インディアン・サマー

月波結

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第9話 友だちから始めたら?

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 シャワーを浴びて、乾いたベッドの上でようやくさっぱりする。
 面倒くさくてまだ髪を拭いていない。
 同じくきちんと拭かれていなかった彼女の濡れた黒髪を思い出す。Tシャツの上からいつもよりはっきりわかった胸の膨らみも⋯⋯。
 なんでそれとこれがセットなんだよ。
 ハルを汚したみたいで心の中で謝る。ごめん。
 頭の中が混線する。
 あれがハルなわけじゃない。
 でもハルの一部なわけで。⋯⋯触ってみたい気がする。
 ごめん。

 ご飯ができたと呼ぶ声が、階下から聞こえてくる。
 大声で返事をして、横たわっていた身を翻した。
 と、着信音が響く。ハルだ。
『どうしたの?』
 少し間があって、返事が来る。
『サクラさんにお礼を言おうと思って』
『直接言えばいいのに。変わろうか?』
『ちょっと待って! いいの、それは』
 よくわからない。女の子あるあるなのか?
 鼓動が高まる。
 次の言葉が、その言葉が出る前の吐息が聞こえるように耳をすませる。
『ありがとう。プラネタリウム、すごく楽しかった。なんか最近、素直になれなくてごめん。アキだからって言わなくても伝わるわけじゃないもんね。また誘って』
 それじゃね、と短く言って電話は切れた。
 僕は今あったことを簡単には咀嚼しきれなくて、スマホを耳から離せずにいた。
 でもそれ以上、耳にいい声が届くことはなかった。

 翌日は嘘のように晴れて、太陽はなんの邪気もなく笑った。
 母さんが、水溜まりがあちこちにあるだろうから車で送って行くと申し出てくれたけど、丁重にお断りした。
 まだ濡れた路面を自転車で走る。
 青空が時折、路面に反射する。
 眩しい。九月がまだ夏の最中にいるみたいだ。

 教室に入ると賑わっていた中からひとりの女の子が勢いよく立ち上がって、僕の方に歩いてきた。
 なんか怖い。
 頭をフル回転させて考える。なにか悪いこと、したかな?
「小石川くん」
「あ、おはよう、菊池さん」
 思い出した、昨日のこと。すっかりハルのことでいっぱいになってて頭からすっぽり抜けていた。
 それもそれで失礼じゃないか? もうひとりの僕が突っ込む。
「廊下、いいかな」
「あ、はい」
 覚えている限り、ほとんど話したことはない。
 卒業式のように、彼女の後ろを二人きりの列を乱さないようについて歩く。

 程よくほかの子たちと離れたところに落ち着いて、菊池さんはようやく口を開いた。
「あの、ほら、昨日唐澤が」
 ああ、かわいそうな唐澤。思い出した。
「僕に彼女がいるかってこと? ちゃんと答えたよ」
「うん、それを聞いたから⋯⋯」
 菊池さんは今どき、伸ばした髪を二つにきっちり分けて細く長い三つ編みにしていた。その細い三つ編みの先を指で弄る。三つ編みの間に、俯いた真っ白なうなじが見える。肌の白さは真珠のようだ。
 ハルとは違う女の子なんだな、と思うと急に緊張してくる。
 ハルは卒部したけれど弱小テニス部で楽しく三年間を過ごした。日焼けした肌がまだ白いシャツに映える。
「あの、ほとんど話もしたことないけど、迷惑じゃなければお友だちになってもらえませんか?」
 突然のことに息が止まる。
 代わりに頭の中が大変なことになって、事態に収集がつかない。

 いや、おい待てよ。彼女はいないと言ったけど、僕にはハルが――。ハルは僕に女ともだちができたと聞いてもなんとも思わないかもしれない。
 あの日、スマホで時間を確かめて消えていった後ろ姿を思い出す。
「好きな人は、いる」
「え?」
 彼女の火照った白い頬は瞬く間に蒼白になり、大きく開いた瞳の青みがかった白目がキレイだなと発見する。
「ずっと好きな人がいるんだ。彼女ではないから昨日は言わなかったんだけど」
「同じクラスの子?」
「ううん」
「同じ学年?」
「ううん」
 だったらどうすると言うんだ。
「⋯⋯同じ学校?」
 その、今にもこぼれそうな涙目でそれを聞くのか。
 めんどくさそうな流れになって、これが巻き込まれってやつなんだなと認識する。
「学校が違うなら、友だちでいてもその人にはわからないと思う。ダメかな?」
「うーん」
 こんなにか細いタイプなのに、押しが強い。唐澤が手を焼くのもわかる。同情する。
 もうすぐ予鈴が鳴る証拠に、廊下で喋っていた子たちがバラバラとそれぞれの教室に帰っていく。
 うーん。
 僕はにわかに焦れてきた。こんなところに二人きりでなにをやってるんだ。僕から話すことはない。
「菊池さん、少し考えてみるから、菊池さんももう一度よく考えてみてくれる? ほら、もう時間だし」
 あ、大変、と彼女はまたねと言い残して小走りに席に戻った。

 なんてことだ。

 確かに僕に女の子の友だちがひとり増えたところでハルは「ふーん」とも言わないかもしれない。
 こっちを見もしないかもしれない。
 僕の学校生活に興味なんてないだろう。
 そもそも受験生だし、これからますます勉強に本腰を入れなくちゃいけないわけだし、些末なことに気を取られたりしない。
 サーブを待つ時の、前傾姿勢の彼女を思い出す。その目は目標をしっかり捉えている。
 ボールがバウンドする前に足が反応して走り出す。
 そんな彼女だから、志望校目指してしっかり勉強と向き合うだろう。
 たった一個歳が違うだけで、物事の捉え方が全然違う。大きなハンデだ。
 追いつきたいと思って追いかける。
 だけど彼女も同じくらいの速さで走っている。
 追いつけない。
 縋ることもできない。
 置いていかないで――。
「指されてる」
 佐野の言葉でパッと目が覚める。英語、そうだ今は英語の時間だ。
「小石川くん、五行目」
 頭がようやくついて来る。ああ、こんなんじゃダメだ。ただでさえハンデがキツイのに、ハルに相応しい男にはなれない。

 自転車のサドルにはなにも乗っていない。ハンドルを握って、僕は自転車を動かしている。
 真っ白い頬は微かに紅い。元々なのかもしれない。余計に肌が透き通って見える。
「そうなの、一つ歳上なんだ。それはハードル高いよね」
 どうして尋問じみた相談みたいなものをしているのかわからない。女の子ってやっぱり皆、魔法を使うんじゃないか? 僕の知らないことを絶対知ってる。
 彼女の自転車も平行に引かれていて、僕たちは学校下のほとんど車が通らない道を、もしかしたら通るかもしれない車の邪魔になるように塞いでいた。
 こんなことがしたいわけじゃない。
「そうなんだ、ハードル高いからこっちも必死なんだ。だから悪いんだけど」
 ピタッと彼女は立ち止まった。
「ここまで来て、他人行儀ってないよね? 友だちだよね? 秘密を共有してるもの」
 マジかよ? そういうのアリかよ。
 唐澤、お前なんとか言えよ。どうせ小さい頃からずっと好きだったりするんだろう?
 じゃなきゃこの年頃で、女子とやたらに口きいたりしないよ。
「まぁ、そうかもね」
 仕方ない、事の流れだ。
 受け入れるしかないような気がしてきた。
 まさか自分がこんな目に遭うなんて思ってもみなかった。
 成績はまぁ程々、背も中途半端、顔は······自分ではなんとも言えない。母さんに似てるとはよく言われるけど、母さんは確かに美人の部類に入るかもしれない。
 でもそれ以外、僕にはなにもない。
 ハルだけが世界のすべてだ。
「あの、お願いがあるんだけど」
 今度は急にしおらしくなる。女の子ってマジでわからない。高速回転して思考してるんじゃないのか? そうでなければ僕とは時間の速さが違うのかもしれない。
「今度、わたしのためにピアノを弾いてくれない?」
「······ピアノ? なんで? 弾けないよ?」
 そういうのが流行ってるのか?
「弾いてたでしょう? 小学校の合唱祭の伴奏。あれ練習してた時、男の子たちにせっつかれて弾いたじゃない、『エリーゼのために』」
 あ、思い出した。最後の発表会に向けて練習してた時。
「あれって片想いの曲なんでしょう?」
「そうなの?」
「知らないの?」
 知らないなぁ、と頭の中で曲を流してみる。あの有名なフレーズの後、跳躍するようなパート、めちゃ暗いパートが続いて最初のフレーズに戻る。僕の好きなのは暗くて重いパート。和音がいい。
 恋か?
 ハルはその発表会に来た時「有名な曲弾けるようになったのに」と言った。
 僕にはピアノに特別な才能がないことはわかりきっていた。母さんの勧めで続けてきたけれど、中学に入る前にバッサリ辞めた。
 母さんも「残念ね」と言った。

 あの曲が恋の歌だと知ったら、昔よりもう少しベートーヴェンと親しくなれたかもしれない。
 跳躍するような気持ちと、地に落ちたような気持ち、今ならわかるような気がする。
 アイツも苦労したんだな。
「憧れてるの、お願い!」
 やっぱり押しが強い。この人は引くことを知らないまま、ここまでこの可憐な外見で生きてきたんだな。
「ごめん、それは無理。かなり練習しないと今は弾けないから。中学入ってから一度も鍵盤に触ってないんだ」
 彼女は今日何度目かの「そうなんだ」を呟いた。しかも今回のはかなり絶望を感じているようだった。
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