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三章 ランの誇り
第十三話
しおりを挟むしのつく雨の降る日に、私は馬車に乗せられて村から遠く離れた街へ連れて行かれた。
雨はやがて雪に変わって、全てを染めあげる無機質な白がしんしんと降り注いでいた。
街は灰色の煉瓦に囲まれた、古い街。広く入り組んだその街には人が多かったけど、外壁と同じ様にくすんだ色を見せるその街の空が、私は嫌いだった。
馬車はやがて街の外れにある小学園に止まった。叔父に背中を押されてその小学園に入ると、院長室から一人の老婆が現れた。
「始めまして、院長のフランツです。お話は伺っておりますわ」
紫色のドレスを着たすらりと長身のその老婆は、ぎんぶちが冷たく輝く小さな丸眼鏡をしていた。灰色の髪を丁寧に結い上げ、口を固く結んでいる。
私はその人と初めて眼が会った瞬間から、背筋に何か冷たいものを詰め込まれたような感覚を覚えた。まるで興味のないもののような、むしろ邪魔っけなものを見るような目つきで私に一瞥をくれたのだった。
「―――では、そう言う事でこの娘をお願いしますね」
予め話はついていたようで、軽く話が終わると叔父は私に薄ら笑いを浮かべ、背中をぽんと叩いて私を学園に置いて行った。私はその叔父とその後一度も会う事はなかった。
「――私の事は院長先生と呼ぶ事。いいわね。さて、ランと言ったわねぇ、始めにあなたに言っておきますけど、あなたは他の生徒と違って入学金や学費を払っての入学ではないのよ。だからあなたにはその分の仕事をしっかりとしてもらいます。部屋に行って荷物を置いたら、すぐに私の部屋にまた来なさい。いい事?分かったわね…これ、誰か、誰か!」
フランツ院長は表情を崩す事なく言い放つと、手を叩いてメイドを呼んだ。
「院長先生何でございましょうか?」
「お前、この娘を寮に連れておいき。二階の一番奥の部屋に今は使っていない古い部屋があったろう。そこでいい。荷物を置かせたらすぐに院長室に戻らせるのよ」
「わかりました。院長先生」
年の頃は十七、八くらいの意地悪そうな顔をしたメイドの女の人が「ついておいで」と言い私の手首を掴んだ。
「全くとんだ厄介者を回してよこしたものだよ」
小さく、針のように鋭い老婆の声が聞こえた。
「ここだよ、はいりな」
メイドに案内されたのは小学園に隣接した寮だった。薄暗い室内は床板が歩くたびにきいきいと鳴る。階段を上り二階に行くと、その更に一番奥に汚らしい扉がある。
立て付けの悪い扉を力を入れて開くと、小さな部屋があった。
低い机と華奢なベッド、そして窓があるだけの部屋。そこには長い間誰も手をつける事もなかったのだろう、ほこりだけがひっそりとどこにも積もっていた。
「荷物を置いたらさっさと私についてくるんだよ!」
メイドは私の僅かな荷物をひったくるようにしてベッドに放り投げると、私を再び院長室へ連れて行った。
「ラン、あなたは朝の朝食の準備の仕事から夕方の夕食の後片付けまでを毎日やってもらいます。教科書は渡しておくから、その後部屋で自分で勉強なさいな。――シンディ、あなたはランに仕事を教えなさい。さあ、行くのよ」
フランツ院長は三冊程の教科書を私に渡すと、椅子をくるっと回して私達に背を向けた。
「分かりました。院長先生」
シンディと呼ばれたメイドは恭しく頭を下げた。そうして私は寮のメイド部屋で、学園のあらゆる仕事の説明を聞かされたのだった。
私にはシンディの説明は何も耳に入らなかった。ただ普通に、ちょっと退屈ではあったけど、お父さんやお母さんと共に明るく幸せな日々を送っていた。その両親が突然死んでしまって、親戚が集まっていつの間にかこのような場所に来ていた。
全ての事が余りにも早く流れていくようで、頭がまるでついていっていなかった。私は両親の死を痛み、受け入れる事すらままならなかったのだ。ぼうっとした靄が、頭にかかって離れないようであった。
そうして私の学園生活は始まっていった。
朝早く、かじかむ手に歯を食いしばりながら玄関の前の掃除や朝食の準備に追われた。ついで寮と学園の掃除、昼食の準備に後片付け、夕食の材料の買い付けなど…。そうした仕事が全て終わると泥のように疲れたが、僅かに与えられた教科書で自分なりに勉強した。
両親と暮らしていた頃から裕福な暮らしをしていた訳ではない。だから仕事をするのは慣れていたけど、それよりも辛かったのはメイド仲間や学園の生徒達、そして院長の侮蔑を含んだ態度だった。
シンディを始めとしてメイド仲間は事あるごとに私をそのストレスのはけ口とした。生徒達はどこから聞きつけたのか、私が両親を失って親戚からも見放された孤児だと知ると、廊下ですれ違うたびにこもった笑いを立てた。時には生徒達に悪質な悪戯を受ける事もあった。
私はとうとう我慢がならず院長にその事を告げてみたのだが、彼女は全く何もしてくれはしなかった。むしろそんな些細な事で時間を取らせるなと冷たく言われたのを覚えている。
忙しく、神経の磨り減る生活の中でしかし私は屈しなかった。生徒達やメイド仲間に負けたくなかったとか…そう言う気持ちではなかったと思う。
両親を無くして身寄りが無くなって、誰も頼れない状況になって…ここでくじけてしまったら私は自分でいる事を失ってしまうと思ったからだった。
一日の仕事と勉強が終わり、ぐったりとして机の上で両親の形見を見る。そして思い出す両親の顔。それがもう遠い昔の事のような、村での生活と現実を繋ぐ唯一のものだった。
*
夜空に浮かぶ星座は一日、一日と少しずつ移ろいを見せる。そうして一年が過ぎた時、帰るべき、定められた所に戻るようにして再び星座は同じ顔を見せるのだ。
そう、あらゆるものが運命という名のものに、全ては帰るべき、定められるべき場所へと紡がれているのだろうか。少なくとも私の小さな運命は、この時大きな運命の奔流に差し掛かり、飲み込まれようとしていたのであろうと思う。
それは突然の事だった。学園生活が一年と半年を過ぎようとしたある夏の日、私は高熱を出して倒れたのだ。仕事をする事もできず、ただあえぐような声を出して、朦朧とした意識の中では、倒れて何日が経ったのかもわからなかった。何度眠りに落ちても高熱が出ようとも、治る兆しは無かった。
この時だけは、周りに誰もいないのがこんなにも辛いのかと思い知った。苦しみを感じながらどうしようもなく心細くなって、たまらなかった。体中を焦がすような高熱と吹きすさぶ風にガタガタと音を立てる窓の音以外のものから、私は完全に取り残されてしまったかのような孤独感と不安感にさいなまれた。
倒れて数日が経ったある日、院長とシンディが私の部屋にやって来た。シンディは私の顔を見て落ち着かないような、うろたえた顔をしていた。
「ど、どうしましょう――医者を呼びますか?」
「…馬鹿な事を言うのでないよ。シンディ」
「ででもこのままでは死んでしまいそうですわ!」
「…ふん、死んだら死んだで結構じゃないか。ろくに仕事もできないし、元々が無理やり押し付けられたんだからね!この娘は両親に死なれ、親戚からも見放されて天涯孤独になった娘なんだよ。死んでも誰も悲しみはしないんだよっ。…いいかいシンディ、医者は呼んではならない。わかったね」
「は…はい」
私は頭ががんがんとして、頬が燃えるように熱いのを感じながら、院長のそのガラス球の様な瞳と顔に氷の様な冷酷さを感じた。一年と半年間を通して私を冷ややかに見下ろすその眼に、私は知らず知らず恐怖を抱いていたのだった。
私は死んでしまう。
院長の眼を最後に見たその時、私は何の誇張もなくそう感じ、死と言うものを実感して震えた。私がこの世に生まれてきた意味は一体なんだったのだろうか、院長達が部屋を出て行くのを声も出せずに見続けながら、私はそう思った。
――そして夜が訪れた。
暗く明かりも灯されない私の小さな部屋は、最早死と言う非日常と日常の境界線さえ曖昧だった。
熱はいよいよ高くなり、全身が燃えるように熱い。夜闇がどんなに濃く暗いヴェールを落としても、とても眠りにつける状態ではなかった。衰弱しきった体が、自分のもののようではないと感じていた。
――ふと、
その人に気付いたのは、意識が途切れ途切れになった時だった。
狭い部屋の中、眼を泳がせていると、窓から差し込む月明かりを背景に、人のシルエットが浮かんでいるのが見えた。
「…だ、誰…?」
闇に溶け込んだような漆黒の服と長髪のその女の人はいつからそこにいたのか、何も言わずに私のすぐ傍にやって来た。
黒いワンピースからのぞく顔は対照的に、雪のように白い。端整で落ち着いた顔立ちだ。その白い肌の中に服よりも髪よりも深い、黒真珠の様な輝きと、不思議でそらす事の出来ない力を持った眼が、私をじっとまっすぐ見つめていた。
「…あなたは…このままだと、死ぬわ」
柔らかでなめらかな唇が、眉一つ変えずにそう呟いた。
この人は、ひょっとしたら神か悪魔の使いなのだろうか。私の命の灯火をとうとうすくい取りにやって来た死神かもしれない。私は高熱にもう、夢とも現実とも判断つかぬ状況の中、それでもその人の言葉は奇妙に生々しい現実味を帯びていて、それを感じて戦慄した。
女の人が私の額に手を当てた。氷の様な冷たい感触を感じると、私の意識はすうっと遠くなっていった。
命を、奪われる――。
私は気が遠くなる瞬間、そう思った。白い肌、奇妙な魅力を秘める眼。影のような漆黒の服。まるで、伝説の魔女…。
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