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第四部 異界

62 クピドは空気を読まない

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 その日の昼休み、知佳は図書室に向かった。

 本に用があったわけではない。人だ。
 生物のコーナーでポケットから手紙を取り出す。
 登校すると、下駄箱に入っていたのだ。
 いつかのメモ用紙とは違い、きちんとした封筒に入っていた。さっとポケットに隠し、授業中にこっそり内容を確認すると、几帳面に折り畳まれた便箋が出てきた。梅の花があしらわれたデザインだ。

 ――昼休み、図書室に来てくれると嬉しいです。

 きれいな楷書だ。いつかのメモと似ていると言えば似ている筆跡だった。しかし、この県では硬筆が人気の習い事らしい。だから、みんな同じような字になるのかもしれない。

「市川さん」

 頭上から声がかかった。いつもなら、急なことで驚いたかもしれない。その場で跳ね上がりそうになったかもしれない。しかし、知佳はただぼんやりと声の主を見上げた。
 五條の幼馴染みだという、図書委員の男の子だ。

「えっと……そのいろいろ大変なときにごめん」男の子は詫びた。「そして、ありがとう。来てくれて。すごく嬉しい」

 知佳の反応が鈍かったからか、男の子は補足するように、

「ああ、その手紙出したの俺ね。はは、古風だよな。意外性あるだろ」

 知佳は曖昧に相槌を打った。男の子は緊張した面持ちで言葉を紡ぐ。

「なんて言っていいかわからないけど大丈夫だから。森野さんはきっと……。友達だったんだよね?」

 知佳は少し迷った後、頷いた。

「あのさ……俺、この前の……その……黒板のこととかあって、市川さんのことずっと気にかけてたというか、いや、もうわかってるかもしれないけど、もっと前から気にかけてたというか。この前はちゃんと言えなかったけど、好きなんだ。市川さんのことが好きだ」

 男の子は顔を真っ赤にしていた。しかし、顔を背けようとはしない。知佳の顔を真っ直ぐ見下ろしている。

「なんでこんなときにって思うかもしれないけど、市川さんが傷ついたり悲しんだりしてるのを見たくないんだ。それでなんというかその……いや、いま言うつもりじゃなかったんだ。ただ励まそうと思ったらその……何言ってんだ俺」

 男の子は急に恥ずかしくなったのか、いったん目線をそらし、落ち着かない様子で頭を掻いたり、ポケットに手を突っ込んだりしはじめた。

「聞かなかったことに……っていうのはできないよな。でも、いいんだ。返事とか全然。いまは大変なときだし、急にこんなこと言われたって困るよな」

 男の子は知佳よりも頭ひとつ分以上大きい。距離が近いので、見上げていると首が痛くなってきそうだった。後退しようにも、背後は本棚だ。男の子の影が知佳をすっぽりと覆っている。

「でも、ここにだって市川さんの味方はいるって言っておきたかったんだ」男の子は続ける。「また登校するようになってくれて、本当にうれしかった。ほっとしたんだ、俺。転校したりしないよな? そんなの俺、嫌だから。好きな人がいなくなるなんて嫌なんだ。だから言っておきたくて」

 知佳は再度、男の子の顔を見上げた。男の子はぎょっとしたような表情を見せたが、耐えるようにして知佳の顔を見つめ返した。逆光でよく見えないが、暗い色の瞳だった。心なしか潤んで見える。白目も充血していた。

「はは、ごめん。ホントに何言ってるかわかんないよな」男の子は白い歯を見せて言った。「えっと……もしかして引いてる? 嫌でもなんでもいいから、何か言ってくれると助かるんだけど」
「ううん」知佳は笑みを作った。「うれしいよ。ありがとう」
「本当? それってワンチャンあるとかそういう……いや、不謹慎だよな。だけど、よかった。喋れないのかって心配し――」
「でも、ごめん」知佳は言った。「わたし、他にやることができたんだ」
「え、それってどういう――」
「だから、帰らないと」
「帰るって家? 早退するなら言っておくけど――」

 知佳は首を振る。

「ううん、そういう意味じゃなくて」知佳は言った。「大阪に」
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