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第三部 不浄

46 ゴーン・ガール

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 作業室の手前には誰もいなかった。
 渡り廊下の入り口で立ち止まったまま、知佳は無人の廊下を眺める。その後ろを二人組の男子生徒が漫才の練習のようなやりとりをしながら横切って行った。
 ボケツッコミの応酬を聞くともなしに聞きながら、いつかのカップルを思い出す。あの二人はいまどうしているだろう。いまもどこかで乳繰り合っているのだろうか。
 やがて二人組が遠ざかると、廊下は物言わぬ空間となった。
 グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえる。階下からは吹奏楽部の演奏が。車の走行音、鳥の鳴き声、音が幾重にも重なって、この場所、この時間だけの音楽を作り出す。
 そこにはきっといかな意思も意図もない。すべての音はただあるがままに鳴り響き、しかし、予定調和の旋律を刻む。
 決めるのはわたしじゃない。だけど、わたしだ。
 知佳は一つ息を吸うと、無人の廊下を横切り、作法室のドアに手をかけた。

「待ってたわよ」蒼衣は笑顔とともに出迎えた。「お茶、淹れるわね」
「ごめん。遅れちゃって」知佳は詫びた。「図書室に寄ってて」
「あら、御愁傷様」蒼衣はいつかのように言った。「何か借りた?」
「ううん、返しただけ」
「そう」

 知佳はスリッパを脱いで座敷に上がった。

 瑞月が優雅にお茶を飲んでいる。この仕草は夢路だ。
 カナは草加煎餅をばりばりと食べている。

 知佳はコートを脱いで畳み、リュックを床に下ろして、炬燵に足を突っ込んだ。

 蒼衣が知佳のカップにお茶を注いだ。

「どうぞ」
「ありがとう」

 知佳はカップを傾けた。コーヒーほどではないが、紅茶にもカフェインが含まれている。興奮作用をもたらす物質だ。これからの行動にどのような影響を及ぼすだろう。

「ときに、蒼衣。少しは練習してるんでしょうね」夢路が尋ねる。
「あら、何のことかしら」
「チョコよ、チョコ」夢路は言った。「大切なのは気持ちだとは言ったけれどね、出来が微妙すぎて空気が悪くなるのだけは勘弁願いたいわ。みんないたたまれなくなって漠然とした褒め言葉しか言えなくなるようなのは、ね」
「無理しなくていいぞ」カナは言う。「人間、向き不向きがあるからな」
「そうね。それは同意。でもやってみなくちゃわからないこともあるわ」
「志だけは立派ね」夢路は言った。「精々、精進なさい。精神的に向上心がない人間は馬鹿だもの」

 歓談はそこで途絶えた。蒼衣は文庫本を開き、カナは両手で頬杖を突きボーっとしてた。夢路は寝不足なのか舟を漕ぎかけているが、何とか寝まいとしながらスマートフォンをタップしていた。

 知佳はリュックからノートを取り出す。作法室で課題や予習をすることも多い。だから、これは何も不自然な行為ではない。そう言い聞かせて、ページを開く。そして、授業を振り返る風を装いながら尋ねた。

「ねえ、みんなはわたしの中に夢路さんがいるって言ったら信じる?」

 この部屋の沈黙は、各人があるがままに振る舞った結果生まれるものだった。それが知佳の一言で、各人の意思に基づく沈黙へと変わった。言葉を紡ごうにも紡げない、そんな沈黙に。凍った空気を溶かすように空調音が響く。

「何を言い出すかと思えば」夢路はため息とともに沈黙を破った。「あり得ないことを言うものじゃないわ。あなた、こっちに来たのは最近じゃない。これまでの依代はみんなこのあたりの少女だったのよ」
「いや、あり得ない話ではないだろ」カナは言った。「たとえば、知佳が越してきてから、その前の依代が事故死でもすればそういうことも起こり得るんじゃないか」
「つまり、ゆーさんからいったん別の依代を経由して――ってことね」蒼衣は言った。「その場合、ここにいる夢路さんは偽物ってことになるけど」
「だから、あり得ないのよ」夢路は言った。
「わたしも何も自分がそうだって主張してるわけじゃないよ」知佳は言った。「わたしが言いたいのは――、もし自分が依代になったとしても夢路さんが接触を図ってこなければ自覚できないってこと。依代は夢路さんと念話みたいなことはできないんでしょ?」

 解離性同一性障害でも、人格間のコミュニケーションが可能な場合とそうでない場合がある。そもそも、他の人格の存在を自覚できないことも多い。

「また余計な心配をしたものね」夢路は呆れたように言った。「たしかに、夢路にそういうことはできないわよ。瑞月とやりとりしようと思ったら、紙かスマホを経由するしかない。だけど、夢路がこうして存在する以上、そんな可能性はないから安心なさい」
「そうだな。完全に否定もできないけど根拠もないのに疑ってもしょうがない。可能性っていうなら、世の中可能性だらけだしな」
「そうね、それを言い出したらわたしたちだって自覚がない依代の可能性もあるわけだし」

「じゃあ、根拠があったら?」知佳は言った。「自分の中に夢路さんがいるかもしれないっていう根拠」
「客観的に依代であることを証明するのはむずかしいだろ」
「そうね、市川さんはもうりんご様にまつわることをおおよそ知ってしまったわけだし。依代しか知りえないこと、というのは限りなく少ない。ゆーさんみたいに、巫女と接触する機会がない状態でないと、説得力には欠けるわね」
「そうだね」知佳は言った。「それは尤も」

「本気で言ってるわけじゃないんだろ」カナは二枚目の煎餅に手を伸ばした。
「発想としてはおもしろいけれどね」蒼衣は言った。
「さっきも言ったけど自分がそうだって主張するつもりはないの」知佳は弁解した。「ただ、みんなの意見が聞きたいだけ。

 知佳はノートのページをめくった。最後のページに折り畳まれた切れ端が挟まっている。
 知佳はそれを広げ、炬燵の上に置いた。カナたちが目線を向け、文字を追いはじめる。


 はじめまして、市川知佳さん。

 わたしは迎夢路。知っているでしょうけど、りんご様と呼ばれる存在よ。

 五日前、先代の依代が自殺してあなたに宿ることになったわ。

 ちなみに、その前はあなたもご存じの天羽六花に憑いていた。

 この二日、あなたの中から《茶楽部》の様子を見させてもらったからだいたいの状況は把握しているつもり。

 詳しいことはまた改めて伝えるけど、ひとつだけ忠告しておくわ。

 カナたちはまだ、あなたに《D文書》のことを話してないみたいね。

 彼女たちはもう持ってるわよ。

 嘘だと思うなら鎌をかけてみなさい。神隠しに遭った親友を取り戻すため、心臓を捧げた少女について、ね。


 反応は各人各様だった。カナは動じた様子もなく、黙々と目線を動かしている。蒼衣は言葉を失ったように、真剣な表情。夢路――瑞月は震えていた。

「これ、」夢路と瑞月の中間のような声音が漏れた。そして、失言に気づいたのか、はっとした表情を見せる。
「否定しないんだね」知佳は言って切れ端を下げた。「やっぱり知ってたんだ」

 三人は押し黙った。否定も肯定もなく、目配せで申し合わせることすらできず凍りついている。

「違うのよ」蒼衣は言った。「ただ――」
「わかってると思うけど、これはわたしの作文だから」知佳は言った。「わたしは依代じゃない。たぶんね。少なくともそう疑う根拠はない」

 知佳はリュックを手に立ち上がった。もう片手にコートを下げ、ドアを目指す。

「知佳」夢路の声音だ。子供を叱りつけるような声。「座りなさい。あなたには説明する義務がある」
「説明を聞く権利がある、の間違いじゃないの?」知佳は振り返らずに言った。スリッパに足を突っ込む。
「知佳!」夢路が繰り返す。
「最初から――」知佳は言葉を絞り出した。「最初からわかってた。どっちでもいいと思ってた。どうでもいいと思ってた。何が本当だってかまわないって。わたしは何も――信じないから」
「市川さん」蒼衣が呼ぶ。
「でも、騙されてるってはっきりわかったときは考え直す。それもずっと決めてたことなんだ」
「知佳」カナが呼ぶ。

 知佳はドアを開け、「何?」と尋ねた。

「辞める気なら、手続きだけはちゃんとしてくれ」
「カナ!」夢路はがなった。
「最初から知佳は部外者だったんだ」カナは言った。「そうだろ」
「違うのよ、市川さん」蒼衣が言った。「カナちゃんは巻き込みたくないっていう意味で」

 知佳は振り向いた。三対の瞳が自分に向けられている。

「巻き込んだのはそっちじゃない」知佳は唾を飲み込み、努めて冷静に聞こえるよう言った。「巫女に誘ったのは誰? 友達になろうって言ったのは」
「そうだな」カナは認めた。「でも、嫌ならいつでも出ていけばいい。誰も止めないから」カナはそう言って、いつもそうしているようにごろんと横になった。背を丸め、炬燵の布団を体にかけるようにして。「行くなら早いとこ行ってくれると助かる。ドアが開いたままだと寒いからな」

 カナはこちらに背を向けていた。表情や声音からはいかな感情も読み取れない。

「……わかった」知佳は言った。「今日は帰るけど、手続きはちゃんとするから」
「カナ。拗ねてるの? そんなのらしくな――らしくないわよ」夢路が声をかける。カナは何も答えない。「って、寝てる? まさか。狸寝入りよね? カナ、なんとか言ったらどうなの。カナってば。こんな子供みたいなこと――」
「嘘みたい。カナちゃんがこんな――」

 知佳は作法室の喧騒を背に、ドアを閉めた。

 深呼吸を繰り返し、ばくばくと脈打つ鼓動を押さえ込もうとする。まったくこの心臓ハートというものはどうしてこうもままならないのだろう。
 きっとカフェインのせいだ。思えばいつもより苦味が強かった。長い時間をかけて煮出したのだろう。カフェインだって多かったに違いない。
 自分にそう言い聞かせながら、知佳は歩きはじめた。

 渡り廊下から、先ほどの漫才コンビが歩いてくる。二人は知佳に気づくと、ぎょっとした様子でボケツッコミの応酬を中断した。

「えっと、大丈夫?」眼鏡の方が問いかけてくる。その袖を裸眼の方が掴み、小声で「おい」と呟いた。あえて訳すなら、「ほっとけや、ボケ」といったニュアンスだろうか。

 なんなのだろう。そう思いながら通り過ぎ、渡り廊下にたどり着いたところでようやく異変に気づいた。

 どうして。

 知佳はその場で俯き、左目の目尻を拭った。信じられない思いで、指に付着した水滴を見つめる。

 左目から一滴だけ零れた涙を。
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