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第三部 不浄

55 犯人の名が明かされる

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 市川家から西に進むと、川にぶつかる。区域を南北に横切る小さな川だ。川はさらに南で一級河川と合流し、海へと注ぐ。

 ――結論を述べよう。むかい夢路ゆめじはりんご様ではない。彼女は自ら死を選んだのだから。添付した資料にあるように、彼女の死体には傷らしい傷が見当たらなかった。心臓を取り出すための切れ目があっただけ。詳しい記述はないが、その傷も死後につけられたものである可能性が高い。考えられる死因は毒死くらいのもだろう。もちろん、他殺の可能性もある。しかし、問題なのは、夢路さんが自らの死の状況について詳しい表現を避けていることだ。これは歴代の巫女に対しても同様だったらしい。ならば、そこには理由がある。彼女が知られては困る何かがある。

 川の流れに沿うようにして強い風が吹き付けてくる。向かい風だ。知佳は歯をがたがたと震わせながら、ペダルを漕ぎ続けた。北へ、北へと向かう。

 ――夢路さんが最初に依代と交信し「神託」を下す前から、彼女は中女なかじょでその存在を知られていた。哀れな女学生として悼まれると同時に、怪談に登場する怨霊として恐れられていたのだ。彼女はその立場を利用して神様を名乗り、依代を通したパフォーマンスでそれを信じさせた。迎夢路という霊魂の存在を。神様としての権能を。

 やがて橋を見つけると、知佳は川を渡って区域の西部を目指した。

 ――尤も、これを読んでいる君たちには信じがたいことかもしれない。は夢路さんの存在を確信できるが、君たちは違う。夢路さんの霊魂が実在することを前提とした結論には鼻白むだろう。君たちの誰かが依代となって夢路さんを宿すなら別だけどね。

 区の西側には、どこか昭和の雰囲気を感じさせる町並みが残っている。むかしのドラマで見るような古い一軒家やアパート、銭湯……

 ――信じろとは言わないさ。その資格があるとも思わない。これまで散々、嘘と真実の境界線で戯れてきたんだ。いまさらどれだけ尤もらしいことを書いたところで、新作の小噺と受け止められるのがオチだろう。

 森野家はそんな町並みの一角に埋もれるようにして居を構えていた。

 ――だけど、それでいい。この文書に最後まで目を通してくれるならそれで。いつものように半信半疑で眉をひそめてくれればそれで。この《D文書》は僕の、天羽あもう六花りっかの遺作となるだろうだから。

 何軒か並んだ一軒家の、ひとつ。青い瓦が目を引く二階建ての一軒家だった。

 ――巫女や依代の仕組みは一九五〇年代にはすでに確立されていた。詳しくは、この文書に記したOGたちの証言に目を通してほしい。遡れたのは一九五七年までのことだが、その頃には巫女や依代の仕組みが存在したことがわかっている。

 知佳は森野家が見えるギリギリの距離で自転車を止めた。水筒の蓋を開け、ココアを注ぐ。息を吹きかけながら、ちびちびと飲む。

 ――さて、夢路さんがそういう仕組みを作ったとして、どういう意図があったのだろうか。彼女が神隠しみたいな特別な力を持たない、ただの亡霊、地縛霊みたいなものとして――なぜそんな仕組みを作る必要があったのか。

 手袋を外し、スマートフォンのロックを解除する。寒さでうまく指が動かない。森野家も気になった。天気予報をチェックして、ふたたびスリープモードに移行する。

 ――正直なところ、僕にもよくわからない。りんご様や巫女の仕組みのうち、どこからどこまでが夢路さんの発案によるものなのかも。もしかしたら夢路さんは生者が作り上げた「設定」に少し手を加えただけなのかもしれない。彼女が最初に「神託」を下す以前に、この信仰は完成していたのかも。

 知佳には予感があった。だから待ち続けた。

 ――何であれ重要なのは、夢路さんは神として振る舞うことを決めたということだ。神隠しという脅威をちらつかせることで巫女に信仰と供物を求める神、りんご様として。

 やがて、森野家のドアが開いた。小柄な影が姿を現す。カーキ色のモッズコートに身をくるんだ、少女だ。

 ――もしかしたら夢路さんはただ、現世との接点を持ち続けたかっただけなのかもしれない。同世代の話し相手がほしかっただけなのかも。孤独になることを恐れたのかも。だから、祟りを振りかざしてでも巫女を求めた。

 知佳は徒歩で跡をつけはじめた。

 ――そうであるなら、巫女の掟に意味などない。強いて言うなら、何かしらの掟を課すことそれ自体が目的なのだろう。厳しい掟では巫女のなり手が途絶えてしまうが、一方で、掟が存在しないのでは神様と巫女という関係性は成立しない。

 影は道中で何度か辺りを見回すような仕草をした。寒風に身を縮め、くしゃみを漏らす。

 ――ところがどうだろう。巫女のなり手が途絶えたときUFO事件が起こった。

 影は西へと向かっていた。区の西端へ。彩都市の西端へ。隣市との境となる一級河川が流れる方角へ。

 ――推論ばかりだが、夢路さんとは別に《神様》が存在するという根拠がないわけじゃない。僕はそのの有力な候補にまで見当をつけている。

 影は途中で猫を拾った。どこからともなく現れた黒猫を一瞬で手懐けたのだ。何か餌をやったようにも見えた。足にすり寄ってきたところを抱え上げて、西へと歩を進める。

 ――歴史の授業で習ったと思うけど、近世までは神仏習合の考え方が支配的だった。本地垂迹と言って、日本古来の神様を仏様の化身とする考え方もあったくらいだ。だが、それでは都合が悪かったのが明治政府でね。富国強兵、列強に追いつけ追い越せの時代、中央集権的な国家体制を作るには、この国にもキリスト教のような一神教が必要だったんだよ。そこで利用されたのが神道だった。政府は、平田篤胤ら国学者の提唱した復古神道の思想を元に神道と仏教を厳密に区別し、全国の神社を体系的に整理した。そうして天皇を頂点とする一神教として神道を再定義し、国教化したんだ。神仏分離令が布告されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動によって寺院や仏具が打ち壊された。多くの神仏が家を失ったと言える。りんご様もそうした神様の一柱だった。僕はそう考えている。

 影は土手の階段を登った。一級河川の脇にある貯水池の畔へと降り立つ。

 ――近代化にあたって、明治政府は同時に教育機関の整備も急いでいた。だけど、人口が密集する地域ほどまとまった用地を見つけるのが大変でね。学校の怪談のオチでよくあるだろう? この学校はもともと墓場だったんだって。あれも、あながち創作ばかりとも言い切れないんだ。墓場の広大な土地を学校の用地として転用することも当時は多かったから。

 影は猫を離した。猫は戸惑ったように辺りを見回す。そして、影を見上げる。

 ――僕は図書館でこの街の古い地図を見つけた。コピーしたものを添付するので確認するといい。見づらいかもしれないけど、中高が建っている辺りに寺院があるのがわからないだろうか。

 猫が見上げた先にいるのは、一人の小柄な少女。癖のあるマッシュウルフの少女――

 ――学校の南側に《稲荷坂》という急勾配の坂道がある。あれは、その寺院が名前の由来だったようだね。廃仏毀釈運動によって打ち壊され寺院の。

 知佳は地面を蹴り出した。

 ――稲荷と言ったら、狐だろう? そのお寺で祀られていたのも、狐と縁深い神様でね。狐に騎乗する形で描かれることも多かった。仏教の神様だが、狐を介して稲荷信仰と結び付いていったらしい。そして本地垂迹の思想では、五穀豊穣を司る神、宇迦之御魂神ウカノミタマノカミと同一視され、全国の稲荷社で祀られるようになった。

 影はしゃがみこみ、猫の頭を撫でていた。そしてもう片手を猫の首に回す。そのまま持ち上げ――

 ――仏教には、インドの神話に由来する神様が多い。阿修羅や迦楼羅といった、いわゆる八部衆の面々もそうだし――、その神様も元はインドの悪鬼羅刹の類だったと言われている。

 知佳は息を切らしながら、影の名前を叫んだ。

 ――仏典『大日経』の注釈書である『大日経疏』によると、その悪鬼は、人黄と呼ばれる生命力の源を糧に呪術を行い、自由自在に移動し、意のままに望みを成就することができたという。人を支配し、病気で苦しめることもできたようだ。そんな悪鬼が大日如来に諭され、仏道に帰依した。

 影は猫を手放した。猫は一目散に逃げ去る。影の曇った瞳が知佳の方へと振り向く。

 ――その神様は密教においても重要な役割を担うとされている。また、近世以降は、民衆に広く信仰される庶民的な存在となった。

 見つかっちゃったな、と影は呟く。

 ――その神様の名前は――

 知佳は影に言った。

 ――荼枳尼だきにてん。それが、本当のりんご様かもしれない神様の名前だ。

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