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第三部 不浄

52 シュガー&スパイス

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 ――なんてね、冗談だよ。

 体に強い衝撃を感じた。どこかから落ちたらしい。白いリノリウムの床が目に飛び込んでくる。

 ――まさか本気で襲うと思った?

「大丈夫?」と慌てたような声が聞こえた。

 ――でも気を付けた方がいいよ、お姉ちゃん。こんな無防備に男の部屋に上がるものじゃない。男はみんな野獣なんだから。

 ここはどこだろう。市川家の部屋ではない。白いシーツのベッドと、仕切りのカーテン――おそらく保健室だろう。

 ――早く帰った方がいい。じきに父さんたちも帰ってくる。それに――僕だって野獣にならないとも限らない。もう子供の頃とは違うんだ。

 気を失う前のことを思い出す。

 ――いい? 君は今日ここに来なかったし、僕とも会わなかった。忘れるんだ、全部。今日会ったことも、僕のことも、それに、実理のことも。

 知佳は黒板の写真を見て――

 ――その方がきっといい。

 吐き気がこみあげてくる。思わず口許を押さえた。

 ――わかるだろ、知佳ソフィ

 誰かにここまで運ばれて寝かされていたらしい。そして寝返りを打った際、転げ落ちた。そう理解が追い付く。

「市川さん」

 知佳は床にへたり込んだまま、声がする方を見上げた。二対の瞳が心配そうに見下ろしている。青みがかった瞳と、深い黒の瞳だ。

 手が差し伸べられる。知佳は反射的にその手を掴んでいた。二人の力で引っ張り上げられる。いったん立ち上がり、ベッドの上に腰を下ろした。

「どうして」知佳は問う。対面の椅子に座す二人に。
「どうしてって、ねえ」蒼衣は瑞月を見やった。
「そうだよ、友達の心配するのは当たり前じゃないか」
「友達なんて……」
「そうね。そこは市川さんがどう思うか次第だけど……」蒼衣は言った。「わたしたちはあぶれ者だからその分フットワークが軽いのよ。他の人がどう思うかなんていまさら気にしないし、思うままに動くだけ。友達が大変なときは迷わず寄り添うわ」
「まあ、ボクはクラス違うけど――」瑞月は言った。「蒼衣からメッセージが来て、いてもたってもいられなくなっちゃった」
「でも、わたし、あれからずっと――」

 蒼衣たちを遠ざけていた。話そうともしなかった。

「そうね。わたしたちも臆病になってた。市川さんが決めたことならしょうがないって……自分に言い聞かせて。だからいったん距離を取ることにしたのだけれど――」
「でも、こんな状況なら話は別だよ」瑞月は言った。「ボクだってもう後悔したくないし。それに、このままじゃ嫌だって思ったから」
「だから、本当にごめんなさいね」蒼衣は詫びた。「わたしたちの勝手でここまで来ちゃった。それに――ずっと隠しごとをしててごめんなさい」
「ボクからも謝らせて」瑞月は言った。「ごめん」

 知佳は息を飲んだ。そしてシーツを強く掴む。

「違うの」知佳は首を振った。「そうじゃなくて。だって、わたしもずっと秘密にしてたから」
「……弟さんのこと?」蒼衣は言った。すでに事情は知っているらしい。

 知佳は無言で頷く。

「でも、そんなの話したくなくて当然じゃないか」瑞月は言った。「別にそのことで裏切られたとか騙されたなんて思わないよ」
「同感だけど」蒼衣は言った。「市川さんが気にしてるのはそういうことじゃないみたいね」

 知佳はシーツを握る手を緩め、ゆっくりと言った。

「……わたし、ショックだった。みんなが自分に隠しごとしてるって知って。わかってたはずなのに。自分はふらりとやって来た部外者で、つかず離れずの距離を居心地よく思ってただけだって。なのに、アヤちゃんのことを知ったとき、裏切られたって思った。そんな資格ないのに。自分だって秘密があるのに、どうして教えてくれなかったんだろうって、理不尽なことを……思っちゃった」

「それって……」瑞月は困惑したように言った。

「つまり、市川さんは寂しかったのね」蒼衣は言った。「誰にも言えない秘密を抱えて、だから自分が隠しごとをされても文句は言えないって、そう思ってた。それでいいと思ってた。だけど、実際に大事なことを隠されてたのを知ってショックを受けた。仲間外れにされたみたいに感じた。そのことに自分でも戸惑っちゃったのよね」

 寂しかった、と心の中で繰り返す。そうなのだろうか。わからない。しかし、あえて否定するほど的外れな要約でもない気がした。

「……いま、授業中だよね」

 蒼衣と瑞月は授業を受けなくていいのだろうか。

「そこは冨士野先生がなんとかするから」蒼衣は言った。「ちなみに、保険の先生はちょっと外出中。それより、気分はどう? 悪くない?」
「よくわからない」
「喉は乾いてない? お腹は?」
「そういえば、朝何も食べてなかった」
「それは大変だわ。何か食べるものは――」蒼衣は言いながらポーチの中を漁る。そして、口を赤いリボンで結んだビニールの小袋を取り出した。「あら、こんなところにチョコがあるじゃない」
「それって」
「そう。手作りよ」蒼衣は知佳に小袋を渡した。「練習の成果を見てもらおうと思ってね」

 知佳は一泊置いたのち、小袋のリボンをほどいた。袋の口を広げると、円錐台形のチョコがいくつか入っていた。

「食べていいの」
「もちろん」

 知佳はチョコをつまみあげた。よく見ると少し歪んだ形で、数式で体積を求めるのは骨が折れそうだった。しかし、問題なのは体積ではない。味だ。そして、それは口に含めばすぐにわかる。知佳は意を決して口を開いた。

「どう?」

 正直なところ、手作り感は拭えない。しかし、最後に試作したものよりは口当たりがよくなっていた。カカオの苦味と甘さ、そして――

「上達したね……」知佳は言った。「口溶けもいいし……でも、この辛いの何?」

 多少ではあるが、舌が痺れるような辛さがあった。

「山椒だけど。スイーツとも合うでしょ?」

 そう言えば、最初のレッスンでやけにスパイスを推していた。

「蒼衣は辛党だから……」
「どう?」

「変な味」知佳は率直に言った。「これまで食べたことない」

 知佳はそこで俯いた。

「口に合わなかった?」
「違う。違うの」知佳は首を振った。そして、左胸をぎゅーっと掴む。「ただ胸が痛くて、苦しくて」
「蒼衣、山椒の他に変なの入れてないよね」瑞月が訝しげに問う。
「そうね」蒼衣は深刻ぶって言った。「そういえば、もうひとつとっておきの隠し味スパイスがあったわ」
「それって――」瑞月は問うた。

 蒼衣はウィンクする。


「そういうのツッコミづらい空気のときに言わないでほしいなあ……」
「わたしはいつでも本気よ」
「いや、蒼衣が照れ隠しで冗談めかすのは知ってるんだけどさ」瑞月は言った。「えっと、市川さん。ボクも作ってきたから、後で受け取ってくれる?」
「うん」知佳は頷いた。「……わたしも二人に渡すね」
「それは楽しみね」蒼衣は微笑んだ。「実はチョコの他にもうひとつ渡すものがあるの」

 蒼衣の言葉を受けてか、瑞月はポーチに手を突っ込んだ。そして、一冊のノートを取り出す。

「思わぬ形になったけど、お互いもう隠しごとは終わりにしましょう。市川さんにはわたしたちが知るすべてを知ってもらうわ」
「もしかしてだけど、それが《D文書》?」
「ええ」

 瑞月はそのノートを知佳へと手渡す。

「やっぱり持ってたんだ」
「ええ。黙っててごめんなさい」
「いいよ。わたしに知る資格なんてなかったんだから」
「……色々と書いてあるけど、最初に重要なことを言っておくわね」
「うん。でもだいたいもうわかってると思う」知佳は自分の言葉に驚いた。しかし、すぐに納得が訪れる。「ひとつ確認してもいい? 夢路さんの遺体は眠ってるみたいにきれいだったんだよね?」

 蒼衣と瑞月は揃って目を丸めた。

「ええ。でも――」
D?」
「いまの反応でわかった」知佳は言った。「?」
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