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第四部 異界

58 母なる証明

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 その日の昼休み、知佳は数学準備室を目指した。
 冨士野に呼ばれていたのだ。

「失礼します」

 そう言いながら入室する。狭い部屋だ。「数学」の字が並ぶ本棚に、ロッカー、背の高いレターボックス、移動式のホワイトボード、そして教員用のデスク。部屋で唯一の人影に目が留まる。

 冨士野は椅子に座し、ブランケットを肩からかけていた。首にはネックピロー。目にはアイマスク。
 数学準備室を仮眠室にしているらしい。知佳に気づくと、アイマスクを上にずらし、ヘアバンドのようにした状態で話しはじめた。

「今年度も残り数週間となったわけやけど」冨士野は言った。「どや。学校には来れそう?」
「ええ、まあ」
「まあ、二年になればクラス替えもある。授業も選択科目が多なってクラスという単位の結びつきは弱くなるし――編成会議ではもちろん知佳やんの事情も考慮される。だから、もう二、三週だけ耐えてもらえる?」
「別に耐えるとか、ないですよ。大丈夫です」
「そ」冨士野は微笑んだ。「まあ、無理はせんようにな。単位さえ落とさんようにすればええよ」それから、こう付け足す。「もちろん、これは知佳やんが今後もうちに通うって前提の話やけど」
「そのつもりですけど」
「かもしれんけど」冨士野は苦笑した。「お母さん来はったんやろ?」
「ええ……まあ」
「聞いたやろうけど、先生も少しお話させてもらったんよ。……お母さんは知佳やんを連れてまた引っ越すつもりらしいね」



 母が市川家を訪ねてきたのは、日曜の昼下がりのことだった。

 ――さあ、知佳。お母さん、迎えに来たんだけど? 急にで悪いけどね、荷物をまとめといてちょうだい。NPOの人たちのおかげでいい街と職を見つけてね。あなたも大変だっただろうけど、人生は長いんだからこんなところでいつまでも燻ってるわけにもいかないわよ。動物のお医者さんになるんでしょう? お母さんもがんばるから一緒に踏み出しましょう。これでも子供に夢をあきらめさせるほど悪い親じゃないつもりよ。

 知佳は母親似だと言われる。顔や背格好、髪型もよく似ていて、二人で並ぶと年の離れた姉妹のようだと言われることもあった。知佳が母を「心衣こころちゃん」などと呼ぶのだからなおさらだ。
 しかし、会話のテンポはまるで違う。
 母は一度話し出すと止まらない。娘との会話が多い方ではなかったが、話すときは早口で一気に捲し立てる。

 その日も、市川家のリビングに通されるなり、コートも脱がずに本題を切り出した。

 ――あらあら、せわしないわね。少しはゆっくりしていきなさい。
 一方のおばさんは椅子に座したまま言った。
 ――ところで一つ質問なんだけど、その夢っていうのは知佳ちゃんから直接聞いた夢なの?
 ――わかったようなことを言わないでくれる? 疑うなら、この子の小学校時代の作文を見せてあげてもいいわよ。

 母は喧嘩腰だった。おばさんとは仲がいいと聞いていたのに。
 ただならぬ雰囲気に、足が躊躇する。呼ばれて降りてきたものの、リビングの方には入って行けない。階段で立ち尽くす格好で、旧知だという二人のやりとりを眺める他なかった。

 ――やっぱり直接聞いたわけじゃないよね。
 おばさんはあきれたように言った。
 ――あなたも相変わらずね、心衣こころ。むかしからそう。一人で抱え込んで、一人で勝手に決めて。受験、結婚、出産、それに離婚のことだって全部そうだったでしょう? 少しは知佳ちゃんの立場で考えてみたら? そんなころころと転校させられて、かわいそうじゃない。

 母は痛いところを突かれたときの癖で、髪を耳にかけ直した。

 ――しょうがないでしょう。事情が事情なんだから。知佳を預かってくれたことには感謝するけどね、だからってあなたにこの子のことでどうこう言われたくないわ。
 ――先輩の助言に耳を傾けるくらいのことはしてもいいんじゃない?
 ――参考にはしてるわよ。反面教師としてね。
 ――わたしだって自分が完璧な母親だったとは思ってないわ。でも、だからこそ見てられないのよ。子供が大人の都合で振り回されるのは、ね。
 ――あなたの個人的な内省に興味はないわ。過去の埋め合わせがしたいなら、まず向き合うべきは自分の娘じゃないかしら。少なくとも、わたしはそうする。だから、この話はこれでおしまい。さ、知佳。準備なさい。こんなところで時間を浪費することなんてないわ。
 ――向き合ってないのはあなたの方でしょう。知佳ちゃんのこと何もわかってないじゃない。さっきの問いにだってまともに答えてない。さあ、答えて。この子が自分の口で動物のお医者さんになりたいって言ったことがあるのかどうか。
 ――何それ。馬鹿馬鹿しい。ホント、あなたってくだらない人間になったわよね。
 ――そうかしら。むかしよりはよっぽどマシな人間になったと思うけれど。もしそう見えないなら、誰かさんが自分の理想を投影していただけじゃないかしら。

 二人はハブとマングースよろしく睨み合った。知佳のことはもはや眼中にもなさそうだ。部屋に戻っても気づかれないかもしれない。そう思っていると――

 ――か、母さんもおばさんもどうかしてる。

 割り込んだのは小町だった。話を聞いていたらしく、おかゆを抱いて知佳の背後から出てくる。

 ――知佳ちゃんは誰のものでもない。彼女の人生だって彼女のものだ。何も聞かずに全部勝手に決めるのは間違ってる。

 二人の母親は目を丸くした。

 ――でも――

 母は食い下がった。一方、おばさんは娘の剣幕に心動かされたらしく、言う。

 ――そうね。知佳ちゃん、いますぐじゃなくてもいいわ。あなたが決めるといい。あなたにはその権利がある。遠慮することなんてないわ。

 過保護なおばさんらしからぬ言動に少し驚く。しかし、おばさんは最後にこう付け加えた。

 ――もちろん、知佳ちゃんは賢い子だからどちらを選ぶべきかはわかってるでしょうけど。



「それで、知佳やんのいまの心境は?」冨士野は問うた。
「どうせ、どこに行っても同じことの繰り返しでしょう? 過去は消えないんですから」知佳は笑みを作った。「なら、もういいです。こういうことが起こる度、逃げてたら学校なんて通えないですし――それに、この街にも慣れてきたところですから」
「それに友達もできた?」
「そうですね」

 冨士野は微笑んだ。

「ええことやと思うよ。先生も巫女やったからな。あの頃一緒やった子たちとはいまでも連絡取ったりするんよ」
「そういえば、先生が巫女の頃はトラブルとかなかったんですか」
「まあ、それなりに。後輩の子たちが先生を取り合って刃傷沙汰になりかけたりしたくらいやと思うよ」
「それはそれなりどころじゃないですよね」
「もちろん当時は笑いごととちゃうかったよ。先生も若かったし――つくづく美しさは罪やなと思ったもんや。ふふ、懐かしいもんやな。気づけば、あれからもう二〇年以上。いまやあの二人も人の親や。片っぽは知佳やんくらいの娘もおる。他の巫女も先生以外はみんな結婚してもうた」

 冨士野は遠い目をして言った。

「あの頃のことはいい思い出や。でも、先生は選べなかったんや。誰も、何も。ただ心地よい居場所を手に入れて、それを維持することしか考えてへんかった。それが悪いことばかりとも限らんし後悔もしてへんけど、いまでもふと考えてしまうんや。あのとき、何かを選んでたらどうなってたんやろうってな」
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