俺のものになりなさい

にしだてえま

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番外編

You are stupid ! (OH MY BABY / 親友のお見合い4)

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「マサノリは俺の父親の弟だ。若い頃から大した能力もないくせに会社を興しては潰すということを繰り返している。今回もそうだ。『今度は絶対成功する』とケータイコンテンツ事業に手を出して失敗。それがちょうど一年前だ。数年前に親父の金を借りて事業を始め、倒産する頃には多額の債務があった。その返済のため、今度は俺に金を借りに来た。俺がテレビに出たのを観て、金があると思ったんだろう。俺は貸したくなかったが、やはり叔父の頼みは断りきれなかった。一年以内に全額返済ということを約束して貸した。だが、まだ一円も返済されていない」
 秀司は茶で喉を潤した。それから深いため息をつく。
 中華料理店の個室には重い空気が充満していた。秀司の口から出た話の内容は誰の心にもズシリとのしかかってくるものがある。香夏子も無性に喉が渇き、ジャスミンティーが満たされた茶碗に手を伸ばした。
「それで秀司はいくら貸したの?」
 おそるおそる湊が口を開いた。

「一千万」
「い、いっせんまん!?」

 高山は金魚のように口をパクパクさせる。
「せ、先生、どこにそんな金があったんですか!?」
「高山くん、突っ込みどころがずれてる」
 迷惑そうな顔でそう言った秀司は、また大きな嘆息を漏らした。おそらく叔父の存在は秀司に多大な精神的ダメージを与えているのだろう。これほど苦渋に満ちた表情を浮かべる秀司を見るのは久しぶりだ、と香夏子は思った。
「湊も知らなかったんだろう?」
 秀司が沈んだ声で問いかけると、湊は静かに頷いた。
「どうするつもりだ?」
「どうって……?」
 眉間にギュッと皺を寄せた湊が、秀司を真っ直ぐに見返す。
「マサノリがお前と結婚したいと言い出したらどうするんだ?」
「それは……」
「そもそも、どうして見合いなどする気になった? 湊らしくない」
 秀司がそう言った途端、湊はすうっと大きく息を吸い込んで姿勢を正し、一気に吐き出した。

「私らしさって何? 秀司に勝手に決めてほしくない。私は私だもの。ときどき他人の幸せが羨ましくなって、バカなこともする。それの何が悪いの!? いつもいつも優等生顔してるのは疲れるのよ!」

 言い終えると厳しい顔つきのまま、視線を自分の手元に落とす。それからぎゅっと口を結んだが、次の瞬間、彼女の睫毛がキラキラと輝き出し、頬には音もなく涙が一滴伝った。
 香夏子は湊の言葉と涙に胸がいっぱいになっていた。
 まるで結婚する前の自分を見ているようだった。あの悩みもがいていた時期を思い出すと香夏子の目にも涙がこみ上げる。
(なんだか最近涙もろくなったな)
 妊娠してからというもの、香夏子の涙腺はそれまでよりも簡単に緩んでしまう。身体の変化が香夏子の心にも作用しているのかもしれない。そして今の自分は誰の目から見ても確実に幸せなのだ、と思った。
(……なんか、ごめんね)
 謝るのはおかしなことだが、幸せの真っ只中にいる香夏子にはそれしか言えない気がする。
 結婚はゴールではない。だが、人生の次のステージに進むためには是非とも通過したいポイントだ。それも世界で一番愛しい人とともに――。
 そのポイントの手前で足掻く姿は、他人の目にはみっともなく映るかもしれない。しかし当の本人は激しい焦燥感に追い立てられ、とにかく一生懸命なのだ。
「言い方が悪かった」
 秀司が困り果てた顔をして言った。
 湊は即座に反発する。
「は!? 秀司は何もわかってない! 私と真剣に結婚したいと思ってくれる人を探してるのよ。そこらへんで素敵な出会いを待っているよりは、お見合いの方が断然話が早いでしょ」
「つまり湊は手っ取り早い手段だから見合いをしたというわけだ」
「そうよ。恋愛はもういいの。結果の出ない努力は無駄だと、秀司も思うでしょ?」
 得意げに顎を上げた湊を、秀司は冷ややかな表情で見つめていた。

「努力だと? ふざけるな。湊のくだらない恋愛には努力など不要だろうが」

「ちょっと……!」
 香夏子は思わず口を挟んだ。いくらなんでもそんな言い方はないだろうと思う。今し方「言い方が悪かった」と言ったくせに、それは口先だけで、やはり秀司は全く反省していない。
「なんですって?」
 激しい口調で湊がいきり立った。香夏子も無駄に力が入って、自分の手を握り締めてしまう。
「ダメ男を掃除機のように吸い寄せて、つまらない恋愛をすることが努力だと言いたいのか?」
 対する秀司は勢いよく火に油を注いだ。掃除機にたとえられた湊は目を剥く。隣から聖夜の小さなため息が聞こえたので、香夏子は自分の夫の顔を確認した。
「論点がずれたよ。まず今日のお見合いをどうするか、でしょ。いずれにしろ返事をしないとね。それとも、うやむやにする?」
 聖夜が仲裁役を買って出ると、秀司の片眉がピクリと上がった。
「考えるまでもない。あんな疫病神と結婚するバカがどこにいる?」
「勝手に決めないで。私はマサノリさんみたいな人、嫌いじゃない。そりゃ何度か失敗したかもしれないけど、自分で起業しようという心意気は素敵だわ。私、そういう人を応援したい」

「お前は救いようのないバカだな」

 吐き捨てるように言って、秀司は立ち上がる。

「いつまでも悲劇のヒロインを気取ってろ!」

 壮絶きわまりない捨てゼリフの後に、バンッとドアが乱暴に閉じる音が続いた。
 中華料理店の個室に取り残された面々は、しばらく互いの視線を避けるようにしていたが、次第に空気が重苦しくなり、香夏子が顔を上げるのとほぼ同時に、肩の力を抜いた湊が「はぁ」とわざとらしいため息をついた。
「あの男は、どうしていつもああいう言い方しかできないんだろう」
 隣でフッと笑う声が聞こえる。
「あれが秀司の愛情表現なんだよ」
「そんなわけないでしょ。聖夜くんだって、秀司には言いたい放題言われてたけど、イライラしなかった?」
「当然、いちいちムカついていたよ」
 香夏子と湊は顔を見合わせて噴き出した。
 だが、高山だけが悄然としたままだ。香夏子が窺うように視線を送ると、高山は急に香夏子を睨んだ。
 何事かと目を丸くした瞬間、高山は立ち上がった。

「湊さん、先生は本気ですよ」

 高山の厳しい視線は湊に注がれる。
 それを真っ直ぐに受け止めた湊は、大きな目を数回瞬いて、何か言おうと口を開いた。しかし湊の言葉が聞こえてくる前に、高山の声がそれを阻む。
「あなたがダメ男と付き合おうが、先生の叔父さんと結婚しようが、僕は痛くも痒くもありません。だけど、先生は……」
 言葉が途切れた。高山の顔を見ると、目のふちが赤らんでいる。
(え!? もしかして……)

「あなたが不幸になったら、先生はきっとものすごく傷つきますよ!」

 またドアが開いて、閉まった。先程よりは優しい音だった。
 湊がどうしていいのかわからないというように、視線を左右に彷徨わせる。
「彼はいいヤツだね」
 高山が出て行ったドアを見つめながら、聖夜はしみじみと言った。
「うん」
 香夏子も頷く。今更だが、なんだかんだ言いながらも、高山には自分もずいぶん助けられているとの想いを強くした。
 そこに小さな声が聞こえてくる。
「私だって、不幸になりたいなんて願ったことは一度もない。いつも幸せになりたいって思ってる」
 湊は言い終えるとうつむいた。
 その気持ちは香夏子にも痛いほどわかる。だが湊の人生は本人しか決められない。ダメ男の連鎖を断ち切るには、湊が変わらなければならないのだ。
「湊……」
「やっぱり秀司の叔父さんのことはお断りする」
 顔を上げてそう言い切った湊の顔は、プライドを取り戻し、明るく輝いて見えた。
「だってよく考えたら、秀司と親戚になっちゃうんだもん。借金のことであんなふうに恫喝されたらたまんないよね。秀司みたいな借金の取立てがいたら夜も眠れないって」
 香夏子と聖夜は苦笑した。
 それから三人で残った料理を少しつまんで、中華料理店を後にする。会計は秀司の母親が済ませていた。
 三人でぶらぶらと歩いて香夏子たちの家へと向かう。
 湊は秀司の実家の前で立ち止まり、にっこりと笑顔を見せた。

「私、ちょっと告白してくるわ!」

 そして香夏子と聖夜に向かって敬礼する。振袖の袖がはらりと翻り、その艶やかな姿が香夏子の目に焼きついた。
 湊が秀司の実家の玄関に消えるのを見届けて、香夏子と聖夜も自宅に入った。
「湊は『告白』って言ってたけど?」
 さっきの言葉が気になっていた。だが聖夜は少し首を傾げただけで何も言わない。
(お見合いを断るってこと? でも「告白」って言わないよね、普通……)
「香夏子も疲れたでしょ。少し休んだほうがいい。ベッドに横になったら?」
 手洗い、うがいを済ませた聖夜が、仕事に戻るために着替えている。
 のろのろと洗面所に行き、手を洗っていると、腹部の張りが強くなるのを感じた。香夏子の腹部は風船のように膨らんできている。皮膚は上下左右に伸び、妊娠線ができるのではないかと心配して、毎晩風呂上りには念入りにクリームを塗りこんでいた。
(私も湊には幸せになってほしいよ)
 服の上から痛む部分を撫でる。ちょうど膨らみの下部が引きつれるように痛い。これはもしかしたら皮膚の伸びによる痛みかもしれないと思った。それは胎児が順調に大きくなっている証拠でもある。
(幸せは、更にたくさんの幸せを連れて来てくれるから、絶対幸せにならなきゃだめだよ!)
 しかし応援することくらいしか香夏子にできることはない。
 ふと、今までこんなふうに誰かの幸せを願うことがあっただろうか、と考える。香夏子はずっと自分自身のことだけを悩み、それで精一杯の日々を送っていた。
(昔はずいぶん狭い世界で生きていたな)
 洗面所の鏡に映る自分の顔を見ながら苦笑する。
 それからこんなふうに理想的な生活を送ることができるのは、聖夜のおかげだとしみじみ思った。毎日の生活が積み重なっていくと、これが当たり前だと勘違いしそうになるが、そうではない。
 人生は奇跡の連続でできている。
 だが、それは香夏子が自分ひとりで作り出しているわけではない。
 むしろ奇跡とは自分以外の、他の誰かの存在があってはじめて生まれるもののような気がした。


 図らずも大騒動になってしまった湊の見合いから一週間が経った。
 香夏子は妊婦健診のため、産婦人科を訪れた。安定期がもうすぐ終わってしまう。妊娠後期になるとどういう変化があるのかはわからないが、この安定期の間は絶好調だったのでそれが終わってしまうのが少し寂しく感じられた。
 診察台に上がって腹部をさらす。斜め後ろには、珍しくそわそわと落ち着かない様子の聖夜がいた。実は妊婦健診に付き添ってもらうのは今回が初めてなのだ。
「さて、今日はどうかな?」
 担当医師が陽気な口調でそう言った。香夏子も今日こそは、という気持ちで、聖夜の休みを狙って健診を入れたのだ。期待はいやが上にも高まる。
 膨らんだ腹部全体にゼリー状のクリームを塗布しながら、医師が慣れた手つきでプローブを滑らせた。このプローブが超音波を送受信し、内部の様子を画像に描き出すのだ。モニターに胎児の様子が映し出されると、聖夜は「おお!」と感嘆の声を上げた。
 医師は頭部から順に観察し始めた。場所はちょうど膨らみの底部にあたる。そこから迷いなくプローブが移動し、胴体部分の観察に移っていく。
 そして「足のほうは……」と医師が言った。
 香夏子はドキッとしてモニターに釘付けになる。
「まだどっちか、言ってなかったかな?」
「はい。前回は見えませんでした」
「そっか。どうやら女の子のようだよ」
 香夏子と聖夜は顔を見合わせた。途端に聖夜の表情がこれ以上ないほど緩んだ。
「女の子かぁ」
 二人とも、子どもの性別に対してはどちらでもいいと思っていたが、判明の瞬間はやはり感慨深いものだ。
 特に香夏子は格別な想いでモニターを眺めていた。自分の体内にいる胎児がますます身近な存在になった気がする。性別は女の子。そして今日は顔も少し見えて、彼女は指をくわえているようだった。うねるような歓喜が自分の全身を巡っている。
「今日聖夜に一緒に来てもらって本当によかった」
 帰り道、隣を歩く聖夜に言った。すると繋いでいる手がぎゅっと強く握り締められた。
「女の子でよかったね」
 何気なく聖夜は言う。香夏子も頷いた。だが、これがもし男の子であっても同じやり取りをしただろうと思う。
 晴れた冬の空を見上げると、香夏子の頭上にはクロワッサンのような形状の雲が浮かんでいた。おいしそうだと思い、笑ったら吐息が白く煙った。
 帰宅し、バッグの中からケータイを取り出すと、湊からメールが来ていた。その後どうなったのかと気になっていたが、こちらから訊くのは野次馬みたいで躊躇してしまう。ドキドキしながらメールを開くと、短い一文が目に飛び込んできた。

「秀司と真剣に付き合ってみようかな」

 香夏子はフフッと笑った。後ろから「どうした?」という聖夜の声が聞こえたので、無言でケータイ画面を彼の目の前に突き出す。
 聖夜は画面を一瞥し、それから香夏子を見てニヤッと笑った。
「俺はいいと思うけど、カナは複雑?」
「ううん。でも二人とも個性強いから……上手くいくかな?」
「それは誰にもわからない」
 その達観したセリフに香夏子は噴き出した。
「まぁ、そうだね。上手くいけばいいな」
 心の底からそう思う。
 昔、二人が付き合うと聞いたときには、親友と元彼の幸せを願いながらも、香夏子の心の中は自分の惨めさを嘆くばかりで真っ黒だった。本当に他人の幸せを祈っていたのかどうかすらあやしい。
 でも今度は純粋に親友と幼馴染の恋を応援できる気がした。
 聖夜は香夏子の肩をポンと叩く。
「大丈夫だよ。二人とも、もういい大人なんだし」
 香夏子は自分の夫を見上げた。聖夜が不思議そうな表情をする。
「ん?」
「私も……少しは大人になっているかな、と思ったの」
 急に聖夜の腕が香夏子をふわりと包んだ。腹部が突き出してきた分、聖夜の胸がほんの少し遠く感じるが、寂しくはない。むしろその距離が愛おしい。
「どうかな?」
 笑いながら聖夜は香夏子の頬を触る。その感触にドキッとした。
「やっぱり頬とか、たるんできた!?」
 照れ隠しにエヘヘと表情を崩すが、聖夜は香夏子の目をじっと見つめたまま何も言わない。互いの息遣いを感じられるほどの至近距離で数秒、二人は動きを止めて視線を交わした。

「かわいいよ。今も昔も、香夏子が一番かわいい」

 途端に耳まで真っ赤になる。恥ずかしいが、聖夜の手が頬を押さえつけているので下を向くことはできない。仕方がないので苦笑してギュッと目を瞑った。
「照れてる?」
「うん」
「いい加減慣れてよ」
「無理」
「そんな顔されると我慢できなくなる」
 香夏子は驚いて聖夜の顔を確かめた。
「が、我慢? な、何を?」
「カナも大人だから、わかるでしょ」
 言いながら聖夜の顔が近づいてきて、唇がそっと触れた。一旦離れたかと思うと、聖夜の唇は笑みの形になり、次の瞬間には深く口づけられていた。
(大人って……そういう意味じゃなくて……)
 本気で質問したのに、はぐらかされて、意識は別の方向にさらわれようとしている。抗いたくても、聖夜の舌が香夏子の口内を撫でるように動くと、もう何も考えられなくなった。


 安定期が終わり、ついに妊娠後期へと突入した。
 とはいえ、急激な変化が起こるわけではない。ただ、腹部は後期に入るとかなりの存在感を主張するようになった。
 香夏子は小柄なためか、同時期の妊婦に比べて膨らみが目立たないらしい。妊娠七ヶ月でも「妊婦です」と言わないでいると大半の人が気がつかなかった。
 しかし八ヶ月に入るとさすがにそういうことはなくなった。電車でもすぐに席を譲ってもらえたし、行く先々で皆が親切にしてくれる。特に大先輩である母親と同年代の女性は、見ず知らずの香夏子にも「大事にしなさいね」とか「お腹冷やさないようにね」と親身になって声を掛けてくれた。
 そして高山の結婚式の日が来た。
 香夏子は妊娠前も着用していた黒いワンピースを着ている。腹部がピチピチだが、案外ぽこっと突き出した部分がワンピースにかわいらしさを加味しているような気がして、十分満足していた。
 最初にチャペルの控え室へやって来たのは新婦のほうだった。これからメイクをするので彼女はすっぴんなのだが、リーチがかかっているとはいえ、さすが二十代だと香夏子は感心する。肌艶もよく、ハリがあり、幸せ色のオーラが全身からにじみ出ていた。
「香夏子さんと聖夜さんですか!? はじめまして、飯田桜(いいださくら)です。今日はよろしくお願いします」
 背丈はそれほど高くないが、ボーイッシュな印象の顔立ちで、立ち居振る舞いも爽やかだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
 聖夜がかしこまって言う。すると桜は恥ずかしそうに頬を染めた。
「あの、私、聖夜さんには何度かお会いしたことがあるんです。でも先輩の取材に同行していただけなので、今はなんかもう……スターに会ったときのように緊張しちゃってるんですけど」
「スターって……」
 困惑気味の聖夜を見て、香夏子は顔を背けて笑った。
 次に桜は香夏子に笑顔を向ける。
「高山から香夏子さんのお話はいろいろと伺っています。まさにイメージどおりの方です!」
「どんなイメージなんでしょう?」
「柔らかくて優しくて、でも適度な緊張感があって、高山は香夏子さんのファンなんですよ」
 今度は聖夜がクスッと笑った。香夏子も仕方なく「あはは」と苦笑する。
 挨拶が終わるタイミングでカメラマン三名と取材記者らしき女性が一名が入室してきた。ウエディングドレスを着るため、新婦用の控え室は広いのだが、聖夜と香夏子、更にチャペルのスタッフも含めると総勢八名になり、部屋の中はさすがに人の熱気がこもって息苦しく感じる。
 フェイスメイクが終わるまで聖夜と香夏子は部屋の隅にある椅子に座っていた。香夏子は自分の結婚式のことを思い出しながら、花嫁の背中を見つめる。
(でも自分の結婚式を仕事のネタにしちゃうところがすごいよね)
 桜を取り囲むカメラマンや記者は、最新のウエディング事情を特集する女性誌の取材でやって来たのだ。
 高山からその取材許可を求める電話が来たのはつい一週間前だったが、聖夜は二つ返事で承諾した。ただし、仕事の邪魔になったら即退室という条件はしっかりと伝えてある。
「では、聖夜さんお願いします」
 メイクの仕上がりはかなり濃い目だが、実際にドレスを着用すると違和感はなくなるのだろう。
 聖夜が鏡の前に立つと、桜は緊張気味の笑顔を見せた。同時に香夏子もドキドキする。桜の髪を掬い上げる聖夜の眼差しが鋭いものへと変化した。
 方向性が定まるまでの間、その視線は鏡と自分の手元を数回往復する。少し首を傾げて鏡の中を凝視していたかと思うと、聖夜はフッと笑顔になった。
「桜っていい名前ですよね」
 香夏子は聖夜の営業トークを複雑な気持ちで聞いていた。別にやきもちを妬いているわけではないのだが、それでも胸の中がチクチクするのは致し方ない。
(まぁ、あれも仕事だからね)
 黙々と作業に没頭している時間もあるが、楽しそうに会話している時間のほうが断然長い。しかし香夏子にできることと言えば、そわそわする心を宥めて余裕の笑みを頬に貼り付けておくことくらいだ。とにかく笑え、笑っておけ、と顔面の筋肉に命令する。
 そのうち女性記者が香夏子のそばにやって来て、「少しお話を伺いたいのですが」と言いながらスッと隣の椅子に腰かけた。逃げるわけにもいかず、曖昧な表情を作る。次の瞬間、フラッシュの閃光が自分に向けられた。
 ほぼ同時にカシャッというシャッター音。
 香夏子は「えっ?」と掠れた声を出す。何が起こったのかわからない。
「ちょっと」
 語気の荒い声が控え室に響いた。不機嫌な顔の聖夜がこちらへ歩み寄る。

「出て行ってくれる? 迷惑なんだけど」

 香夏子を撮影したカメラマンに、聖夜は顎でドアを差し示した。そして目を細めて女性記者をとらえると言った。
「妻への取材はお断りします。写真は消去して」
「あ、ごめんなさい!」
 女性記者は慌てて立ち上がり、カメラマンとともにカメラの液晶画面を覗き込んだ。
「これでいいですか?」
 差し出されたカメラを、聖夜は面倒くさそうに受け取って、画面を確認した。それから乱暴につき返す。
「気が散るから出て行って」
「はい、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
 女性記者は深々と頭を下げて、カメラマンと共にそそくさと控え室を後にした。
 心配そうにこちらを見ていた桜が「ごめんなさい」と小声で謝る。
「香夏子さんも、ごめんなさい」
「私は気にしていませんし、大丈夫です」
 香夏子は手振りを交えて桜に笑顔を見せた。しかし聖夜はわざとらしいため息をついて、不機嫌な表情のまま鏡の前に戻る。その後ろ姿を見ていると背筋がゾクッと寒くなった。
 聖夜は厳しい顔つきで床に視線を落とす。

「俺の仕事と香夏子は関係ない。好奇の目にさらされるのは俺だけで十分」

 鏡の中の桜が香夏子を見た。彼女は驚いたように目を見開いている。
「……私、今、めちゃくちゃ感動しました! 聖夜さんの『家族を守る』っていう気持ちがすごく伝わってきて……」
「あの、えっと……」
 香夏子は返事に困り、苦笑した。気を取り直すように聖夜が大きく深呼吸し、中断していた新婦のヘアセットの続きに取りかかる。
「男にできることって限られてるからね」
 しばらくして口を開いた聖夜は、香夏子を振り返って笑みを見せた。もう怒りをやり過ごしたようだ。その笑顔を見て香夏子もホッとする。
「妊娠も出産も、もしかしたら子育ての大半も奥さんに任せてしまうことになる。となると、やっぱり夫は全力で家族を守らなきゃ」
「素敵ですね。……高山に聞かせてやりたい」
 そう言って桜が笑うと、聖夜は「いいや」と首を横に振った。
「大丈夫。高山くんはちゃんとわかってるよ」
 香夏子も後ろで頷いた。高山は少し変わっているが、大事なものを大事にできる人間だ。
 桜は少しの間鏡台の上に置かれたブラシやピンを見つめ、それからおもむろに目線を上げると、「そうですね」とにこやかな笑顔でつぶやいた。その笑顔はまるで満開の桜の花のように美しい。
(きっといい結婚式になるね)
 花嫁の後ろ姿を見ながら、香夏子はそう確信した。
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