俺のものになりなさい

にしだてえま

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#21 He was gone !

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#21 He was gone !

「かんぱーい!」
 湊の音頭でそれぞれがグラスを掲げた。シャンパンの味が口の中に広がる。
「……って、本人いないけど」
 グラスを置いた香夏子は小声でため息混じりに言った。
 聖夜のコンテストの翌日、本人抜きで祝賀会をすることになったのだ。発案者は勿論湊だ。
 一応聖夜に連絡を入れてみてほしいと湊から頼まれてメールをしたが、結局返信はなかった。電話をしてみようかとも思ったが、香夏子には聖夜の忙しい様子が想像できてしまい、連絡を取るのは迷惑だと勝手に結論付けた。
 何より聖夜の最後の一言で香夏子は金縛りにあったようになっていた。
(『バイバイ』……か)
「いやぁ、僕までお招きいただいて有難き幸せです」
 高山が興奮で紅潮気味の顔をほころばせた。なぜかちゃっかりと湊の隣に座っている。
「あ、そうだ。私たちは半額券で予約してるんだけど、高山くんだけ全額実費なんでヨロシク」
 湊はにこやかに言った。
 今日の祝賀会はまた女装趣味の店員がいる洋食屋『プチ・フルール』の個室を借りていた。その際、しっかり者の湊は以前にもらった半額券が使用できることを予約時に確認している。
「ちょっ、聞いてませんけど!? せ、先生……何とかしてくださいよ」
「知るか」
 半分腰を浮かせて慌てる高山を尻目に、秀司はそっけなく答える。
「先生ともあろうお方が、まさかこの将来有望な一番弟子を見捨てるなんてことはありませんよね?」
「高山くんが詳細を聞かずに二つ返事でOKするからだろ」
「だってね、先生。こんな素晴らしいお誘いを断るバカがどこにいますか? 湊さんが僕を直々に誘ってくださったんですよ?」
 高山はまた椅子に腰を下ろして秀司に向かって力説し始めた。前菜に高山の唾が飛んできそうな勢いなので、香夏子はひやひやしながら彼らのやり取りを見守る。
「湊が直々に、ではなく、たまたま高山くんがそこにいたから誘った、というのが正解だろう」
 秀司はつまらなさそうに言ってフォークを手に取った。
「ああ、傷つくなぁ。そんなことはないって言ってくださいよ、湊さん」
「アハハ! 高山くんを誘って正解だったわ。三人だとお通夜みたいになりそうだったし」
 その湊の言葉を聞いた途端、高山は勝ち誇ったような笑顔で一同を見渡した。
「ほーら先生、今の湊さんのお言葉聞きました? やっぱり僕はこの場に必要不可欠な人間なんです。だからお勘定お願いしますね!」
「断る」
 にべもなく断った秀司は早々と前菜を食べ終わりフォークを置く。
「先生、今日は朝からすこぶるご機嫌斜めですが、同窓会で何かありましたかね?」
 高山はわずかに声を低くして神妙な面持ちで秀司に訊ねた。香夏子は内心の動揺を隠すために、ゆっくりと前菜を口に運ぶ。
「俺はいつもと変わらないが」
「そもそも今日一日、香夏子さんとまったく口を利いていないと思いますが。さてはお二人に何かありましたね?」
 秀司は高山の言葉を無視してグラスをあおる。その様子を香夏子は複雑な気持ちで盗み見た。高山の指摘通り、今日は秀司と会話らしい会話を交わしていない。昨日のことが心に重くのしかかり、秀司をまともに見ることもためらわれたのだ。
「何もないよ」
 香夏子は高山に短く答えた。
 高山は少し考えるような顔つきでテーブルの端に肘をつき、握った拳に顎を載せた。
「……ということは、聖夜さんが何か仕掛けてきた、と」
「『仕掛けて』って! ウケル!」
 湊が真面目な顔の高山を指差してひとり爆笑し始めた。何かが湊のツボにはまったらしい。
「そんなに僕の演技、面白いですか?」
 調子に乗った高山は更にいろいろなポーズを取り始めた。湊は横を向き腹を押さえてギャハハと笑い転げた。
「演技っていうか、高山くんの顔が笑える」
「顔ですか!」
 高山はガクっとよろめいてため息をついた。
「お前ら、少し落ち着いたらどうだ」
 秀司が呆れたように言う。そこにノックの音が聞こえてきた。
「お待たせしました」
 愛想のよい笑顔で店員がメインディッシュを手に個室へ入ってきた。彼の態度は以前とまったく変わらず、香夏子にもわだかまりを感じさせない。その心遣いは香夏子にとって有難く、異性としてはともかく人間的には非常に好感が持てた。
 配膳を終えると店員は香夏子の側にスッと近寄り、上体を屈めて耳打ちしてきた。
「今日聖夜さんと連絡取れましたか?」
「いや……」
「それが、先ほど聖夜さんにメールしたら戻ってきてしまって、おかしいなと思い、電話をかけてみたら『使われていない』と」
「え!?」
 香夏子は驚いて店員を振り返った。彼は美しい眉に皺を寄せて香夏子を心配そうに見つめ返す。
「ケータイを解約したんじゃないでしょうか」
 思わず絶句した。
 湊の気遣うような視線を感じたが、香夏子は意味もなく瞬きを繰り返し、しばらくしてからようやく店員に答えた。
「私にはわかんない。連絡とか何も来ないし……」
「そうですか。もし何かわかったらご連絡しましょうか?」
 店員は小声でそう提案してきた。うつむいた香夏子は僅かに間を置いてから首を横に振る。
「いいよ。別に連絡する用事もないし」
「そうですか」
 失礼しました、と店員は深々と礼をして個室を出て行った。
 ふう、と一息つくと全員の意識が自分に向けられていることに気が付き、香夏子は急に背筋を伸ばした。
「それにしても、相変わらず聖夜くんって謎の人だな」
 奇妙な雰囲気の中、最初に口火を切ったのは湊だった。
「そうですね。僕は一度もお会いしたことがないので、余計にミステリアスな印象を持っていますが、それにしてもイケメンはそれだけでお得ですよね。僕のケータイが繋がらなくても誰も心配してくれませんよ」
「あー、わかるわかる! 美人がお得っていうのと同じだよね」
 湊が高山に同調した。
「そうです。……って湊さんも十分お得な人生のクセに」
 高山は目を細くして睨むように湊を見る。だが、湊の表情が皮肉っぽい笑顔に変わり、高山はハッとしたようだ。
「全然いいことないんだよね、これが! ああ、どうしよう。だんだんお肌のハリはなくなってくるし、ホウレイ線が気になるお年頃になっちゃうし。マジでヤバいよ」
 そう大げさに言うと湊は両手で顔を覆った。香夏子もそれには同意する。
「ホント、もう若くないなって最近よく思う」
「お二人とも何をおっしゃるんですか。人間は外見じゃないですよ。中身が重要なんです!」
「高山くん。さっきと発言が矛盾しているようだが、結局何が言いたいんだ?」
 秀司の冷静な声に高山はキッと鋭い視線を向けた。
「何があったか知りませんけど、聖夜さんが行方不明になったんですよ! 先生にまたとない絶好のチャンス到来じゃないですか」
「行方不明じゃない。ケータイが繋がらなくなっただけだ」
(確かに秀司の言うとおりだな)
 香夏子は料理を口に運びながら、今頃聖夜はどこで何をしているのだろうと考える。好きだと言われても聖夜の考えていることはやはりよくわからない。
(結局、私のことはどうでもいいってことか)
 料理は美味しいが胸の中には苦い想いが広がっていく。
 この店に初めて連れて来てもらったときのことを思い出した。聖夜との初デートで香夏子の心臓は絶えずドキドキしていた。あのときは何を見てもまぶしくて、何を食べてもおいしくて、何もかもが愛しかった。
(それからもっと胸が破裂しそうな出来事があって……)
 最高に幸せだったな、と過去の自分を懐かしく思う。もしかするとあの頃が人生の絶頂期だったかもしれないと聖夜と過ごした日々を思い返した。
(どうしてここに聖夜はいないんだろう)
 鴨のフォアグラだと店員が説明してくれたものを口にした。
「ねぇ、これフォアグラでしょ? 口の中でとろけるね。おいしい!」
 湊が頬を押さえて感激している。高山も慌てて食べて同じように頬を押さえた。
「これぞまさに世界三大珍味の一つですね!」
「なんか、油っぽい」
 香夏子はフォークを置いてグラスに手を伸ばした。秀司がこちらを見る気配を感じたが、頑なに視線を合わせないようにする。
「ま、確かにたくさんは食べられないね。これって確か脂肪肝なんだよね?」
 湊がすぐさまフォローを入れてきた。感情のままに放った言葉を反省し、香夏子は小さな声で言い繕う。
「そうなんだ。私、初めて食べたかも」
「僕も初めて食べたかも……のフォアグラ。ぶっ! 鴨だけにかも!」
 高山が自分で言ったギャグに自分でウケて大笑いしている。さすがに頬がひきつった。高山なりにフォローしてくれたのか、ただ単にダジャレを言いたかっただけなのか香夏子にはさっぱりわからない。
「高山くんの座布団、全部持ってって!」
「湊さん酷いですよ。めちゃくちゃウケているくせに」
「だって高山くんの顔が可笑しいんだもん」
「顔ですか!」
 湊と高山の会話を笑顔で聞きながら、この会食を心から楽しめない自分が悲しくなった。
 今日は聖夜の祝賀会なのだ。考えたくなくとも、常に心のどこかでは聖夜のことを意識し、どうして彼はいなくなってしまったのだろうかと思う。
(好きだと思ってくれるなら、どうしてそばにいてくれないの?)
『今の俺じゃ秀司から香夏子を奪えないからさ』
 男の人の考えることはときどきわからない、と香夏子は思った。恋や愛ではなくもっと別のものが聖夜の心を占めているのだと思う。そうでなければ『バイバイ』なんて言わないはずだ。
 ただ、香夏子ももはや恋愛が自分のすべてではないと自覚している。好きという気持ちだけで突っ走って惨めな姿を晒すよりは、現状を維持するほうが痛手は少ない気がした。
(でも、この状況はどうにかしなきゃ……)
 秀司の姿をチラリと見て嘆息を漏らした。どうせなら秀司が話にならないくらい嫌な人間だったらよかったのに、と思う。そうであればこんなふうに悩んだりしなくて済んだはずだ。
(冗談だって言ってよ。からかってるだけだって……)
 だが、現実は自分にとって都合のいいことばかりではない。むしろ自分の手には負えないことばかりのような気がする。
(今更困るよ。どうしろっていうの?)
 香夏子は既に自分が困惑している理由をはっきりと自覚していた。
(いつもみたいに「俺の女だ」とか「俺のものだ」とか言えばいいのに)
 そうすれば即座に「違う」と大声で否定できる。
 困るのはあんな中途半端なキスだ、と香夏子は唇を噛んだ。

 数日後、秀司の研究室で香夏子は通常通り仕事をしながら、静かに苛立ちを募らせていた。
 その日が今年の最高気温をマークしたということも香夏子の精神状態に大きく影響していると思われるが、それ以上に香夏子のイライラを増幅させているのは、研究室内に集まってきている学生たちのふるまいだった。
 ノックもせずいきなりドアを開け、挨拶もせずにズカズカと入ってくる。今は秀司も高山も不在だ。学生たちにとって香夏子は壁に掛けられた絵画や花瓶に飾られている花と同類項らしい。
(そりゃ、絵や花に挨拶は必要ないかもしれないけど)
 そして嫌でも耳に入ってくる会話を背に、キーボードに激しい憤りをぶつけていた。子育て世代の女性を対象にした講演の依頼に対する返信だから、文章は勿論この上なく丁寧な言葉遣いである。だが、キーボードが「そこまで猛烈に殴打しなくても……」と悲鳴をあげそうな激しさで香夏子は文字を打ち込んだ。
「キャンプって何必要?」
「やっぱ、肉じゃね?」
「バーベキューするんだったら炭とか鉄板とかいるじゃん」
「あ、俺んちにキャンプセットあるぞ。ランプとか」
「ランプ、いらねー!」
「え、ランプ絶対あったほうがいいって。超ムード出るし」
「でも炭とかはキャンプ場でレンタルとかあるんじゃ?」
「ありそう! さすがリナちゃん、アッタマいいー!」
「じゃ、電話してみよ? えっとキャンプ場の電話番号は……」
「あ、ほら、あのオバさんに聞いたらわかるんじゃない?」
(ん? オバさん!?)
 香夏子はキーボードを打つ手をピタリと止めた。
 あの声はこの部屋の常連トモミだ。常々彼女の傍若無人な言動に対して、はらわたが煮えくり返る思いだったが、さすがにこれは聞き捨てならない。
「トモミ、それ、酷すぎ。オネエさんに謝れ」
 金髪の男子学生が香夏子の怒りのオーラを感じたのか、トモミに助言した。だが、トモミはその言葉を一笑に付した。
「なんで私が謝らなきゃなんないのよ」
 香夏子の堪忍袋の緒がプツリと切れる音がした。
 作成中のメールを保存し、メーラーを閉じるとパソコンの電源を落とす。そして勢いよく立ち上がり、初めて学生たちのほうへ振り返った。
「あなたたち、学生のうちはそれでいいかもしれないけど、社会に出てからもそのままで通用すると思っているなら大間違いよ。せめて他人に対する礼儀くらい親に教えてもらってきなさい!」
 もっと言いたいことはあるが、彼らに長い演説は逆効果だ。
 香夏子は学生たちを一瞥して部屋を出た。
 廊下を歩きながら、しかし彼らが多数派になればそういう社会になってしまうのだろうか、と憂鬱になる。そしてこんな分別臭いことをいう自分はやっぱりもうオバさんなのだろうと肩を落とした。
「先生、お時間をいただきありがとうございました。それでは失礼いたします」
 廊下の少し先で女子学生が会釈をしてドアを閉めた。香夏子に気がついた学生は軽く頭を下げその場を後にする。
 香夏子も同様に会釈し、そのまま廊下を進んでいくと、紅茶のよい香りがしてきた。感じのよい女子学生が出てきたドアの前で一瞬立ち止まり、掲げられている名前を見た。よい匂いもこの部屋から漂ってきているようだ。
(この名前……ああ、あのテディベア柄シャツの教授だ)
 ガチャッと予期せずドアが開いて、教授が「おや」と声を上げた。
「こんにちは」
 慌てて頭を下げると教授は戸口で品の良い笑顔を見せた。今日も前回とは違うが、テディベア柄のシャツだった。
「ちょうどいいところに通りかかったね。紅茶をご馳走しますよ」
 そういって教授は香夏子を手招きした。香夏子は誘われるまま教授の研究室へと足を踏み入れた。
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