ベイロンドの魔女

路地裏の喫茶店

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三章 ランの誇り

第十六話

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 バラの香りが鼻をくすぐったような気がした。深い所に落ち込んだような感覚が、急速に引き寄せられるのを感じる。私は重たい四肢を僅かに動かすと、ベッドの上に寝ているのだと知った。

 石造りの古びた部屋。そこは昼の暑い日ざし射し込む塔の三階、私の部屋だった。

長い夢を見ていた。すごくすごく長い夢を。夢の詳細は眼が覚めて足早に消え去りつつあるのに、生々しさは残っている。

――あれは、昔の夢だった――。

 この塔に来てからあまりにも忙しくて、感じる事が多くて、思い出す事も最近は少なかった昔の事を、今更どうして見たのだろう。

 胸に手を当ててみる。うすぼやけた夢の余韻に、胸が心持ち早く鼓動していた。

 そうしてベッドの上に静かにしているうちに、私は徐々に記憶をはっきりさせていく。

 そうだった。私はあの後――リィディにベイロンドまで連れて来られたのだ…。

私はまだ重さを感じる体を起こすと、ベッドを降りた。そうして靴を履き、一階のホールへ続く階段を手すりに支えられながら降りていった。

「ラン」

 二階から一階に続く階段に差し掛かった時、二階の食堂の方から声をかけられた。リィディだった。

「あなたまだ寝ていた方がいいんじゃないの?」

 彼女はぱたぱたと向こうから走り寄ると、ぐらつく私の体を支えた。

「ううん…もう大丈夫みたい」

「とにかく、コーヒー入れてあげるから食堂の椅子に座ってなさい」
「うん、ありがとう」

 私は言われた通りにテーブルの椅子に腰掛けた。リィディはお湯を沸かしてコーヒーの準備を始めた。

「コリネロスももうすぐ来ると思うわ。今薬を調合しているのだけれど、もうすぐ終わるって言っていたから」
 リィディはコーヒーを私の前に出しながらそう言った。私は彼女の名前を聞いた途端に僅かに体が強張った。

 私はあんな風な仕事の終わり方をして、いいとは到底思えなかった。コリネロスはリィディから事の顛末を聞いているだろう。

 あの時、無我夢中でミシェランを禁呪で封じたけど、その後街の人達は、私を恐怖に怯えた眼で見た。中でもアバンテに、アバンテにまで恐怖を与えてしまった事が私の心を締め付けた。人々の暴動が始まりかけた頃、アバンテは人込みに紛れ込んでしまっていた。その人の波に巻き込まれる瞬間に合ってしまったアバンテの眼は、確かに怯えた眼だったのだ。その時私は、全ての心の支えを失ったような気がした。

私はコーヒーを一口二口飲んでその色を眺める。私――魔女はこの黒と、いやもっと深い色の黒と同じだ。私はもう、魔女だったのだ。シェナで会う人達全てが新鮮で、優しくって、暖かさを感じていた。セラノやアバンテ、マンカートさんの笑う顔が好きだった。

私もそんな人達に囲まれてその雰囲気の中にずっといられるかと錯覚していたのだけれど、それは私の中に流れる魔女の血が、このまがまがしい力が許してはくれない。黒は何色とも相容れない。

 急激な運命の変化の果てにもたらされた魔女という事実。私は私と言う存在が、何の為にいるのか。それがずっとわからなくて、知りたくて、それが魔女であるという事だと思っていた。
魔女の仕事が人間と精霊の橋渡しだという事を知って、初仕事を遂げる事で、自分が魔女をやっていけるのだという事に確信を持ちたかった。

だけど…今の私にはあの街の人達の眼が、強く重く私の胸にのしかかって動かない。あの眼を思い出してしまうだけで冷ややかな汗が出てくるのだ。何の弁解も、初めから受け入れてもらえるチャンスすらないあの眼は――夢に出てきた眼に似ている。

 駄目だ…駄目だ!私には耐えられない。

 

「セラノの、セラノの様子を見る事はできるかしら」
 私を静かにじっと見ているリィディに、思い出したように言った。

「できるよ」

 しかしそれに答えたのはリィディではなくコリネロスの声だった。

「…コリネロス…」

 私が塔に帰ってきてから初めて会うコリネロスは、私を叱るでもなく、仕事を放棄した人間に向ける冷ややかな視線を浴びせるでもなく――まるでいつも通りの様子で私のベッドの横まで来た。彼女はベッドの脇の小さな机に目薬を置くと、私に勧めた。

 遠見の目薬だ。

「ありがと」

 私は目薬を少しだけつけると、セラノの姿を、シェナの街を念じた。やがて、遠い距離を超越してセラノの姿がおぼろげに現れ始めた。

 石畳の裏道の宿屋…宿客が引き払った後の部屋の片付けを、念入りにやっているセラノがいた。

 倒れていた時の熱は引いてそうで、頬は血色のいい顔をしている。きっと回復したのだろう、私が前に見た時の様な、きびきびとした元気さが伺えた。

 少しだけ――セラノの表情がかげっていたように見えたのは私の気のせいか――。

「あなた、三日間寝たっきりだったのよ。その間にセラノ君はちゃんと回復できたのよ。あなたのお陰よ」

「三日間?私、三日間も寝ていたんだ――」
 相当に体力と精神力を消耗したのだろうか、私はあの時の高ぶった精神状況と、そして魔力が体中を駆け巡った瞬間を思い出して、びっくりしていた。

「よかった…ちゃんとセラノ、熱が引いたんだ…」
 私は本当にほっとした。これでもう心配する事は…。

「ふん、助けようとした連中に恐れられ、化け物扱いされたってのにまだ心配かい」

「コリネロス!」

 私ではなく、リィディが早く言った。

「ふん、まあいいさ。ラン、後で占いの間においで」

「はい…」

 コリネロスはそっぽを向くと、目薬を持って行って階下に下りて行ってしまった。

「ラン、あなたのその気持ちは…」
「リィディ…私は、コリネロスの励ましを裏切ってしまったのだから…」

「…」

 私がそう言うとリィディは何か言いたげに、私が飲み干したコーヒーカップを下げると部屋を出て行った。

「後で私も占いの間に行くわ」

「ええ――」

 
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