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第19話 雨、学校を休む

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 翌朝、新しい朝がやって来て僕はいつも通り、家を出ようとした。
 すると母さんが走ってきて「急な雨が降るかもしれないって。折り畳み、持って行って。それから雨になったら迎えに行くから、自転車は学校に預けて学校で母さんのこと、大人しく待ってるのよ」といつもの定型文を告げた。
 大体母さんは心配性なので、ちらっとでも雨が降れば『お迎え』だ。
 自転車で家まで十五分、かかるか、かからないかくらいの距離なのに、言うまでもなく過保護。
 母さんは僕が女の子を連れて現れたらどうするつもりなんだろう?
 それとも僕は一生独身を貫くタイプだと思ってるんだろうか?
 わからない。
 母さんは『なんでもあり』の読めない人だから。

 英語の時間、今日やったところを残り時間にワークにまとめて提出、と言われ、変に高級なツルツルした紙の表面を、シャープペンシルの芯の先で引っ掻くように空欄を埋める。
 ふざけてるヤツのところで先生は怒っていて、窓の外を覗き見ると、丁度雨の降り始めだった。
 母さんの予報は今日は当たりだ。
 後で自転車を預けるために担任に話さないといけない。
 ポツポツと降り始めた雨はポタポタと大粒に代わり、雨はいっそう強くなり、こういう時は母さんのお迎えに本当に感謝する。
 中にはレインウェアで帰っていく子もいるんだから。
 そう言えば身の回りが最近にしては静かだと思ったら、菊池さんが休みだった。
 寒くなってきたからなぁ、と思う。風邪には気を付けないと。受験生のハルにうつすわけにはいかない。

 放課後、掃除が終わって帰ろうと昇降口に向かうと、昇降口手前の職員室前で母さんが待っていた。
 何事かと思って、息を潜めて考える。
 母さんはバッグを両手で握りしめて、職員室の中を見つめていた。まるで憎い仇でもいるかのように。
「どういうことですか?」
 いつもの、ヒステリックな声が響く。スミレちゃんより少し高い母さんの声は遠くまでよく届く。
 子供の頃、僕たちを呼ぶのは母さんの役目だった。
「どういうことですか? うちの陽晶に問題があるということですか?」
 初耳だった。
 なにかあったら母さんより僕に直接、先生は話を持ってくるはずだ。
 先に母さんに話すなんて、イレギュラーだ。
「母さん」
 僕は努めて冷静に呼んだ。振り返った母さんの顔は今にも泣きそうだった。
 こういうのは本当に母さんには向いてないんだ。
 メンタル強い他所のお母さんたちと一緒にしないであげてほしい。
「母さん、大丈夫だよ。僕が話をしてくるから、その間、車で待ってて。なにかあったらすぐ連絡するから、スマホが鳴るようにしてて」
 母さんは頷くと、すみません、と担任に頭を下げた。
 ウェーブのかかった長い髪はひとつに括られていたけど、雨に濡れてしっとりしていた。車からここまで走ってきたんだろう。

 職員室の入り口前は僕と先生だけになった。
 先生は入り口から手を伸ばしてなんらかの鍵を手にした。そして、行きましょう、と僕を促した。
 相談室の扉が開かれ、先生はドアの看板を『相談中』に変えた。
 沈黙。
 雨の音しか聞こえない。
 先生もどう出るのか考えているようで、喋らない。
 沈黙は時を早送りするような気がして、その時間の浪費に焦る。
 はぁっ、と先生はため息をついた。
 先生は英語担当で、母さんと歳の頃は同じくらいに見えた。僕より小さい子供が二人いると、いつか話していた。
 横顔が疲れて見えた。母さんと被る。
「なにもね、小石川くんのせいじゃないのよ」
 唐突に話は切り出された。
 僕はその圧に少し押された。
「お母様が迎えにいらっしゃったの。だからちょっとお話ししたの。冗談半分だったの。『小石川くん、女子に人気なんですよ』って」
 それは大変な地雷を踏んだものだ。
 母さんはハルでさえ疑っているのに、先生の口ぶりではクラスの女の子何人かが少なくとも僕に気があるみたいだ。
 母さんの顔色がみるみる青くなっていくのを目にした気がした。

 雨は時々風に煽られて、ガラス窓をバラバラっと叩いた。
 母さんはどうしているだろう?
 ハンドルを握りしめて俯いているかもしれない。
 アイドリングストップを守った車内で冷えているかもしれない。
 どちらにしてもこの問題をクリアにしなければ。
「先生はご自分のお子さんが同じように言われたら、どう思いますか?」
 割と卑怯な作戦だ。相手の良心を動かそうとする。
「わたしはうれしいわ。それだけ魅力的な子に育ったってことでしょう? 違うかな? 他人に認められるって素晴らしいことじゃない」
「うちの母さんはそうじゃないんです。上手く言えないけど、すごく感受性が高くて、いきなりいつもと違うことが起きることに慣れてないんです」
 そう⋯⋯とまるで理解していない顔で担任は同情を示した。
「それじゃ、小石川くんも大変ね」
「そういうことはないです。ほら、今日みたいな日は迎えに来てくれるし、母さんは僕を大切にしてくれてるんで。友だちにもたまにうらやましがられます」
「そうなのね」
 雨の降る音が僕の心を逸らせる。
 こういう時の母さんをひとりにしておきたくない。
 せめて、スミレちゃんに話ができれば母さんも落ち着くのに。

「そういうわけで、母さんが待ってるのでいいですか?」
「あ、待って」
 担任は椅子から急に腰を上げた。
 座っていた丸椅子が飛びそうになり、慌てて押さえつけた。
「長引かせたいわけじゃないの。先生も雨の日は早く帰りたいしね。あのね、菊池さんの今日の欠席のこと、なにか知ってる?」
 頭の中が沸騰して蒸発しそうだった。
 そんなことのために僕と母さんはこんな目に遭うのか?
 まだ一日休んだだけだし、不登校でもあるまいし。
「なんのことなのかわかりません。風邪じゃないんですか? 最近、寒くなってきたし」
「一応、親御さんからは風邪って伺ってるんだけど、一部の女の子たちがね、昨日の放課後、昇降口でなにかあったみたいだって教えてくれて」
 ああ、あの時の。
 派手に泣いてたからなぁ。目立たないわけはない。
 女の子たちはああいう時、共同生命体のようになる。
 ミトコンドリアみたいに、薄い膜の中でひとつの生命体のような動きをする。
 それを卑怯だとは思わないけど、今日は勘弁してほしかった。

「菊池さん、小石川くんのこと、好きなんだってね。もちろん中学生の範疇を越えなければ恋愛は自由よね。思春期には付き物だし。ただ、度を越すとね――」
「先生はどういうふうに聞いたのか知りませんが、僕から言うのもどうかと思うけど度を越してるのは菊池さんの方で、僕が何回断っても納得してくれないんです」
 すごく嫌な気分だった。
 他人の弱点を思い切り突いたような、そんな卑怯者になった気がした。
 菊池さんには困らされてはいるけど、だからと言って彼女がどうなってもいいわけじゃないし、僕自身が巻き込まれてなければ多少の同情もしたかもしれない。
 でも僕は彼女に何度も警告したし、それを無視して僕の領域に入ろうとしたのは彼女なわけで、それが許されて僕が詰問を受けるのは少し違うと感じた。

「そうなの? それは聞いてないわ」
「もし先生が知りたければ菊池さん本人に聞くべきじゃないですか? 不純異性交友しているわけじゃないし、先生が本人に頼まれてもないのに口を出すのはどうかなと――ごめんなさい、言い過ぎました。カッとしちゃって」
「そうよね、ごめんなさいね。菊池さんから相談を受けたわけでもないのに、こんなやり方、ないわね。気をつけるわ。ただ、高校受験が視野に入ってくる大切な時期だからどうしても神経過敏になっちゃって」
 ごめんなさいね、と先生は繰り返した。
 ――本音を言うと、僕はこの担任教師を好きになれなかった。なにかと言うと、僕たちより少し幼いという自分の子供の話を引き合いに出したり、プライベートと公の場の線引きができていないところは僕を閉口させた。
 先生の子供がズル休みしても、それは『お母さん』の時に心配することで、生徒たちに相談したらもう『先生』ではないと思っていた。
 道徳の時間に自分の子供の話を引き合いに出すなんてどうかしてる、とずっと思っていた。
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