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第三部 不浄

56 明けの明星を待ちながら

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 池には手すりが巡らされていた。カナは無言で手すりまで近づいていく。寒そうに背を丸め、手に息を吹きかけながら。

 手を擦り合わせ、手すりを掴む。鉄製だから冷えるだろうに、掴んだまま離さない。カナはそのまま何度か爪先立ちになっては踵を着く動作を繰り返し、それから大きく息を吐き出した。呼気に含まれた水蒸気が冷やされ、漫画の吹き出しのように白く濁る。

「何をやろうとしてたか、気づいてるみたいだな」
「たぶんね」知佳は言った。カナの隣で、同じように手すりを掴みながら。「……猫の心臓を取り出そうとしたんでしょ? それもたぶんはじめてのことじゃない」
「そこまでバレてるか。こりゃお手上げだ。ざまあないな、ホント」カナは空を見上げたかと思えば、すぐに俯いた。少し小声になって続ける。「まるでユキみたいだ。名探偵みたいに何でも見通して――」

 カナはそこで言葉を切った。それ以上続けられなかったのかもしれない。吐き出そうとした思いがあまりにも大きすぎて、胸で突っかえてしまったのかも。

「カ――森野さんは、?」

 カナは少し間を置いた後、無言で頷いた。顔を上げて続ける。
 
「現代の日本じゃ、人間の心臓なんて簡単には手に入らないからな。神様と値引き交渉してるとこだ。ってな」カナは続ける。「笑えるだろうけど、スーパーで心臓ハツを買って供えたこともあるんだ」
「それは、あのりんごの中に?」

 供物のりんごは中空になっている。小動物の心臓を入れるだけのスペースはあるだろう。

「ああ、あの日、始業式の日もそうだった。祠に供えたりんごの中に猫の心臓が入ってたんだ」カナは言った。「だけどきっと無駄だろうな。白雪姫だって、豚の心臓じゃ女王は騙せなかった」
「だから、あの日――」

 ――知ってるか。心臓の取り出し方。

「ああ、少し魔が差した」カナは頷いた。「鴨が葱を背負ってきたように思えたんだ。目の前にいる奴の心臓を奪ったらいいんじゃないかって……思っちまった」

 カナはそこでぶえっくしと大きなくしゃみをした。鼻が赤らんでいる。心なしか目も潤んで見えた。寒いな、と小声で呟く。

「そこまでするのは――」知佳は言った。「蒼衣ちゃんと瑞月ちゃんのため?」
「どうだろうな」カナは言った。「それも当然あるんだろうけど――自分でもよくわからないんだ。なんでこんなことをしてるのか。なんでこんなことになっちまったのか」

 カナは貯水池の水面を眺めている。まるで、そこにぷかぷかと浮かぶ水鳥たちが答えを教えてくれるとでもいうように。

「森野さんは――」知佳は言う。「天羽先輩とはどういう関係だったの?」

 カナは手すりを握ったまま振り向かない。しかし、ほどなくして訥々と言葉を溢しはじめた。

   *** ***

 さて、どこから話したもんか。

 前にも言ったよな。ユキとは中学で出会った。
 最初に会ったときは夢路だったけど、その後にユキ本人とも話す機会があった。あれはきっと待ち伏せされてたと思うんだけど――昼休みの掃除が終わった後、いきなり現れたんだ。
 あらかじめ瑞月や蒼衣から話を聞いてるらしくてな。会うなり言うんだ。

「君は天使のような子だね」って。

 いま思えば、あれは嫌味だったんだな。

 ああ、何せ悪魔みたいな人だったからな。天使だなんて全然褒めてないんだよ。
 聞いてるかもしれないけど、ユキはエゴイストってやつだったからな。
 ガキ大将とかそういうんじゃない。暴力は嫌いだったしな。
 見る前に散々安っぽいって貶してた映画でぼろぼろ泣くくらいには情緒豊かだし、気が向けば人を助けたりお節介も焼く。でも、それはあくまで自分が楽しいからだっていつも言ってた。

 ユキにとっての天使っていうのは下僕なんだ。
 天使っていうのは――そういうものなんだろ? 神様に使える召使みたいなもの。それは自分を持たない存在だって。

 自分じゃ何も決められない。何が大切かもわからない。自由であることが怖い。この不条理な世界に立ち向かう勇気がない。
 だから言いなりになるんだって。どこまで価値があるかもわからない、何のためにあるかもわからないルールや命令をありがたがるんだって。不条理に抗するため、不条理に服従する本末転倒に陥るんだって。
 我慢、忠誠、忍耐、そんなものは美徳でもなんでもない。ただの怠惰なんだって。それこそ大罪だって。そんな大罪人ばかりだから、世の中が停滞するんだって。一つもいい方向に変わらないんだって。

 正直、よく意味がわからなかった。ちょっと前まで小学生だった奴に言うようなことじゃないよな。

 別にさ、何も考えずに生きてきたわけじゃないんだ。信じられないかもしれないけどな。
 ユキはたぶん家のことを言ってたんだと思う。うちは大家族だから、それで、家事とか下のちびっ子たちの世話とか、あと当時はまだ生きてたばあちゃんの介護とか――色々あったんだ。

 それがきっとユキには考えられないことだったんだろうな。束縛されるのが嫌いな人だったから。出不精で横着なのに、締め付けられるとそこから抜け出そうとしたくなる、そんな天の邪鬼な人だった。

 でもさ、それはあくまでユキの感覚だろ? 家族はやっぱり助け合うもんだと思うし――本当に嫌で嫌でしょうがなかったら、逃げるなりなんなりしてる。たぶんな。

 だけど、不幸なことなんて何もないんだ。
 世の中、見渡せば不幸だらけだろ。ニュースなんて見てると、自分は恵まれてるんだっていつも思う。
 虐待されてるわけでもなければ、借金取りが毎日家のドアを叩くわけでもない。

 家族はみんな優しいし、ちびっ子たちは慕ってくれる。アヤは純粋だし、ニコは現実的でしっかりしてる。ハルは元気で、ノンは学者肌で将来が楽しみなんだ。両親だって言わずもがなだよ。働きながら五人の子供を育てるなんて並大抵のことじゃないだろ。ああ、世界一の家族だと思う。
 
 だけど、ユキにとってはそんなの関係ないんだ。周りと比べてどうとかじゃなくて、自分が嫌ならしない。そういう人なんだよ。
 でも、嫌かどうかなんて程度問題だろ。何をするのだって面倒と言えば面倒だし――だから、よくわからなかったんだ。
 ユキに言わせれば、それが自分がないってことらしい。自分で何かを選ばず、漫然と状況を受け入れていることが。

 だから、自分がを与えようって言うんだ。単純に、ユキ自身がそうしたいからってな。
 堕天したまえ、なんて大袈裟なこと言ってさ。それで、堕天使として、悪魔としての名前を与えてやろうって言うんだ。自由を享受するための名前、不条理に立ち向かうための名前を。

 それが「カナ」だった。

 これも嫌味だな。《仮名》ってことなんだから。嫌なら、自分で新しい名前を考えるといいって言ってたけど――でも気づいたらそれで定着しちまった。

《カナ》になってから、自分が何をしたいのかって考えてきた。
 でも、やっぱりよくわからない。
 それに――わかるのもなんだか怖い気がした。現実的な話、やりたいことが見つかってもできるとも限らないからな。それなら何も願わない方がましだとも思った。
 ユキにもそう言ったんだ。だけど、あの人は逆におもしろがるみたいに言った。
 それが人生なんだから諦めろ、って。矛盾してるよな。願いを持てって焚きつけておいてさ。でも、それがたぶん「不条理に立ち向かう」ってことなんだと思う。叶う保証がなくても願い続けるってことが、な。

 それから、ユキに連れ出されるようにしていろんなとこに行った。図書館とかレムリアとかゲームセンターとかショッピングモールとか、チョコレート工場、それに野球場も。
 ユキはいつも何か奢ってくれて、それが悪い気もしたけど、ユキは自分が無理矢理引っ張り回してるんだから当然の対価だって。

 そして尋ねるんだ。何かしたいことはないかって。

 でも、何も答えられなかった。そんな風に選択肢を突きつけられることなんてなかったから。

 選択肢があるのは、いつも決まった答えがあるときだけだった。テストだったりゲームだったり。そういうものには答えがある。それを考えればよかった。消去法的に答えを導き出せばよかった。

 だけど、ユキの問いかけに答えなんてなかった。いくら考えてもわからなかったんだ。
 どう答えるべきなのかわからなかった。
 だから、なんでもユキに決めてもらった。クレーンゲームで狙う景品も、アイスのフレーバーも、応援するチームも。
 ユキはいつも呆れたような顔をして、それから自分が好きな本やキャラクター、アイス、野球のチームについて楽しそうに語るんだ。まるでお手本を見せるみたいに。まあ、半分くらいはその場限りの出まかせだったけどな。

 ちなみにだけど、ユキはこのことを瑞月や蒼衣には秘密にしてた。秘密にして楽しんでた。
 瑞月たちはユキに恋人ができたんじゃないかなんて憶測してたっけ。あの頃は二人とも巫女やりんご様のことなんて信じてなかったからな。まさか、その「恋人」が目の前にいるとは思ってなかったみたいだった。

 それで、あれはユキが消える少し前のことだった。

 ちょうど、向こうにある公園で釣りをしたんだ。
 でも、なかなか魚が引っかからなくて――それでユキはずっと喋り倒してたんだけど、話の流れで海に行くことになったんだ。

 というのも――ここって海なし県だろ? それでさ、海に行ったことがあるかって訊かれたんだ。ないって答えたら驚いてたっけ。学校の遠足や修学旅行で行く機会くらいあっただろって。

 たしかにそうだった。何度かそういう機会があるにはあった。でも、そういうときに限って風邪を引いたり骨折して入院したりするんだ。
 だから、行ったことがなかった。

 ユキは海がどんなものか説明したっけ。行ったことがなくたってわかるようなことばっかりだったけど。
 地球の表面積の七割は海だとか、生命の起源は海だとか、そういう雑学の類だな。
 聞いてみれば、ユキだってろくに海なんて行ったことがないんだ。本来はインドア派で出不精な人だったからな。
 なのに、なぜかいつも人を連れ回して――まるで人をいい口実みたいにして自分がしたいことをして――

 ああ、悪い。話が逸れた。

 とにかく、それでふと、海っていうのは実際に見たらどんなものだろうって思ったんだ。
 そしたらユキはそれを見透かしたように、いつか二人で海に行こうって。約束だって。
 そのときは真冬だったから、どうせ行くなら暖かくなってからにしようって、そう一方的に約束したんだ。
 指切りなんてさせられてさ。
 ユキは、笑ってた。いつも通り悪魔みたいに笑ってた。自分が神様に消されるなんて思いもしなかったみたいに。

 ユキがいなくなったとき、正直なところどう受け止めればいいのかわからなかった。
 そりゃあ瑞月や蒼衣は心配してたし、後悔もしてたけど――
 それを言うなら、ユキを信じてたのに何もできなかった奴はどうなるんだろうな。

 ああ、信じてた。
 なぜかはわからない。単純にユキのことをよく知らなかったからかもしれない。
 だけど、ユキのそういうめんどくさい部分を知ってからも確信は揺るがなかった。
 ユキが無数に撒き散らした嘘と、りんご様の話はなんだか違うような気がした。なんでだろうな。でも、わかったんだ。いや、信じたいと思ったのかな。どうしてだろ。

 ユキが大変な状況にあることも、ぼんやりとはわかってた。たまに自虐混じりで漏らしてたからな。瑞月や蒼衣が思うほど自分は器用じゃないって。
 だけど、何もしなかった。できなかった。
 何かできることがあったとも思わないけど――でもどこかで楽観してたのかもな。ユキだって自分がいつ消されるのかまではわからなかった。だから、案外、どうにかなるんじゃないかって。瑞月たちと一緒に巫女になればって。
 自分にできることなんて何もないから、何も起こらないって思いたかったのかもしれない。

 だから、そうだな。少し負い目を感じたのかもしれない。それに試したい気持ちもあったのかも。
 自分が何を望むのかを。自分の意志で何かを選んだらどうなるのかを。

 単純に瑞月たちを見てられなかったっていうのもあるよ。あの二人はユキと長い付き合いだからな。だから、どうにかしたいっていうのもあった。
 いや、それなら自分でもうまく願えそうな気がしたんだ。困ってる友達を助けるっていうお題目なら。

 別にダメならダメでもよかったんだ。ただ、他にやりたいこともなかったし、せっかく思いついたのにやる前から諦めるのももったいない気がした。
 望みがないってことがわかるだけでもすっきりするだろうし、それでいいと思ったんだ。

 最初はスーパーでハツを買ってきて試したりしたけど何も起きなかった。

 その次は鳩を捕まえて捌いた。次は猫。犬を拐ったこともあった。
 正直、気持ちがいいもんじゃないよな。鳩はまだ食べられるからいいけど、猫や犬はどうしようもない。無駄に命を奪う結果になった。
 ああ、川に流したんだ。それで、一匹見つかった。
 重石でもつければよかったのかもな。だけど、なんかそれはかわいそうな気がした。せめて海に還してやりたかったんだ。

 海っていうのがどういうものかはわからないけど、そこが生命の故郷だって言うんなら、そこに返してやるのがせめてもの手向けになる気がしたんだ。

 ……そうだな。なんでだろうな。なんでこんなことしてるんだろう。ダメなら諦めるつもりだったのに。
 もしかしたら――もう何もなかったころには戻りたくないのかもしれない。あるいはその逆にここから先に進むのが怖いのかもしれない。

 そう、まだ人間の心臓は試してないからな。

 ……さあな。自分でもよくわからない。ユキは自分にとってなんだったのか。なんで、こんなに考えちまうのか。
 だから、もやもやする。
 だから、望みがあるのかどうかはっきりさせたい。
 望みがないなら、それでもう諦めがつく。もう考えなくても済む。だから――

 それがわかるまでは、たぶん止まれない。
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