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二章 深い海の底から
第九話
しおりを挟む「見て!これ!」
指差したのはアバンテだった。セラノを除く全員の眼が林檎に集中した。水面も落ち着き動く事のなかった林檎は、今まさに大きく振動している。誰もが眼を離さずそれをじっと見ている。マーカントさんはとっさにセラノをかばう動作をしていた。
私はドアの正面、セラノの真ん前に立ち構えた。精神を完全に集中させ、いつでも呪文を唱える事のできる態勢になった。
「来た!」
林檎がいよいよ激しく震え今や沈もうとする瞬間、私の精神世界は確かにタッタッタッタという忍び寄る足音を聞いたのだった。
パシャーンと言う音がして林檎が沈んだ。生命の狩人はついにドアの寸前までやって来たのだ。
「音無きに流れる真実の風よ、振り払え偽りの影!」
魔女魔法の中で解除魔法に分類される真実の風の魔法を使った。伝説の魔女メルディンヌが海の大精霊と交渉しに行った時に、海の大精霊がメルディンヌに課した試練の中で彼女が即興で編み出した魔法なのだという。あらゆる魔法の掛かったものを取り払う魔法だ。
中空にルーンを描ききると、魔法力が増幅されてパワーを発揮する。周囲はエメラルド色の光に包まれた。
――私はその時、魔法が上達している事に驚きもしていた。前に塔で練習した時に、一度使っただけで極度に精神力を消耗してしまった時と比べ、今はさして魔法によって精神を削られる事を感じはしなかった。私の体中から魔法力がよどみなく流れ出ている証拠だった。だけど一体、何故突然。それはわからなかったのだけど。
何もない空間にペンキをぶちまけたように、小人の形をした実体はみるみると形を成してゆき――そしてやがて醜悪な、一匹の異質な怪物がそこにいた。
ホブゴブリンだ!
「きゃああああぁっ!」
誰かの悲鳴が聞こえる。その役目を終えた緑の光が消え去ると、怪物は完全に実体化していた。一時的だが全ての魔法が消え、人間にもその姿が見えたのだ。
「グッ、グゲ…」
私達の半分程しかない小さな体。頭には赤い三角帽をかぶり、薄汚れた皮の服を着た格好をしている。耳はとがり、口は耳元までその赤々とした血の様な滴りを見せている。毒々しい黒っぽい肌が、醜悪なその顔をこの上なく悪魔的に見せていた。魔法が解け、その姿が見られた事にとまどっているのだろう、半ば呆気に取られ、きょろきょろとしている。
私はセラノの前に仁王立ちをした。
これ以上セラノには近寄らせない!私は自分にできるだけの威圧をもって、ホブゴブリンを見据えた。
そして縛り付けられたように動けないホブゴブリンのこめかみにそっと手を当てて、私はささやいた。
怪しく甘美な響きがホブゴブリンを襲う。彼はもはや、ここに何をしに来たのかも忘れていた。魔女に伝わる魅了の魔法だ。
「あなたをここによこした主の所へ案内しなさい」
彼はもはや、私の奴隷だった。
「グ、ゲゲゲゲ…」
ホブゴブリンはうつろな眼をすると、きびすを返してのろのろと部屋を出ようとした。
この邪悪な精霊の後を追って、この街に災いをもたらすという、呪いを振りまこうとする元凶を確かめねばならない。私の初めての仕事は、ついに大詰めを迎えたのだった。
熱に汗をかくセラノを振り返った。本当に、私が――数日間だったかもしれないけど、見てきたセラノからは想像も出来ないような苦しそうな顔。胸がぎゅうっと締め付けられて、そして沸き立つ使命感を感じた。
セラノ、絶対に助けるからね――。
「マーカントさん!この塩をありったけ部屋に撒いておいて下さい。この塩は魔女の魔法によって清められた塩です。少しの間なら邪悪な精霊を寄せ付けぬ事ができますから!」
私は素早く塩の入った瓶を取ると、セラノの横で中腰になっているマーカントさんの手に握らせた。
「マーカントさん、必ずよ」
「え、あ…わ、わかったよ…!」
マーカントさんは精霊を見た驚きを隠せない様子だったけど、その眼は徐々に驚きだけのそれからは解放されている。生気が戻り、今ある現実を認めていこうと急速に力を戻している眼だ。大丈夫、マーカントさんは強い。
そして今部屋を出て行こうとするホブゴブリンを追って、私も部屋を出て行こうとした。
「ど、どこへ行くんだ?」
先生が私に聞いた。
「セラノの呪いを解く為に、そしてこれ以上の災厄を未然に防ぐ為に、元凶の場所へ」
私はそう言うと皆を部屋に残し、ドアを開けた。
宿を出た辺りからホブゴブリンの歩調は早くなった。今の彼には、呪いを振りまかせようとした主の言葉は記憶にない。彼を支配しているのは、魅了の魔法をかけた私の言葉である。
「うわぁあああっ!」
「キャアァアアアーっ!」
「おい!あれを見ろ!」
「なっ、何だあの生き物は?」
メインストリートを歩くホブゴブリンを見て、行き交う街の人々は悲鳴をあげた。
豪胆な炭鉱夫さんは後ずさり道を開け、食堂の看板娘さんは腰を抜かした。
ホブゴブリンはメインストリートを突っ切り、明らかにある場所へと向かっていた。
そう、私はここで災厄が起こる事を予感していた。この街に来て初めて鉱山を見た時感じたどす黒いうねり、セラノのお父さんと一緒に坑道の最下層まで行った時に感じた強い波動。それらが今間違いのないものだったと教えている。
スターク炭鉱!
就労時間の五時を回り、炭鉱付近は静まり返っている。空はどよどよとした黒雲が立ち込めていて暗く、相変わらずむっとする湿気を含んでいる。私はバッグの中からランプを取り出すと、それに灯を灯した。
ホブゴブリンは他の坑道に眼もくれず、あの坑道へと進んで行く。坑道には立ち入りを禁じるロープが張られているが、ホブゴブリンはその下をひょいっとくぐっていった。
私もその後を追って行こうと思った時、
「ラン!」後から私の肩をぐいっとつかみ、声をかけた人がいた。
驚いて振り向くとそこに立っていたのは汗をかき肩で息をするアバンテだった。
「アバンテ…どうして来たの」
「ハ―――、ハ――…ッ」
アバンテは一旦頭を落とし膝に手を置いて息を吸い込むと言った。
「ラ、ラン…あたしは何だか、いまいち理解しきれないんだけども…、セラノを助けに、助ける為にここに行くんだろ…ならランだけに任せる訳にいかないよ。セラノはあたしの大事な友達だし、ランもあたしの大事な友達だもの。ランが部屋を出てしばらくしてから、追っかけて来たんだよ…役には立てないかもしれないけど、一緒に行くよ」
「でもアバンテ!危険な事もあるかもしれないのよ!」
私は突然アバンテが追いついて来た事、ホブゴブリンを見失ってしまう事に、驚きと焦りを感じていた。
「あ、あんたが魔女だなんて…びっくりしたよ。驚いた」
「……」
私はとっさに下を向くと、唇をかんだ。
「でも…すごいじゃないか!魔法が使えるだなんて!」
アバンテは私の肩に片手を置くと、力強くそう言ってくれた。私ははっとなって、肩の力が抜けた。
仕事としてこの街に来て、偶然セラノやアバンテ達と知り合った。だけど話して仲良くなっていくうちに、私が魔女である事は言えなくなった。いつかきっとわかってしまう事だと知っていても、今の関係を壊したくなかったから。
だけどセラノが熱を出して、それを隠しているいとまは無くなった。セラノを助けたいし、街の災厄を鎮めるのが私の役目だ。友達との関係をそのままにしておきたいだなんていうのは私の単なるわがままだ。
だから、魔女という事を名乗った時、友達を失うのを覚悟はしていたのだ。姿形は同じでも、人間に比べれば魔女は異形だ。魔法と言う超能力を使い、人間に見えぬ精霊と話し、交渉する。
だけどアバンテは、そんな魔女を見ても一緒に来てくれるのだと言う。私の心の片隅にいつもあるセピア色の記憶を、アバンテが取り払ってくれたような気がした。
「…うん、うん…!わかったアバンテ、一緒に行こう!でも絶対に私の前には出ないで。私の後にいて、常に危険を避けて?」
「ああ、ラン!わかったよ」
そうして私達は素早く坑道のロープをくぐった。
真っ暗闇の中をランプの明かりが照らし出し、私達の足音が響き渡る。ホブゴブリンの姿は既に見えない。突き当たりについて、昇降機に乗り込んだ。
「下?」「ええ、きっとそう――」
アバンテがパネルのボタンを押すと、ギュルギュルという音がして昇降機は下へと降りて行った。
カーンと言う鐘の音が鳴り、最下層へと着いた事を告げた。
「ラン!いたよ、あれ」
ランプの光の最先端辺りに、小さな人影が見える。ホブゴブリンだ。ホブゴブリンと私達とではいかんせん歩幅が違った。すぐに追いつくと、後を追った。
最下層の空気は、この間来た時よりもまとわりつくように密度が濃く感じられた。言葉で説明の出来ない不安が私の胸を襲う。私は魔女の本を固く握り締めた。
ホブゴブリンは三叉のうち一番右に、あの行き止まりの坑道へと入っていった。そして、石壁の前に立ち尽くす。
「グ、グゲ…グゲゲ!」
私にも理解できない言葉で叫んだ。しかし石壁は何の返答も無く、ただホブゴブリンの声がこだますだけ…と思われたその時だった!
アバンテも私も、それを見た。
石壁が何者かの超自然的な力によって、あたかも自ら崩れゆくように道を作り出してゆく様を!
それは、前に私が感じた石壁の崩れるイメージと全く同じそれだった。だが今、この力の主は前の様に私を拒絶するのではなく、私を誘い込むように、怒りをぶつける為に道を開けたような気がした。
呆然と立ち尽くす私達を後に、ホブゴブリンはその暗闇の道に溶けるように消えていった。
「アバンテ、もう一度言うけど、絶対に私の前には来ないで」
私はごくりとつばを飲むと、アバンテを右手後にかばいつつ、闇の道にランプの光を侵食させて行った。
「わ、わかった」アバンテもじりじりと私の後についてくる。
あまりに暗すぎて、どれくらい歩いたかわからない。短いのか、長いのか、むしろこの道は現実なのか、精霊界などのようなむしろ別の世界なのか。暗闇の中を、じりじりと汗をかきながら歩いた。
かすかな地鳴りのようなゴゴゴという音は、やがて進むに連れてそれとわかる大きな音となり、直接胸に響くようだった。
アバンテはもちろん、私でさえも未知への恐怖感で一杯だった。私達は胸をどきどきさせて、額に、頬に汗をつたわせて、それでもこの暗闇の中で私達を何者かの方向へ――道の奥へ突き動かすのはセラノを助けたいという気持ちであった。
「ラン――」
アバンテが私の袖を引っ張る。私は無言で頷いた。
暗闇の道はようやく終わりを迎えたようだ。向こうにオレンジ色にゆらめく光が急に現れたのだった。
ゆらめきは近づくにつれてその向こう側の景色を現した。はぜる炎に照らされた様なオレンジ色の石壁、そして石の柱。壁には奇妙なルーンが描かれていて、所々が崩れかけている。相当古いらしい。そこは割と小さな部屋で、その真中に大きな、ひときわ古めかしい壺が置かれていた。
私はその壺にただならぬ何かを感じて、アバンテと共に息を殺しながら静かに近づいていった。
グニャリ。
柔らかいものを踏んづけた感触がして、私は足元を見た。
「キャアアァ――――!」
それは私に魅了の魔法をかけられて、暗闇の道を先に走っていったホブゴブリンの皮だった、いや、皮のようになったホブゴブリンと言った方が正しいのかもしれない。
よく見るとその皮は所々に焦げ目のようなものがついていて、そして彼の中身は蒸発してしまったかのようだった。
「ラ、ラン…これは一体…」
私は後ずさりして頭を振った。一体どうしてホブゴブリンがこうなったのか…私にもわかるはずは無かった。
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