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三章 ランの誇り
第十九話
しおりを挟むリィディは相変わらず何も言おうとはしなかった。私は色々と話したい事があったのだけど、リィディの蒼白な顔の迫力に気おされて何も言えない。
リィディの様子からして、男の人はリィディの知っている人には間違いないと思う。男の人とリィディがどういう関係なのかが気になった。
一種異様な雰囲気はそれからしばらく続いた。リィディも、私も喋らない。外に降りしきる嵐と暖炉の火がはぜる音がするだけ。
その均衡を破ったのは、男の人だった。
「う…」
呻き声をあげたかと思うと、男の人は眼を覚ましたのだった。
「こ、ここは…」
しばらく部屋の天上を見てぼうっとすると、上半身を起こした。その眼が私達に止まる。
「リ…」
途端、リィディは男の人から顔をそむけた。
「リィディ!リィディなのか!」
男の人は震える手をそろそろとリィディに突き出し、リィディの肩をつかんだ。
「……」
しかしリィディは肩をつかまれてなお、男の人の顔を見ようとはしなかった。
「リィディ、リィディだろ…ずっと――ずっと――探していたんだぞ…あの日、忘れもしないあの日、お前が突然いなくなったあの日から――」
「……」
リィディの眼は怯え、虚ろな光をたたえていた。男の人に肩を揺すられながら、人形のように首をかくかくと動かしていた。
「コリンズ…どうして…」
いつも健康的な桃色が白い肌に映える、リィディの唇はやや青ざめて、かすかにそれだけをうめいた。コリンズ――聞いた事のない名だった。
「…お前が――魔女になったという噂は、やはり本当だったのか?村で一番の年寄りのレンヤ婆が繰言のように言っていた――誰も信じなかったあの言葉が、本当だったのか?魔女は時の経つのが遅いのだという。
――ああ…お前は全くあの時のままだ、五年前のあの時と…俺は、俺はあれから五つ歳をとった。だが、この歳になっても妻をもらわなかったのはずっとお前を探していたからなんだ、リィディ――!」
コリンズさんの熱のこもった言葉も、リィディは聞いていない様に見えた。
「ラン――」
「…何、リィディ」
「ごめんなさい…席を外してくれる…?」
「わ、わかった…でも、大丈夫?」
「ええ、ええ…大丈夫だから…」
「……」
私は椅子を立った。ドアを開けて廊下に出ると、廊下の窓の鎧戸に雨が殴り降る強い音が聞こえた。
うなるような音と雨の音、そんな嵐の様相が何故か私の心に動揺をかきたてた。
そういえば――そういえば私はリィディが人間だった頃どんな暮らしをしていたのかなんて、ちっとも知らない。あの人はリィディにとってどういう人だったのだろうか…。
突然の来訪者、突然の運命、そしてリィディの過去――。
二階の私の部屋に行く為の階段。私はその階段の前で脚を止めた。知りたい、という強い欲望が下に降りるなと私を縛る。その命じるままに私は階段を引き返すと、リィディの部屋のドアの前に戻った。
ドアの脇に膝を抱えてうずくまると、後頭部を壁につけた。鎧戸の外に聞こえる嵐の音は一層激しく、部屋の中の声は聞こえない。
(風よ、風の精霊よ、私に音を運んでおくれ)
私は風の精霊に囁きかけた。聴力の増す呪文。
(リィディ、ごめん)
部屋の中の声が聞こえた。コリンズという男の人の声だ。
「どうして、どうしていなくなってしまったんだリィディ!俺達はずっとずっと恋人のはずじゃなかったのか?豊作を祝う村祭りの時、星降る聖夜の元でお前に誓った俺の気持ちに全く偽りはなかった。お前も俺の気持ちを受け止めてくれたじゃないか!」
「コリンズ…そうね、孤児の私と昔からずっと遊んでくれたのはあなただったわね、落ち込んだ時は励ましてくれたし、あなたがいるから頑張れた時もあった。そう、あなたは確かに私の支えだったのよ!
あなたが私を好きだと言ってくれた時、私どうしたらいいのかそれさえわからない程に嬉しかった。あの漆黒の空に蒼く星が瞬く夜に誓った言葉。私だってそれを無くしてしまうなんてしたくなかった!
――でもあの日は、私にとって突然、そうあまりにも突然にやって来た。満月の妖しく輝く夜、激痛と消耗を伴う高熱、死を感じた夜。魔女になる事を運命付けられた者だけが通らなくてはならないあまりにも辛く長い夜。私は次の日目覚めた時はこの塔にいたのよ。そして塔の老魔女に、私が魔女になるという定めだったという事を聞かされた。私の体はもう魔女の身体になってしまったのだって!
私、そんな事は全く信じられなかった。魔女の使命だなんて言われても、私が何故いきなりそんな運命に巻き込まれなきゃいけないのって思ったもの!熱が下がりきってからだが回復したら、私すぐにだってあなたの所に帰りたかった。だけど、だけどその時に私は気付いてしまったの――いつの間にか私はあなた達とは一緒に暮らす事のできる身体ではなくなっていたんだって。
精霊の声が聞こえ、あらゆる魔女の魔法を使う事ができる。こんな私が、私がどうして再びあの村の生活に戻れるのだろう!逃れようのなかったあの運命を程呪った事はなかった!幸いにして今私には二人の家族とも呼べる存在が見つかった事は―――あっ」
静かな海が突如荒れ狂う様に、激しくリィディの独白がなされた。そして壁越しの今の彼女はまさに外の嵐のように――激しく狂おしい激情に身を委ねていた。
私は彼女がそんな態度を取るのを見た事がなかった。
そんな彼女を引き出したと言うべきコリンズさんという存在は、リィディにとって明らかに重大な存在であった。いつも私が見るリィディはお姉さん役をしてくれるリィディ、だけどコリンズさんはリィディにとって対等であるとか、本心を言い合える関係なのだ。
リィディの言葉を遮ってぎゅうっと締めるようなかすかな音が聞こえた。
長い沈黙――。
「は、離してコリンズ…」
「離さない!絶対に離さない」
「……」
胸がドキドキとする、何故だろう。私は頬に手を当てて火照りを感じながらも、息を抑えて、彼女達の沈黙と感情を一緒に感じているような気持ちでいた。
「……」
スッと、何かの動く音。そして布と布の擦れ合う音。
僅かにぎゅうっという音が強く、二つになった。互いに互いを引き寄せ、抱きしめあうかすかな音――。
「そんな運命なら、俺が引き受けてやる!そんなもの気になんてしないさ!離さない、もう二度と、絶対に離さないからな、リィディ――…」
「ああ…コリンズ――……!」
「……」
(あっ)
それは小さな、呟くような呪文。
眠りの精霊を呼び込む魔法の言葉。
ドサッと、ベッドに何かが倒れこむ音。
「……」
(……)
「…コリンズ…ごめんなさい…私、私、今はもう芯の底から魔女なのよ――」
言葉の最後は、もう呻き声だった。苦しみを口から吐き出すかのようなリィディの言葉が、私の胸に深く届く。
私はうなだれたまま立ち上がると、そっと階段を降りて行った。鎧戸の向こうに聞こえる嵐の音は、なおも強く、激しさを増していた。
(リィディ、どうして…どうして…?)
*
「ラン、私この人を元いた場所に帰して来るわ。この人はどうやらこの森に迷い込んでしまった人みたいだから」
「…そう…」
八月十七日の朝、雨は止んでいた。
私にとっては魔女を捨てる決断をしなくてはならない満月まで後二日の朝、リィディは私の部屋を訪れてそう言った。
「あの男の人…リィディの知り合いだったんでしょ?」
言おうか言うまいか迷っていた事を言った。だけどどちらにしろ、私もあの男の人がリィディの名前を口にした事も、リィディが男の人の名前を呼んだ事も知っているのだ。
「…そうね――遠い、遠い昔の…知り合い…。でも…今の私は…もう彼にリィディと呼んでもらうには住む世界があまりに違うもの…ここでの記憶を消して、彼の元いる場所へと帰して来るわ」
リィディはうつむいてそう言い、部屋を出て行こうとした。
「リィディ!それでいいの?」
言葉にしては、そうとしか言えなかった。
(リィディの白い肌、眼の下に泣きはらした痕があるよ。一晩中、ずっと泣いていたの?いつも私にとって気持ちを強く持って、落ち着いていたリィディが?リィディ、あなた本当は悲しいんじゃないの!)
後に続く言葉を言ってはいけないような、人の悲しい決意を踏みにじってしまうような、そんな気がしたから――。
リィディは背中を向けて首を横に振って悲しそうな眼をした。
「――悲しいわよね。ラン、私もあなたも。どうして私達、ルピスに選ばれたのかな。もし魔女じゃなかったら、こんな思いしなくてもよかったのかしら――」
「リ――」
心を鉄の棒で思いっきり殴られたような、そんな体中を駆け巡る震動が私に降りかかった。
リィディも、私にとってはいつも頼れるお姉さんであるはずのリィディだって、やっぱり私と同じ様な悩みを抱えているんだ…。
ずっとコリンズさんの事が心に引っ掛かっていて…それでもめげずに魔女をやっていた――あんまり私が子供過ぎて、自分の事しか見えなくて、気付いてあげられなかった――。
――私は、最低だ。最低のわがままな妹だ――。
「でも――」
「え」
リィディの言葉に自分の世界に沈んだ私は、再びリィディの言葉で現実に引き戻された。
「――私がそれでも魔女を続けるのは、私が魔女を続けたい理由が、あるから」
「リィディ」
「明後日にはコリネロスも帰って来るわ。私も明日の夜までには帰ってくるから――」
「待って、リィディ!」
だが弱々しい笑みを見せて、リィディは部屋を出て行ってしまった。私は出しかけた手を引っ込めると、再び思案に暮れた。
魔女を続けたい、理由?
人間とは一緒にいられないのに?親しい人との別れや、辛い事が沢山あるのに?
リィディが言った魔女を続けたい理由、それが何なのか、私にも見出せるものなのか、いくら考えてもわからなかった――。
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「嫌な天気だねぇ」
八月の十八日。魔女を捨てるかどうか、決断を下さないといけないのはもう明日だ。
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