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22.薄っぺらい紙と、薄っぺらい四年間

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 侯爵が視線を止めたのは濃紺の……レヴィンの髪色と同じ宝石。
 そして何より『謝罪』する気なんてなさそうなのに口にしたその謝罪の意味にゾクリとする。


“知ってるんだわ……!”

 ベネディクトに連れ込まれたこと。
 そしてそこからレヴィンと二人で出てきたことを。


“何もやましいことなんてないけれど”

 そんなの、主張次第でいくらでも覆されてしまうだろう。


 家への損害を気にしてさっさと婚約破棄を申し出なかったことを今更になって後悔する。
 こうなれば、慰謝料なんてレベルではないほどのものを要求されるかもしれない、そう覚悟した、私だったのだが。


「君の言いたいことはわかっているよ、ベネディクトとの婚約破棄だろう?」

 わざとらしくふぅ、と息を吐いた侯爵は、まるでこの瞬間を待っていたというようにニヤリと口角を上げて――……



「その婚約破棄、賛同しよう」
「…………、え?」


 同意を得るのが最も難しいと考え、そしてどれほどの損害をエングフェルト公爵家へ与えることになるのかと覚悟してここまで来た私に告げられたその一言に唖然とする。

“賛同……する?”

 何の間違いかと固まっている私の代わりに、控えていたハンナがすかさず婚約破棄の同意書を侯爵に手渡す。

 その内容にザッと目を通した侯爵は、何の躊躇いなくサインをしハンナに書類を返した。


“どういうこと……?”


「婚約は残念なことになってしまったが、それでも我がニークヴィスト侯爵家はこれからもエングフェルト公爵家とは親しくしたいと思っていてね。また縁があれば連絡をしてくれ」
「あ、はい。お心遣いに感謝いたしますわ」

 
 立ち上がった侯爵が握手を求めながら口先だけの言葉を並べる。
 握手した手はすぐに離され、握手の体で立ち上がった私は、そのまま促されるままにニークヴィスト侯爵家を後にする。


 未だに信じられず呆然としていると、馬車の扉が閉まった途端に興奮した様子でハンナが口を開いた。


「やりましたね、お嬢様!」
「そ、そう、ね?」
「もうっ! 今晩は祝杯ですわ!」

 うきうきした様子で笑うハンナから、侯爵がサインしてくれた婚約破棄の同意書を確認する。


“ちゃんとサインしてあるわ”

 こっそり慰謝料について追記してないかと疑いくまなく確認してみるが、どう見ても普通の同意書。

 
「慰謝料すら言われないだなんて」


 本来ならば、正当な理由なく破棄する場合は婚約破棄を申し入れた側が何かしらの補填を相手の家門にする。

 一番わかりやすいもので言えばお金だが、領地の一部や絵画や骨董品というパターンもあるし、厄介なもので言えば仕事の権利書、なんてものもあった。
 

“絶対何かは言われると思ったのに”
  

 今回のケースは、非自体はベネディクトにあるが破棄するほどでもない内容ばかり。

 それどころか、侯爵は私とレヴィンの関係を知ってすらいそうで。


 そこを突けば、結婚なんてしなくても公爵家からいくらでも搾り取ることだってあの侯爵ならば出来たはず。
 

「というか、ハンナはむしろお嬢様が慰謝料を貰われるべきかと思いましたよ」
「気持ち的にはその通りなんだけれどね」
「ニークヴィスト侯爵様側も、何かしら思われたのではありませんか?」
「そう……かしら」

“決してそうは見えなかったけど”


 この違和感が気持ち悪く、まるで体を纏わりつくようなそのもやもやに心がズシッと重く感じる。

 それでも、私の手にはベネディクトとの婚約破棄の同意書が握られていて。


「このまま出しに行かれますか?」

“時間はあるわね”

 交渉に手こずると思いこの後の予定は入れていない。
 
 後で何かしらの理由をつけて覆されても困ると判断した私は、ほんの一瞬だけ嫌な予感がし躊躇ったものの――


「……えぇ、出しに行くわ。行き先を神殿の方へお願い」
「すぐに御者へ伝えます」


 私はそのまま神殿へ向かい、婚約時に交わした書類の破棄手続きを行うことにしたのだった。




 
 「拍子抜けだわ……」
 

 ニークヴィスト侯爵家からそのまま神殿へ直行した私は、神官に言われるがまま婚約破棄の手続きを行いエングフェルト家へと帰ってきて。
 
 
 そして現在、私室の机の上に乱雑に置かれた受理済みの書類が一枚。
 
 もうただの紙切れになってしまったその書類に視線を投げた私は、どこかまだ信じられない気持ちで呆然としていた。


“こんなに簡単に四年間が終わるなんて”


 何よりも『商品』としてベネディクトを売り込んだあの侯爵が、慰謝料のいの字すら口に出さなかったことがあまりにも不気味だった。


「それでも、もう全て終わったんです。それにもうお嬢様の婚約破棄は受理されました。今更何をそんなに心配されているのですか?」

 不思議そうに小首を傾げたハンナにそう問われ、思わず口ごもってしまう。


 確かにそうだ。
 もう受理までされたことを後から覆すことはもちろん、同意書にサインをしたのだから今更慰謝料なんて言い出せない。


“本当に、もう終わったの?”


 あまりにも呆気なく処理されてしまったせいか、この纏わりつく不気味さを怖がっていたのだが。


「これでいつでもクラウリー伯爵令息様とイチャイチャできますね!」
「ブッ!」

 ふふ、と明るく笑ったハンナのその一言に思わず吹き出してしまう。

 
「い、イチャイチャ……!?」
「え、されないのですか?」
「しないわよっ!!」
「えぇっ!? あの旦那様と奥様のご息女であるお嬢様が……?」
「そ、それを言われると……」


 いつでもどこでもお互いしか見ていない両親を思い出し、なんだかんだで私もレヴィンに口付けをねだったりしたことが頭を過って苦笑した。

 
“結局両親の血を存分に受け継いでるわね”

 レヴィンが受け入れてくれるからと我が儘を言ったこともある。
 連れ回し、思わせ振りなことを言って彼の反応を楽しんだりもしたけれど――


“次こそ本当に”

 彼のことを受け入れられるのだと思ったら、私に纏わりついていたあの嫌な予感が消えてなんだか楽しくなってきて。


「そうね、私、あの二人の娘だものね」
「えぇ、その通りです。とても愛されていらっしゃる、私たち自慢のお嬢様です」

 ふわりとハンナが笑い、そして私をぎゅっと抱き締めてくれた。

 彼女の温かさに包まれ、本当にもう終わったのだと改めて実感する。


「今だけは、お許しください」
「今だけじゃなくても構わないわ」

 私もそっとハンナの背中に腕を回し彼女をぎゅっと抱き締め返す。
 小刻みに震える彼女に気付き、それだけ心配をかけていたのだと理解した。


「幸せな結婚をしてくださいませ」
「……えぇ」
「ちゃんと心から愛し、そして愛される結婚を」
「そうするわ。ありがとう、ハンナ」


 ベネディクトとの婚約は破棄出来た。
 そして私は公爵家を継ぐと決めている。

 レヴィンと結婚するには、彼に婿入りして貰わなくてはならない。

“クラウリー伯爵家のスペアであるレヴィン……”


 我が家のように子供が一人しかいない場合は例外だが、貴族である以上いざという時のために、必ず『スペア』という存在は必要だろう。

 レヴィンがベネディクトのように三男ならば問題はなかったのだろうが……


「でも、待ってるって約束したから」

 私に出来るのは待つことだけだから。


 全てが解決し、元婚約者の身代わりだった彼と想い合って結婚できるその日を夢見て、私はいつまでもハンナの温もりに身を委ねたのだった。
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