕をチラッと見て「胸もいっぱい」と言った。
えーと、こんな時はどんな風に返したらいいんだろう? 僕の中はえーとでいっぱいになってしまい、ゴロンと横向きに転がったハルの胸に、どうしても目が行ってしまう。
ハルはなにを考えているのかわからないけど、たぶん、僕と同じような気持ちになっている。顔にそう書いてある。
なぜかどっちも喋らなくて、と言ってもいつもハルが喋るわけで、要するに僕は待っていた。
「⋯⋯沈黙もいいね」
え!? 気まずいだけじゃなくて?
「アキといると安心する。なにも喋らなくても」
「そうかな?」
「そうだよ。ずっと一緒にいるんだもん。心は通じてるから」
「ああ、まぁ、そうかも」
僕は床に体育座りをして、ハルを見ていた。ハルはお気に入りらしい、僕とお揃いのシロクマのぬいぐるみをギュッと抱いた。
なんだか記憶が回帰していくような、妙な気分。
「一緒に買ったよね」
「うん」
「今も······ううん、なんでもない。男の子はこういうの大事にしなくても気にしなくていいんだよ。思い出はわたしのクマちゃんに宿ってるから」
違うよ、という言葉は飲み込んだ。
喉の奥を刺激するように落ちていった。
なぜならハルは、その誤解した状況を楽しんでいるように見えたから。だからなにも言わなかった。
ハルの中では、あの一体のぬいぐるみに二人分の思い出が詰まってるらしい。それならそれでいい。
シロクマを抱いた両手はするりと片方離れて、僕を傍に来いと招く。不審に思いながら、おずおずとハルに近づく。
横たわったハルの頬は透明で、汚れたところはまるでないように見えた。
――あ。
女の子ってそんなに力が強いかな、とちょっとズレたことを考えながら、僕はハルの上に重なるように倒れた。
やわらかい、それが最初に感じたことだ。
僕のひょろひょろな体が降ってきたのに、ハルの体はやさしくそれを受け止めてしまった。
「重くないの?」
聞くべきことはそこじゃない気がする。
もう子供じゃないんだから、絡まりあってゴロゴロ転がるってわけにはいかない。それだけで嬌声を上げる歳ではない。
いや、これは困るって。顔がどんどん熱くなる。
僕の顔は彼女の首筋近くにあって、産毛まで見えそうだ。なぜか甘い透明なシロップみたいな香りがして、動揺する。
近すぎる、絶対。
ひとり、パニックに襲われているとハルはシロクマをごろんと手放しで、僕の背中に両手を回した。
そして「ハグするって、こんな感じなんだね」とボソッと囁いた。
僕は軽く「うん、そうだね」と言ったりはできず、ただただ、高まる熱量を抑えることに集中していた。
なにも知らなかったはずなのに、次にすべきことをもう脳は知っているようだった。
そんなことできない、という気持ちと、それをしてしまえという気持ちが拮抗してますます困惑する。
「ギュッてして」
呟いた女の子は、それはハルではなかった。
ひとりの、やわらかい体を持った知らない女の子だった。
スミレちゃんは母さんに電話している。
ハルが僕を夕飯に誘ってくれたからだ。
でもそんなことを言っても、母さんは首を縦に振らないだろう。今度は母さんが寂しくなるし。
そもそも母さんにとって僕は、寂しさの防波堤なんだ。
「え? 珍しいじゃない。貴之《たかゆき》さん、帰ってるの? やだ、親子団欒じゃない。⋯⋯ああ、確かにそういうのもいいよね。うん、うん、任せておいて。遅くなりすぎないうちに帰すから、気にしないで楽しんでね」
それじゃね、と付け加えて電話を切った。
ふぅ、と一息ついて、腰を下ろすとお茶を一口飲んだ。
ハルは期待に満ちた目でスミレちゃんを見た。
話の流れ的に、どうやらハルの勝ちのようだ。詳細はまったくわからないけど。
ハルは口を開かないスミレちゃんに痺れを切らして自分から口を開いた。
「ねぇねぇ、サクラさん、どうだった? アキ、ご飯食べて行ける?」
「あのね、アキ。今日はお父さん、早く帰ってこられたんだって」
「珍しい」
「そう、珍しいのよ。それでアキを夕食に誘っていいかって訊いたんだけどね、たまには夫婦水入らずもいいかな、だって」
やったー、とハルはずいぶん大袈裟に喜んだ。
僕は思っていたのと違い、ぽかんとしてしまった。僕だけが家族から弾かれたような気になった。
なんだかそれは寂しかった。
「確かに子供ができるとなかなかねぇ。まぁ、言ってくれればわたしはいつでもアキを預かるけど。アキは子供の頃から大人しくて手のかからない子だったし」
「どうせわたしがお転婆だっていいたいんでしょ? アキ、遠慮しなくていいんだよ。どうせいつもうちは母子家庭みたいなものだから」
こらっ、とスミレちゃんはハルを窘《たしな》めた。ハルは悪びれる様子もなく、だってほんとのことだもーん、と言った。
それから空になったココアのカップを持ってシンクに向かうと、カップをさっさと洗って冷蔵庫のドアを開ける。コロッケでしょ、とスミレちゃんに確認して、冷蔵庫からキャベツを取り出すと細く千切りにし始めた。
僕は空になったカップを気がつけば握りしめていた。
「ハル、料理するんだ?」
「だって二人きりだし。アキはしないの?」
「帰るとほとんどできてるし」
「ああ、サクラさんは専業主婦だもんね。お料理上手だし。愛情だね」
考えてみたことがなかった。僕が夕食の支度を手伝うこと。母さんはそんなことより勉強したらって言いそうだけど、きっと喜ぶに違いない。
僕だってカレーくらいは作れるはずだ。
いつも甘えてばかりだったんだな、と少し恥ずかしく思う。そして今頃、母さんは父さんに甘えられているといいなと思う。
母さんは父さんにきっと今でも恋してる。
父さんの話をする時の声のトーンが違う。
父さんが今日みたいに早い日は、連絡が入るとそわそわして落ち着かなくなる。
⋯⋯大人も恋をするんだな、と不思議な気持ちになる。母さんは今頃、きっと女子高生のような顔をしてるんだ。
思わずハルをじっと見る。
「なに? 圧がすごいんだけど。大丈夫だよ、ちゃんとできるよ。ねぇ、ママ?」
ふふふっと笑って「どうかなぁ」とスミレちゃんは曖昧な返事をした。ハルは「意地悪」と言いながら、コロッケを揚げていた。
なんだ、思ってたより二人の仲はいいんだな、と確認する。それなら寂しいなんてことはないし、僕の出る幕はなさそうだ。あれは、ほんの一刹那の寂しさだったのかもしれない。
「手伝いましょうか?」と言うと、お皿を出してほしいと頼まれて、いつもやってもらってばかりだったことに思い至った。
母さんが時々「女の子もいいわよね」とハルを見ていた気持ちが少しわかり、申し訳ない気持ちになる。
「うちで使ってるソース、特別なの。ちょっと高いんだけどわざわざ取り寄せてるんだ。美味しいんだよ」
ハルが無邪気にそう言った。
仲のいい二人の動きを見ていると、心が温まる。心配は安心に変わる。
コロッケは不思議なほど、うちのとまるで同じ味だった。
じゃがいもに挽肉が入って、ほんのりバター風味で。そしてシナモンが入っている。
「そんなに似てるかしら?」
スミレちゃんは素っ頓狂な声を上げた。
ハルは笑った。
「じゃあわたしたちの食べてるものって、結構みんな味付けが似てるかもね、どんな料理でも。離れて暮らしてるのに不思議だね」
全く持ってその通りだ。
こんなところで二人が一卵性双生児だということを思い知るなんて。やっぱりDNAが同じなんだ。すごく不思議だった。
食卓は食事を終えるとすぐに片付いて、ハルは「少し時間あるよね」と言った。スミレちゃんは「しょうがないわね」と要するに肯定した。
僕はハルの部屋に連行された。
「あー、お腹いっぱい」
ハルはそう言うと、ベッドにバタンと飛び込んだ。見事なフォームだ。
それから僕をチラッと見て「胸もいっぱい」と言った。
えーと、こんな時はどんな風に返したらいいんだろう? 僕の中はえーとでいっぱいになってしまい、ゴロンと横向きに転がったハルの胸に、どうしても目が行ってしまう。
ハルはなにを考えているのかわからないけど、たぶん、僕と同じような気持ちになっている。顔にそう書いてある。
なぜかどっちも喋らなくて、と言ってもいつもハルが喋るわけで、要するに僕は待っていた。
「⋯⋯沈黙もいいね」
え!? 気まずいだけじゃなくて?
「アキといると安心する。なにも喋らなくても」
「そうかな?」
「そうだよ。ずっと一緒にいるんだもん。心は通じてるから」
「ああ、まぁ、そうかも」
僕は床に体育座りをして、ハルを見ていた。ハルはお気に入りらしい、僕とお揃いのシロクマのぬいぐるみをギュッと抱いた。
なんだか記憶が回帰していくような、妙な気分。
「一緒に買ったよね」
「うん」
「今も······ううん、なんでもない。男の子はこういうの大事にしなくても気にしなくていいんだよ。思い出はわたしのクマちゃんに宿ってるから」
違うよ、という言葉は飲み込んだ。
喉の奥を刺激するように落ちていった。
なぜならハルは、その誤解した状況を楽しんでいるように見えたから。だからなにも言わなかった。
ハルの中では、あの一体のぬいぐるみに二人分の思い出が詰まってるらしい。それならそれでいい。
シロクマを抱いた両手はするりと片方離れて、僕を傍に来いと招く。不審に思いながら、おずおずとハルに近づく。
横たわったハルの頬は透明で、汚れたところはまるでないように見えた。
――あ。
女の子ってそんなに力が強いかな、とちょっとズレたことを考えながら、僕はハルの上に重なるように倒れた。
やわらかい、それが最初に感じたことだ。
僕のひょろひょろな体が降ってきたのに、ハルの体はやさしくそれを受け止めてしまった。
「重くないの?」
聞くべきことはそこじゃない気がする。
もう子供じゃないんだから、絡まりあってゴロゴロ転がるってわけにはいかない。それだけで嬌声を上げる歳ではない。
いや、これは困るって。顔がどんどん熱くなる。
僕の顔は彼女の首筋近くにあって、産毛まで見えそうだ。なぜか甘い透明なシロップみたいな香りがして、動揺する。
近すぎる、絶対。
ひとり、パニックに襲われているとハルはシロクマをごろんと手放しで、僕の背中に両手を回した。
そして「ハグするって、こんな感じなんだね」とボソッと囁いた。
僕は軽く「うん、そうだね」と言ったりはできず、ただただ、高まる熱量を抑えることに集中していた。
なにも知らなかったはずなのに、次にすべきことをもう脳は知っているようだった。
そんなことできない、という気持ちと、それをしてしまえという気持ちが拮抗してますます困惑する。
「ギュッてして」
呟いた女の子は、それはハルではなかった。
ひとりの、やわらかい体を持った知らない女の子だった。
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