ベイロンドの魔女

路地裏の喫茶店

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二章 深い海の底から

第十一話

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 バァアアアァァッ!


 一瞬本から閃光が、弾け飛んだように溢れた。閃光は宙空で集束し、束になると何者かを紡ぐように重なっていった。

 共に開いた魔女の本から、得体の知れない汚らしい緑色の、数百本の触手が風圧と共に飛び出したのだった。

「きゃああああっ」

 触手はすさまじい勢いで空中に広がり――なんという光景だろうか、その一瞬後には口では何とも――信じてもらえるだろうか、ただ一言で言うならば地獄の様な光景が展開されていたのだった!

 集束された閃光は、次第に小さくなり握り潰されたようにしぼんだかと思うと、今度は轟音と共に膨張した。膨張した閃光はそれ自体が発光を帯びた光の縄のようになり、あるものを形どった。

 それは途方もなく巨大な銀に輝く、口だった。眼もなく鼻もなく、そこにはただ巨大な口があったのだ。まばゆいばかりの光を放つ銀色の口と牙の中に、漆黒の闇があった。全てのものをその闇のカーテンに覆い隠してなおその深ささえ推し測れないかのような闇を、その口はたたえていたのだ。

 本から出た触手は、その先端にそれぞれが眼を携えているかのように、獲物を探してさまよった。

 それは一瞬の間だった。彼等は獲物が周り中にいる事を悟ると、鞭の様なしなやかさと鋭さをもって獲物に襲い掛かったのだ。

 逃げ惑い恐怖する人々の中、触手は獲物を確実に見極めていた。始めに街の空すれすれを飛ぶ哀れなサラマンダーは三本の触手にからめとられると、たちどころに握り潰され、鮮血の様な紅い炎を吐いて消滅した。

 ぬるっとした泥の様な、汚らしい緑の液体を飛び散らせつつ、触手はサラマンダー達を捕まえてはすり潰していく。誇り高き炎の体現者であるはずのサラマンダー達は、炎の燃え尽きる時の音とも、鳥類の息絶える音ともつかない悲鳴をあげて消えていった。

 すり潰された彼等の体の破片――炎のかけらが暗くなった空に不吉な火の粉を散らす。

 炎と土の王ニシェランは、ただただ驚いていた。自らの体からサラマンダーを生み出す事すら忘れて、彫像の様に固まっていたのだ。

 その眼は小さな私を見据えて、しぼり出すように言ったのだった。

「魔の子よ…お前は、お前は一体…」

 私はその声には答える事はできなかった。耳鳴りの様に聞こえる深遠の声が、もはや私の心の大部分を支配していた。

 そんな中でただ一つ、私が自分で確実に持っているのだと言える事、それはセラノと街を救いたいという想いであった。

(だけど…だけどこれは、こんなものが私の望んだ結末じゃない――)

 私の僅かに残る意識の中で、そう感じたのとはまるで裏腹に、再び深遠の声が聞こえて、体に魔力が流れるのがわかった。
 触手の動きはなお一層躍動感を帯び、そしてついに巨大な口がその活動を始めたのだった。

 半開きであった口は、煙る銀の煙を大量に吐き出すとオオオォ…という震動にも似た咆哮をたてながら、その口を開いた。

 眼も、鼻もない、それが逆に冷徹で無慈悲なイメージを、そう、それはまさに無慈悲を象徴する絶望だった。鋭く研がれた刀剣のごとき無数の牙をぎらつかせて、口はニシェランに向き直った。空気の動く音がして、あっっと思った時にはすさまじい唸りが彼に向けられていたのだ!

 自分の方を向いたと見るや、ニシェランは口が何を始めるか悟った様だった。彼は慌てて自分の姿を消そうとしたが、間に合う事はなかった。

 どうしようもない吸引力が口から放たれた。しかし何故かそれは他の何物をも引き込む事はせず、ニシェランだけをその対象としている。体をのけぞらせるような抵抗も無駄であった。彼は始めずるずると、そして次第に速度を帯びて、暗黒の口の中に吸い込まれようとしていたのだ。


「ギャアァッ」
 私の近くの誰かが悲鳴を上げた。そしてまたどこかでは嘔吐の音が聞こえた。

 ニシェランは頭から、彼の巨躯よりも巨大な口に飲み込まれた。彼のほぼ全身が口に飲み込まれたかと思うと、その口はばっくりと閉じられた。

 バリバリ…グシャ…バリッ!と言う音が街全体を覆った。そしてどこからか聞こえてくる断末魔の叫び。それは口がかみ締めるのをやめるまで、途切れる事なく続いたのだった。

 地獄…。私がさっき表現した言葉を思い出してもらえただろうか!

 涙を流し、狂気に色を変え逃げ惑いうろたえる人々、邪悪な緑の、悪魔の様な触手に追われ消滅させられる火の鳥。大口から響き漏れる長く切り割くような悲鳴と、骨をむさぼる音。街の空は赤く照り返り、弾けた火の粉が無数に舞い落ちていた。

 そこには守る人達と鎮めなければならない精霊はいなかった。その場にいる誰もが助けを乞い、恐怖におののいた。

 まるで狂気にとり付かれた画家が描いた地獄の様な、そんな光景が、私の放った魔法によって私の眼の前に展開されていたのだった。

(あああ…)

 

 脚が震えている事に気がついたのは、それからずっと後の事だった。いや、それは一瞬の間だったのかもしれなかった。だが触手が全ての獲物を消滅さしめ、大口がニシェランを飲み込んだ音を立て、果ては自分自身―自らの口でその口自身を食べ尽くして小さくなり消滅してしまうまでの間――悪夢と現実の境目を隔てた一時を、私は途方もなく長い時間と感じていたのかもしれなかった。

 数百本の触手までもが本の中に再び戻った時、街を襲った震動は治まっていて家屋についた炎も消えていた。


――遠い声は知らぬ間になりを潜めて、私を支配していたもう一人の私はいなくなっていた。

 

 そして、そこに残ったのは静寂であった。街にいる誰もが、あまりにも自分の知っている世界との違い、矢継ぎ早に起こる異変に最早声を上げる事すら忘れていた。

 一体今起こった事が何であったのか、これが現実であったのか、それを何度も何度も反芻しながら、それでも波打ちはやる胸の鼓動に息を苦しくしていたに違いなかった。

「…アバンテ…」

 全身から力が抜け落ちてゆく感覚を感じて、私は魔女の本を閉じると脚を引きずるようにアバンテの方へとすりよって行った。

 私の守りたかった、街と、そして…人達…。

「アバンテ…」

しかし触ろうとしたその腕は、小刻みに震えていた。はっとして見上げたアバンテの眼には動揺と困惑、そしてありありとした恐怖が浮かんでいたのだった。



 アバンテは、私の手からゆっくりと離れていった。

「ラ―――」

 アバンテは震える唇で、しかし私の名前をはっきりと呼ぶ事はできなかった。

「お、俺は見たぞ…こ、この娘があの化け物を呼び出したのを…」

「わ、私も見たわ!」

「何者なんだこの娘は!」


 始めアバンテの後にいる若い男の人が、ぽつりとそう言った。その声は次第にその周りの人に、そしてそのまた周りの人に伝わった。

 信じられぬ光景の原因と恐怖のはけ口を探す、あらゆる視線が私に一斉に注がれたのだった。

「ち、違う…」
 私はその時街の人の眼を、坑道の奥で見たニシェランの眼光よりも恐ろしいと感じた。

 疑惑の広がりは、やがて怒りと憎しみとなって私を襲った。

「魔女だ!」

「この街に災いをもたらしに来た魔女だぞ!」


 しびれたように脚が動かない。そしてそれは私の頭までも支配してしまったようだった。息を正しく吸って、吐けたかどうかもよくわからない。ひゅーっひゅーっというかすれた音と、激しい胸の鼓動、熱く火照った頬を冷たく流れる汗だけを明確に感じている。

 無意識に眼を落とした私は手に持つ魔女の本と両手を見ながら、それ等が全て鮮血にまみれたような錯覚を見た――。

 

 
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